バリア
とても気持ちが良い夢から醒める。
私はあくびをして、けたたましく鳴るデジタル時計を軽く撫でた。不快なデジタル音を奏でていた時計は、大人しく鳴き止む。
――もう一度、さっきの夢の中へ戻りたい……。
私は再びベッドの奥に潜り込んだ。
「奈美ー! 早く起きないとまた遅刻するわよー!」
ドア越しの階下から母の呼び声がして、女子高生の朝という現実に引き戻される。
いつもながら朝は苦手だ。
「んー! もう起きてるー! 今行くってば」
私は大声で母に返事をすると、しぶしぶベッドから上体を起こした。
窓からは暖かそうな陽光が入り込んでいて、部屋を明るくしている。
まだ眠気もあって、少しの間うとうとしてしまう。
眠いよ……。学校サボりたいー。
それでも、寝癖でぼさぼさになっている髪を触りながら、床に足をつけ立ち上がる。
私は頭の上で両腕を広げて、大きく伸びをした。
「うーん」
思いっきり伸びをしたもんだから、つい声が漏れてしまった。
寝起きの声は、なんだか自分でも色っぽいもんだなと思ってしまう。
首が痛い。寝違えたかな。
私は首に手をやりながら、寝ぼけ眼でよろよろと歩いた。
向こうにあるドアを目指して。
確かに歩いたはずだった。
――え?
歩いても歩いても、ベッドから三十センチ程度までしか進めない。
見えない何かに阻まれて、それ以上は足が出なかった。
ドアまで、辿り着けない。
一気に目が覚める。
何が何だかわからなかった。
「なに、これ」
目の前の宙を手で触ると、何か柔らかい感触があって。
弾性のあるゴムみたいな感じで、突くと軽く押し返された。
わけがわからない。
――その感触は、ベッドの周囲をぐるりと囲っていた。手探りで調べてみると、壁のように辺り一面隅々まで、隙間なく。
私は、四方八方をでたらめに叩いた。
蹴ったりもしてみたけど、弾き返されてまるでダメだった。
――なにこれ、出られない……!
この異常な状況で、完全に頭も覚める。理解し難い現象を前にして、私の冷静さも五分間で消し飛んだ。
密閉された空間、なんだかエレベーターや押し入れの中にいるような、そんな息苦しさも感じる。
私は軽度のパニックに陥って、段々と血の気が引いていくのを感じた。顔が青ざめているだろうことが、自分でもよくわかる。
堪らなくなった私は、悲鳴にも似た声で叫び出した。
「お母さん! お父さん! 助けて! 誰か!」
喉が張り裂けんばかりに何度も叫ぶ。
――何の反応もなかった。
近所中に聞こえてもおかしくはないのに。
普通ではない大声を出した喉。そこだけ、ジンジンとした音のない痛みが広がった。
その時、
「奈美ー! もう出ないと遅刻するぞー!」
ベッドからは届かない斜め向かいの場所にある窓、その外から声がした。
あの声は……公平だ!
一緒に登校するために毎朝うちの前に訪れる、私の幼馴染み。
友達にはまだ秘密だったけど、この前付き合うことにもなったんだった。だから今は、正式に私の彼氏でもある。
安堵と同時に、なんだか涙がこみ上げてきた。
ここからでは窓まで辿り着けないけど、公平が私の声に気づいてくれたら、きっと……。
こうへ――
その後に何の苦労もなく続く予定だった『助けて』という言葉。
だけど、私が呼んでも、声が出なかった。
容易に出るはずだった『公平』という名前も『助けて』という言葉も、口から出て声になることはなかった。
私は恐怖を感じて、反射的に口と喉に両手をやった。
「今出る」
見ると、私によく似た女の子が窓を開けて、微笑みながら公平に言葉を投げかけていた。
なんなの?
私は心の中で、そう疑問をぶつけるしかなかった。
「おはようー、奈美。急げー!」
また公平の声がする。
彼女に返事をしているみたいだった。
公平は、彼女のことを私だと思っているようだ。
そんな……私はここだよ!
公平の声を聞いて緩みかけていた心も、畳み掛けてくる一連の不可解な出来事によって、徐々に凍りついていく。
公平、そいつは私じゃないのに!
頭の中が、何かでかき混ぜられたみたいにグチャグチャになる。恐怖と悲しみで混乱した頭は、自分ではどうしようもなく、耐えられもしなかった。
公平に返事をしたい、助けを乞いたいのに。声が出ない以上、それは叶わない。
彼女は窓を閉めその場から離れると、いそいそと髪を整えたり制服を着たりしていた。
それは私の代わりに、登校の準備をしているようだった。
私は、彼女がそうしているのを、ずっと見ていた。膝から崩れ落ちて、見えない壁を叩き、出ない声で泣きながら。
自分が毎朝やっていることを、端から見ているという不気味な感覚に打ちのめされる。
目の前の彼女と今の私が一致せず、涙で視界が歪んだ。
底知れない未曽有の恐怖を身体の芯から感じて、ガタガタと震えが止まらない。何かに押し潰されそうで、心と体が悲鳴をあげた。
昨日の晩御飯から私は何も食べてない。だから胃の中は空っぽのはずなのに、それでも胃液と一緒に中身が逆流しそうになる。
全ての準備が済んだ彼女は、何事もないかのようにドアへ向かっていた。
ドアノブに手をかけてそれを回しドアを開くと、いつも通り部屋から出て行こうとする。
そして部屋を出てドアを閉めようとする直前、彼女と私の目が合った。
彼女は、確かに笑っていた。
「そこで朽ちていけ」
残された冷たい言葉と共に、ドアが完全に閉じられる――
――私はなぜか、自分の手足をじっと見つめていた。
爪が、根元から剥がれていた。
小指の先は溶けていて、まるで腐った林檎を思わせる。
床には、抜けた歯も転がっていた。
バリア【barrier】
1 障壁。防壁。
2 障害物。
僕の小説歴で初の本格的ホラー掌編であり、初の女主人公一人称でもあります。
ポップでヘビーなホラーを目指しました。最終的には洋物ホラーみたいな印象になったかもしれません。
夢か妄想か、異星人の侵略か、多重人格か、或いは双子の呪いか超能力か。はたまたドッペルゲンガーが本物とすり替わる瞬間を見てしまったのか。
定かじゃない話にしました。
実はキャラの名前には、双子に近しいとあるトラウマ的な作品を元ネタにしてます。
何か分かりますかね。ゲームなんですが。