「両親が憎くは、ありませんか?」
「毎日毎日、どこほっつき歩いてんのよッ!」
「うるせぇ! どこで何してようが俺の自由だ! 誰のお陰で専業主婦なんかやってられると思ってんだ!?」
「なによッ、あたしだってやりたくてやってるわけじゃないわ! あんたがあいつの面倒見ないからじゃない!」
「ならなんで産んだんだよ! 堕ろしちまえばよかっただろうが!!」
帰って来るなり夫婦喧嘩を始める両親を、少年は奥の部屋でぼんやりと膝を抱えて見つめていた。
髪も服装もボロボロで、清潔感はない。服の裾は解れ、穴が空いている箇所も多かった。
細い手足の至るところには鬱血の痕が痛々しく残り、膝元に隠れる口唇は腫れ、端は切れて赤黒くなっている。目に少年らしい生気はなく、年頃は三歳、四歳ほどであるにもかかわらず表情さえ存在しない。
あんたがあいつの面倒を見ないから。
母親が口にした「あいつ」とは、紛れもない――この少年のこと。
両親が少年の名前を口にしないのには訳がある。
それは、この少年には「名前」というものが存在しないからだ。
元々好きで付き合っていた両親だが、決して子供を望んでいたわけでもなければ、結婚さえ当時はする気がなかったくらいである。
取り敢えず「子供ができたから結婚した」というだけのもの。だから可愛いと思っていなかったし、名前なんて特に必要ないとしか思わなかった。
そして子供ができれば特に母親の方に自由な時間がなくなり、子供と現状への不満が猛烈に膨れ上がり――次第に夫に八つ当たりをするようになった。
両親はまだ若く、どちらも遊びたい盛りだったのだ。だから、両親にとって「子供」は枷でしかない。
四年ほど生きたこの少年は程なくして、両親からの虐待により命を落とした。
言い合いになれば、その鬱憤の捌け口として母親からはバットや布団叩きで徹底的に叩かれ、父親からは熱湯をかけられた。
両親の機嫌が悪い時は、数日間食べ物を与えられず――暴力と飢餓の苦しみの中での死だった。
「……おや。気が付きましたか?」
次に少年が目を覚ました時、彼の目に映ったのは父でも母でもない。
真っ黒な生き物だった。
それは一般的に「猫」と呼ばれる動物なのだが、これまで満足に外に出たこともない少年には分からなかったのだ。
自分をぼんやりと見つめたまま動かない少年を前に、黒猫はゆうるりと小首を捻る。
「どうしたのです? 猫が珍しいのですか?」
「ね、こ……」
「まぁ、人間界にこうまで人語を喋る猫はいないと思いますけどね。……では、行きましょうか」
猫が腰を上げ、ふさふさの尾を揺らしながら歩き出すと、少年は不思議そうにその姿を眺めた。しかし、身を起こした状態のまま立ち上がろうとしない。
「行きましょうか」と言われても、猫が自分をどこに連れて行こうとしているのか少年にはさっぱり分からない。
「……おとう、さんと……おかあさん、は……?」
「警察に捕まりましたよ。……坊やは両親にひどい暴行を受けて殺されたのです、覚えておりますか?」
「……」
警察に捕まった、ひどい暴行、殺された。
満足な教育も受けられていない幼子に理解できるものではない。
だが、自分はもうあの家にはいられないのだということは本能的に察したのだろう。やや暫くの空白の末、少年は静かに立ち上がり、黒猫の後に続いた。
「……どこに……いくの?」
「冥界です。本当は死神が案内するものなのですが、幼い子供の魂が死神を見て怖がってしまわないよう、十歳未満の子供はわたくしのような猫が単独でご案内します」
「……よく、わかんない」
か細い声がぽつりと返答を寄越してくると、猫は一旦足を止めて少年を振り返る。
息絶える直前までずっと見ていたが、少年の肉体は痩せ細り、完全に栄養失調状態だった。あれでは恐らく外を出歩いたことも満足にないだろうことは、想像に難くない。
そこで、猫はふとひとつの気まぐれを起こす。
「坊やのお名前は?」
「……ない」
「……いつから、あんなふうに叩かれていたのですか?」
「……わかんない」
「…………両親が憎くは、ありませんか?」
「……」
振り返って少年と真正面から向き合うと、特に必要のない雑談を始めた。猫なりに、この少年の境遇を憐れに感じたのだ。
生き物は、自分が現世を離れる時を予め定めて生まれてくる。この少年にも、本来は明るい未来が待っていたはず。だと言うのに、心無い両親の虐待により命を落としてしまった。
憐れに思わないはずがない。
「……憎ければ、呪い殺したりすることもできるのですよ」
「……」
「それ以外にも、坊やには道があるにはありますが……」
「……みち?」
猫はなんとなく、このまま少年を冥界に連れて行って別の人生へ転生させる手続きをさせるのは嫌だった。
この少年は人間に生まれたのに、まるで動物のように「部屋」という監獄に閉じ込められ、手ひどい扱いを受けて命を落とした。もっとこの少年に、広い世界を見せたいと思ったのである。
それは猫の気まぐれ以外のなんでもなかったが、幼児を虐待した末に殺した両親に対する怒りを覚えていたのかもしれない。
* * *
その数年後、猫は大きな学校の前にいた。
中からは数え切れないほどの人影が出てくる。塀に登って優雅に尾を揺らしていた猫は、その中から一人の青年を目敏く見つけると、上体を起こしてぴょんと飛び降りた。
「見事試験に合格されたのですね。今後はわたくしがお傍でサポートさせて頂きます」
「……」
四つ足をちょこちょこと動かして傍まで歩み寄ると、彼は猫の傍で足を止めて見下ろしてくる。
そうして、その場で膝をついて片手を伸べた。そんな仕草を見て、猫は懐くように腕に飛び乗る。するすると肩まで移動したところで「ニャア」とひとつ鳴いてから、再び口を開いた。
「わたくしはトイフェルと申します、よろしくお願いしますね――トート」
「……トート?」
「あなたの仮の名前でございます、呼び名がないと何かと不便かと思いますので」
「死神……か。ちょうどよい名だな」
「わたくしが必死に考えましたからね。これから共に色々な場所に赴いて仕事をしましょう」
猫は――トイフェルはそう告げると、どことなく嬉しそうに喉を鳴らした。
* * *
トイフェルが気まぐれで他の道を示したあの少年こそが――トートだった。
気が遠くなるほどの時間を共に過ごし、あちらこちらへ足を運び、数え切れないほどの魂を冥界へと案内してきた。
永い時間をかけて実績を積み、人間に害を成す悪霊と戦ったりと本当に様々なことをした結果、トートは死神の中でも高位の者に与えられる称号――デァ・トートの名を受けるまでに成長したのだ。
「(死神としてでもいいから、色々なものを見せてあげたいと思ったあの幼子が……こんなにも立派な方に成長するとは思っておりませんでした、トート。わたくしはあなたと、これからも共に仕事をしていきたい、だからこそ……あなたと人間界との繋がりが、これ以上強まるのを黙って見ていることはできないのです)」
最初から近付けなければよかったのだろうか、と。トイフェルは思う。思ったところでもう遅いのだが。
しかし、これだけは譲れない。
やや青白い顔で書類に目を通すトートを見て、トイフェルは複雑な想いで書斎を後にした。




