混乱の都
血の様な赫い空が、徐々に闇に覆われて行く。
仕事道具の木箱を担いだイザヨイは、鬼堂からだいぶ距離を置いた所で苦しそうに木の幹に寄り掛かり、おもむろに口を開く。
「色んな事が一度に起こり過ぎて、処理しきれん。まさかコモチが……あの様な考えを持っていようとは……」
イザヨイは締め付けられる様な胸の痛みに耐える様に、そっと右手を添える。
「コモチは、親は違えど姉の様な存在であった。だが、他人を苦しめるあのやり方は、容認できぬ」
ポツリと、苦しそうにつぶやいたイザヨイは、胸に添えた右手をキツく握りしめる。
「先程は、あまりの出来事に身体が動けなんだが、奴の呼び出した『牛鬼』を倒して、目を覚ましてやる」
イザヨイはキッと顔を上げると、『牛鬼』が樹木をなぎ倒して出来た『道』に向き直り、跡を追いかけ始める。
「ずいぶんと通り易くしてくれたものじゃな……急がねば」
平安京まで続くその『道』は、折れた樹木が乱雑に積み重なっている。しかし、イザヨイはその上を身軽に飛び跳ねながら降りて行き、鬼堂までかかった時間の半分以下で山を下り、森を抜けてしまった。
「ふぅ……道さえあれば、これしきの距離はどうということはないな」
イザヨイは立ち止まり少し乱れた息を整えると、顔を隠す様に覆う布を持ち上げ、遠くを眺める様に目を細める。
「『牛鬼』は、まだ塀の内側には入っていないようじゃな。被害が出る前に食い止めねば……」
はるか遠くにうっすらと臨む平安京の町並み。そこへ向けて歩いて行く『牛鬼』の巨躯を認めたイザヨイは、再び跡を追って走り出す。
とうに陽は落ち、月の明かりが降り注ぐ京都盆地に、魔獣の咆哮がこだまする。
「何じゃ? 雷か? 」
「あほぅ、こんな月の出る時に雷が鳴るかよ」
陽が落ちる前には既に自宅へと帰っていた人々も、『牛鬼』の叫び声に驚き外の様子を伺う者も現れる。そのうちの一人は、恐れおののきながら爛々(らんらん)と輝く物の怪の眼を指差し、叫ぶ。
「おい……北の山から、デカい火の玉がやって来るぞ……」
「ありゃぁ……火の玉じゃない。
鬼じゃ……デっかい鬼の目ん玉じゃあぁぁぁっ」
寝静まろうとした京の都に静かに混乱が広がり始めた頃、左京区の一角にある屋敷に、烏帽子をかぶった一人の男性が、慌てふためきながら飛び込んで来る。
「晴明様……安倍晴明様はおられぬか? 」
焦る様子を見せる男性に対し、使用人と思われる男性が奥から出てくる。
「これはこれは……血相を変えて、どうされました? 」
「急ぎの用事じゃ。至急、晴明様に繋いでくれっ」
騒々しくなった庭先の様子を伺う様に、屋敷の更に奥から一人の老人が出てくる。
「何じゃ、騒々しいのぅ……もう、眠ろうと思っておったのじゃが……」
「おぉ、晴明様。鬼が……北の山から、鬼が攻めて参ったのじゃ」
老人の顔を見た男性は、少しホッとした様な表情を見せる。
「私が思うに、あれは五、六年前に頼光様が退治した、酒呑童子一味の生き残りが、攻めてきたのでは……? 」
青ざめた表情でまくし立てる男性をなだめる様に、安倍晴明と呼ばれた老人はゆったりとした口調で話しかける。
「まぁ、少し落ち着きなされ。
儂の元には、既に見た者から報告を受けておるが、正体には見当がついておる」
「何と、さすがは晴明様ですな」
男性の感嘆の声に動じる事なく、晴明は淡々と話し続ける。
「彼らの話から察するに、こちらへ向かって来る鬼は『牛鬼』という、魑魅魍魎の類の様ですな」
「この辺では、あまり見たことの無い物の怪であったな」
「左様……ちなみに、魑魅は山の怪、魍魎は川の怪を指す言葉です。『牛鬼』は川の怪、主に海沿いの砂浜に出現する事が多い」
そこまで話した晴明の眉間に、わずかにシワが寄る。
「しかしながら、川の怪であるはずの『牛鬼』が山の奥……しかも、鬼門の方角より参った……何か、人為的なものを感じますな」
「うんちくは宜しいが、退治しては貰えぬのか? 」
感心した様子で聴いていた男性は、思い出した様に北東の空を見上げて、再び青ざめた表情を見せる。
「身の丈三丈(約九メートル)程もある物の怪を相手せよと? 陰陽道は学問、儂は言わば学者ですぞ」
男性の言葉に晴明は、やれやれという様な表情でため息をつく。
「若い頃はそんな事をした事もありましたが、齢八十になろうかという年寄りを、あまりイジメんで下され……」
「ならば、どうしたら……物の怪は、すぐそこまで迫っておるのだぞ」
男性の表情は更に青ざめる。晴明はあいも変わらずゆったりとした様子で、あくび混じりに言葉を紡ぐ。
「なに、心配無用じゃ。
この洛中に物の怪退治を生業とする者がおります。既に何名か向かわせましたので、その者達に任せるがよろしかろう……」
蜘蛛のような脚を持つ『牛鬼』はゆっくりと、しかし確実に平安京へと向かっている。
あと少しという所まで迫っていた『牛鬼』の元に、息を切らせながら駆けてきたイザヨイが立ちふさがる。
「妾が相手じゃ、覚悟せいっ」
イザヨイの叫び声と同時に、彼女の背に担いだ木箱から、木彫りの人形が勢いよく飛び出す。
一尺(約三十センチメートル)程の大きさの人形は軽やかに宙を舞い、『牛鬼』の頭部を斬り刻まんと縦横無尽に飛び回る。
「グアァァッ」
しかし、木彫りの人形が手にした刃で幾度となく斬り付けるも致命傷にはならず、『牛鬼』はハエを落とすが如く前脚を振り回す。
「くうっ、デカ過ぎる……『タマ』では、これが限界かっ」
イザヨイはギリリッと、食いしばった歯を鳴らし、悔しがる。その後も、人形に繋いだ糸を巧みに操り奮戦するも、『牛鬼』は一向に怯む様子を見せない。
「グアァッ……ビュッッ」
イザヨイの人形を相当煩わしく思ったのか、『牛鬼』は顔を歪めて睨みつけた後、宙を舞う人形へ向け口から液体を吐きかける。
「うおっ、何じゃっ」
液体が人形に命中した途端、人形はピタリと動きを止め、放物線を描いて落ちて来る。同時にイザヨイは、バランスを崩した様に尻もちをついてしまう。
「クッ……糸が、切れた? 『タマ』っ」
イザヨイはすぐさま起き上がり、人形へ駆け寄ろうとする。
ドサッという鈍い音と共に、目の前に彼女が『タマ』と呼ぶ人形が落ちて来る。
「何という事じゃ……これは、毒か? 『タマ』が溶けてしまっておる」
シューシューと煙を上げ、跡形も無く溶けてゆく人形の残骸を前に、力無く座り込んでしまうイザヨイ。
「これではもう、戦えぬ……妾は、意地を通す事も出来ぬのか……」
うなだれたイザヨイを見つけた『牛鬼』は、ヨダレを垂らしながら彼女に向き直り、ゆっくりと近づこうとする。
刹那。
「グギァオォォォッ」
爛々と輝く『牛鬼』の眼に、一本の矢が深々と突き刺さる。
「らしくないですよ、イザヨイさん。そんな弱音を吐くなんて」
突然の苦しそうな『牛鬼』の叫び声に驚き、顔を上げるイザヨイの目の前には、一人の男性が立っている。
そこには、紫色に怪しく輝く抜き身の刀を肩に乗せ、イザヨイに向けて優しく微笑むヒロキの姿があった。




