大ジャンル/エッセイ ─ 小ジャンル/クソ
<新しいジャンル区分>
大ジャンル:エッセイ
小ジャンル:エッセイ
小ジャンル:クソ
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「クソって。他の名称は思いつかなかったんですか」
「ウンコでもいいけど」
「いえ、そういうことではなくて」
「クソアニメ、クソゲー、クソマンガ、クソラノベがあるんだから『クソエッセイ』という呼び方があってもおかしくないと思うけど」
「そういうことでもなくて。クソなんて蔑称を選ぶ理由はないですよね。大体の人が怒ると思いますよ」
「クソなになに、というのはただ侮蔑的な意味だけに使われる言葉じゃないからだよ。
それに糞っていうのはね、それを出した本人の情報が詰まってるんだ。主義主張、我の強さを押し出したエッセイなんてまさに糞と一緒じゃないかな? 文章で自分から自分をさらけ出してるんだから」
「一緒ではないでしょう」
「野生動物を探すときには糞は手がかりになる」
「いきなりなんですか」
「その糞がある場所、糞の状態から動物の行動を推測する重要なヒントとなるね。糞の成分を調べればその動物が何を食べて、どれだけの消化器官を持つかがわかる。
昔、検便ってあったよね? 今でもあるのか知らないけど。あれは健康状態や病気の有無を調べるための行為だよ。検便じゃなくても硬いか柔らかいか、多量か少量か、色は赤か黄色か茶色か、臭いのきつさは強いか弱いか。糞が持つそういった情報はそれを排便した個人の情報でもある」
「……え? それで?」
「クソに分けられるエッセイはそれと同じ。自分の中にあるものから創り出すんじゃなくて、自分の中にあるものをひり出してるんだよ」
「同じ、と言われても」
「動物は他の者が出した糞尿を確認して、その情報で同属の状況を把握する。マーキングをする、他の者がしたマーキングの臭いを嗅ぐことなんかだ。群れで活動をする哺乳類ではその行動がよく見られるらしい。群れとして生き残るための知恵なんだろうね。危険を察知するために進化したのかな? 仲間の状態を知っておけば流行り病とか飢饉とかも知ることができるから。
で、これも同じように、クソエッセイには同属の、同属嫌悪を含めて同じような方々が集まってきやすい。あれが好き、これが嫌い、あることを問題視したい、槍玉に上げたい、そういう人達だ。彼らは他人の糞の臭いや味を知って自分の糞と比較したり、他人がどういうもの食って、いや知って、その糞を、いやその考えになったのかを知り、自己の立ち位置、安全や危険を考えることになる。同じような糞を出しているなら自分と同質の物を食って同等の消化器官を持っているとわかり安心感を得られる。
逆に、自分の価値観や考えと反対、否定するような糞が強烈な臭いなり存在感なりを発していると危険を感じたり、その糞のほうが有意、有用だと察したら、適応するために動いたりするんだろう」
「人間は動物と違って日常的に他人の汚物を確認する習慣はありません。というか味という例えはどうかと」
「食糞自体はそんなに驚くことじゃない。フンコロガシを考えてごらんよ、糞虫はかなり多い。身近な動物だと犬。それにウサギとかコアラとかは、糞の中にまだ消化しきっていない栄養素が残っているからだとか、赤子が食べやすくするように一度消化するためとか、他にも理由が確定していないものもあるけど、哺乳類でもそれなりに見られる行為だ。人間が類似した行動を取っても不思議はない」
「すみません、それは人間が糞を食べる話じゃなくてエッセイの話ですよね? エッセイでの例えですよね?」
「そうだよ。いや、まったく、糞とエッセイがここまでマッチしたものだとは気がつかなかったね」
「恐らく、いえ、確実にマッチしたという同意は得られないと思いますが。投稿する人がわざわざ自分からクソを選んで投稿するとは思えませんし」
「そうかな?」
「当たり前です」
「エッセイというよりクソのほうが似合ってるものはたくさんあると思うけど」
「その、エッセイとクソを分けるものがまず明確じゃないですよね。クソだと思うのは勝手ですけど」
「あるよ」
「あるんですか」
小ジャンル:エッセイ …… 創造性の有るもの、熟考されたもの、考察、作者自身の中で完結しているもの
小ジャンル:クソ …… 創造性の無いもの、昇華されていないもの、反応調査、他SNSで済ませられるもの
「あの、この違いに問い合わせがきたらどうするんですか。創造性なんて、抽象的です」
「アウトプットでも考えを生み出すのと考えを排出するのとは同等じゃない。クソをするのに創造性は必要ないでしょ。人間にとって言葉を組み合わせて作るのと、言葉をたくさん吐き捨てるのとが同等だというなら、エッセイどころか文学も小説も、詩も唄もとっくに価値を失ってる」
「いえ、そうじゃなくて。どう返答すればいいのかという話で」
「そこは個人の裁量に任せるよ。こっちが細かく指定することじゃない」
「それだとなんのための区分ですか。『これがクソにないのはおかしい』とか、そういった言い合いが起きますよね。ジャンルの詐称のときと同じで」
「それでもいいんだよ。それもまた排便者の、いや、作者の人となりの情報となる。それにね、作者の意図はほぼ高確率で読み取られないし、読者はそんなことを気にしなくてもいいんだから」
「そういうものでしょうか」
「糞っていうのはどんな聖人も悪人も、イケメンも美人も糞をするんだよ。糞を止めることはできない。だからここが便所ですよと、ここなら糞をしていいですよと、場所を決めるだけのこと。その場所以外でしていたら違反行為にする」
「あ、違反にはするんですか」
「確認を取るだけだね。それだけ。こちらは関与しないのが望ましいことだよ。
創作品が存在する以上のことにまで意味を持たせるのは周りが勝手にすることで、それなのに作者の咎とするのはお門違いなんだよ。ここはユーザーの自由を最優先にしている場所だから」
「そこはもっと、場を良くするよう、ユーザーの意識が改善するように働きかけませんか」
「意識高いこと言うね」
「常識的な普通のことだと思います」
「そうだね、そういうのを主張しただけのものを『クソ』に入れてもらえるといいな」
「……」
「頭に浮かんだことをただ垂れ流すのは創作とは呼ばない。むしろ愚痴のほうが合ってる。ここは創作した文章を投稿する場所であって、愚痴を吐くSNSじゃない。何かを生み出すのが創作だ。そしてエッセイは創作だよ。事象をありのままに文字にしたものを創作と呼べるかな。報道なんかの情報拡散が目的ならそれが望ましいけど」
「なら「クソ」じゃなくて「愚痴」でもいいんじゃないでしょうか」
「愚痴というのは言っても無駄なこと、無意味なことだ。なんの価値もないし、個人感情の発露でしかないもの。まあ、そういうのが好きな人もいる。
だけど、愚痴と違ってクソにはクソなりの価値や意味がある。さっき言ったように糞からの情報というのは、それをひり出した元の役に立つだけじゃなくて、その糞を共有する者たちにも役に立つ。
糞というのはね、日常的な感覚で、衛生面や印象だけで、物語れるほど浅いものではないわけだよ」
「でも、糞はクソですよね」
「クソだよ」
「……」
「クソだから面白いこともあるし、一緒にしちゃいけないものもあるし、クソ未満すらある。そこを見極めようとすることで新たな見方、あるいは全く別の場所から、違う切り口が生まれるかもしれない。常に考えて、色々と考え続けて、それで生まれるのが創作だから」
「そんなに考えて出した結果クソ扱いされたら、凹むどころかショックで立ち直れないんじゃないですかね。筆折りますよ」
「読んでる側がクソだって場合もある。むしろそのほうが普通、多数だと思うんだけどな。じゃなかったらここまで偏りが顕著にはならない」
「あっ、はい。そうですね、聞いたことが間違えでした。止めましょう」
「そうだ」
「なんですか」
「じっくり時間をかけて考えてようやく出た自分の結論がクソだった場合、便秘と同じにならないかな?」
「知りません」
クソエッセイの具現