第41話 夜の帳を裂いて
マリー・イシュフェルトはハシュールにある小さな山の奥地で生まれた。
吸血鬼の両親を持ち、外界から断たれた山奥でひっそりと生きていた。
祖父の代では既にその暮らしをしていたらしい。かつて地上を支配していた種族とは思えないほどに、マリーの両親は温厚で優しく、争いを好まなかった。
いや、もはや吸血鬼に誰かと争うような余力は残されていなかった。
今の時代、吸血鬼は発見次第狩られる運命だ。
特に魔族からは徹底して容赦のない駆除が行われる。魔人との種族戦争に敗北した時点で、吸血鬼は滅びる運命だった。
故に、可能な限り誰の目にも留まらない僻地でひっそりと息を潜めて生きることしか許されなかった。
こうして一つの家族が穏やかに時を過ごせていることも、夢のような奇跡だった。
――そしてそれが夢であったのならば、唐突に醒めるのもまた必定。
マリーが一二歳になる頃、ほんの些細な油断が命取りとなり、人間たちに存在を知られることとなってしまった。
ろくに狩りも行わず、ただひっそりと生きてきた両親の力はハシュール騎士団に及ばず、無残にも殺害された。
――マリーが同じ道を辿らなかったのは、一人の男の歪んだ欲望が理由だった。
その男は交易都市周辺に巨大な館を構える大商人であり、商行以外の悪どい生業で私腹を肥やしていた悪党だった。
マリーの整った顔立ちは男の眼鏡にかない、館へと連れ去られることとなった。
いくら吸血鬼とはいえ、他者を殺害し魂を蓄えていないマリーはただの少女と大差ない。
マリーは逃げることも戦うこともできず、その男に従うしかなかった。
……そうしてマリーにとって耐えがたい地獄の日々が始まった。
マリーの容姿は男たちの嗜虐心を大いに刺激し、どんな男にも高い値がついた。
幼いマリーには自分が今なにをされているのかも分からず、ただ気が触れそうなほどの苦痛と吐き気を催す嫌悪感だけに支配された。
またマリーは吸血鬼として強力な自然治癒力を有しており、多少の傷ならば僅かな血を飲むだけで簡単に回復してしまった。
それがマリーの地獄に拍車をかける。男たちは他の娘にはできないような過剰な暴行を繰り返し、あまりの痛みにマリーが泣き叫ぶ度に楽しそうに笑った。
繰り返される拷問。終わりはなく、マリーには泣き叫ぶ以外にできることはなかった。
何故自分がこれほどの苦痛を味わわなければならないのか、マリーには全く理解できなかった。
何故男たちはこれほどまでに自分を痛めつけるのか。
自分はいったいどのような罰でこれほどの地獄を彷徨っているのか。
そんな思いを抱けたのも初めの内だけだった。
一年が経過する頃には、マリーはもうまともな思考ができないほどに精神を破壊されていた。
ただ痛みと恐怖に支配され、絶叫しながら謝罪を繰り返した。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
やめてください。やめてください。やめてください。
こんなにも痛いと。こんなにも苦しいと。
そう真摯に訴えれば、男たちもいつか分かってくれる。もうこんな地獄は終わりを告げる。
そうでなくてはおかしい。そうでなくては、自分はこの地獄から逃れる術がないということになってしまう。
だからいつかきっと、彼らは分かってくれる。
他者を痛めつけることの無意味さを。残酷さを。
そう信じることだけが、マリーに残された最後の望みだった。
両親以外と話したことのなかったマリーは知らなかったのだ。
世界に溢れる悪意を。人がどこまで他人に残酷になれるのかを。
そんな身も心も穢し尽くされる日々が三年ほど過ぎたとき、ようやくマリーは理解した。
――この世界は、痛みと恐怖によって支配されているのだと。
館の主、大商人はある日、変わった客を連れてきた。
――これがそうです。
その客人を一目見たとき、グチャグチャに壊れ果てたマリーの心ですらかすかに息を吹き返す程の衝撃を感じた。
それは今までマリーを嬲ってきた醜悪な男たちとはまるで別の生き物。
マリーよりも少しだけ年上くらいの少女だった。
彼女はまるで絵画から抜け出てきたようだった。
言うなれば人形、彫刻のような、人間味を感じさせない圧倒的な美。
これほどまでに美しい者がこの世にいるなど、マリーは想像もしたことがなかった。
――ええ、吸血鬼です。これを生け捕りにするのは骨が折れたんですよ。
大商人は長年培った極上の笑みを浮かべて少女に媚びた。
少女は興味深そうにマリーを見つめた。美しく澄み切った青い瞳に、マリーは吸い込まれそうになった。
その青い瞳がマリーの中に何かを見出したのか、少女は大商人といくつか言葉を交わし、彼を外へ追い出した。
マリーは床に座り込んだまま、じっと少女を見上げていた。
もはやこの世に希望など抱いていないマリーは、姿こそ違えどこの少女もまた男たちのようにマリーを痛めつけるのだろうと予想した。
いや、それ以外の者などもうこの世にはいないのだと知っていた。
――あなたもわたしをぶつんですか?
だが少女は否定した。そんなつもりでここに来たのではないらしい。
少女は自らを力の探究者だと語った。力を得るために多くの魔物、ときには魔人すらも討伐する旅を続けているという。
この館に来たのもそんな旅の一環。世にも珍しい吸血鬼がいると知り、一目会いに来たのだそうだ。
もしマリーに、少女が納得するほどの力があればその力を奪うつもりだったとのことだが、その点は期待外れだったと少女は笑った。
だがマリーには自分を痛めつけない者がいるということが信じられず、再び問いを投げてしまった。
――あなたもわたしをしはいするんですか?
少女は、その問いは肯定した。
マリーだけではなく、この世の全ての者を支配するつもりだ、と。
故に、いずれ魔王をも打ち倒し、支配してみせると語った。
――なぜ、だれかをしはいするんですか?
私が強いからだ、と少女は言った。
――なぜ、わたしはしはいされるんですか?
マリーが弱いからだ、と少女は言った。
強者が弱者を支配するのは当然のこと。
彼らは強いからマリーを支配し、マリーは弱いから支配される。ただそれだけ。
少女の言葉はマリーの心にするりと入り込み、そして全ての謎を解き明かしてみせた。
男たちが何故マリーを嬲るのか。痛めつけるのか。
答えは簡単だった。
――理由などないのだ。強いから支配し、弱いから支配される。
何故などという疑問の入りこむ余地はない。強く、弱く、支配し、支配される。
そういうことなのだと悟った。
――わたしも。
それはマリーにとって、久しく忘れていた願い。
ついに分かった、どうすればこの地獄から抜け出せるのかという、その問いへの答え。
――私も……強くなりたい。
その言葉は少女を満足させたのか……少女は一口だけ、血を分けてくれた。
もしこの血に適応できたなら、マリーは強者となれる。その様を見せてほしいと言った。
迷いはなかった。
マリーは少女の血を一口飲み干し――
――そして殺戮が始まった。
その時何が起こったのか、マリーはよく覚えていない。
ただ舌がバカになってしまいそうな、信じられないほどの甘い味を感じたことは鮮明に覚えている。
その後身体を内側から爆破するような衝撃があり、全身の血が通常の一〇〇倍の速度で循環するような感じがした。
血。
血が暴れ、滾り、乱れ狂った。
吸血鬼は吸血という形で他者の魂を自らのものとする。
つまりマリーはその少女の魂の一部を吸収しようとしたことになるが、それはまだ幼く弱いマリーには荷が重すぎる話だった。
少女の血に適応するにはまるで力不足ではあったが、一方でマリーの中に宿る吸血鬼としての力は限界まで覚醒してしまった。
マリーは絶叫しながら、館の中で暴れ回り、目につくもの全てを破壊した。
その場にいた誰もマリーを止めることはできず、吸血鬼として覚醒したマリーの暴走によって殺し尽くされていった。
今日まで、あれほどマリーを虐げ支配してきた男たちが、たった一口の血によってまるで真逆の立場へと追いやられる。
――力。
圧倒的な暴力は彼らを支配し、マリーは一夜にして館の主へと成り上がった。
少女はその光景を見て満足したように帰っていった。
そうしてマリーは館でただ一人の生き残りとなり、あらゆる恐怖と支配から脱却できた。
……かに思えた。
だが地獄はこの先も続いていた。殺戮に力を使い果たしたマリーには、体内に入り込んだ少女の血をまるで制御することができなかった。
マリーは身動きもできないまま、ただ荒れ狂う力の濁流に飲み込まれ続けた。
あまりにも極上の血を飲んだことにより、吸血鬼としての本能は絶頂せんばかりに歓喜する。
一方で、幼い少女としての肉体は身に余る力の暴走に耐えられず気が狂うほどの苦痛を味わう。
天国と地獄を瞬時に行き来し続けるような混沌の時間を……マリーはその後一年半もの間味わい続けることになった。
その間この館を訪れる者がいなかったのも幸運だった。
大商人が悪事に使っていた隠し別荘であったというのが、その悪事の被害者であるマリーに味方したというのが皮肉な話だった。
――この血に適応できれば、と少女は念を押していた。
結論から言って、マリーは適応できなかった。
厳密には、マリーの吸血鬼としての肉体は少女の血に少しずつ少しずつ適応していってはいた。
ただその速度があまりに遅く、一年半が経ってもマリーはろくに動くこともできないまま、変わらず朦朧とした意識で館の床を這いずり回るしかなかった。
あまりにも強大、そして異質すぎる少女の血に適応するためには、マリーの肉体がその異質な血を取り込めるような異質な性質を秘めるしかない。
その結果としてマリーは『血』という概念に特化した適性を身に着けることになった。
それは吸血鬼としての能力と、稀代の黒魔導士である少女の血が混ざりあったことで生じた進化だと言える。
その進化が奇跡を起こした。
血に特化したマリーの適正が、一年半後にマリーの命を救うこととなる。
すなわち、少女が魔王へと即位したタイミングだ。少女の血は結局一年半かけても吸収し切ることはできず、マリーの体内に残り続けた。
その血が『血の盟約』として覚醒したことによって、マリーはある日突然、一夜にして世界が逆転するほどの膨大な力を獲得した。
一年半がかりの不自由から解放されたマリーは――しかしまたしても自由にはなれなかった。
少女の血が体に馴染み、完全に支配できるようになったことでマリーは苦痛から解放され、同時に甘美な絶頂も終わりを告げた。
地獄からは解放されたが、同時に天国からも追放された。そんな気分だった。
その結果マリーを襲ったのは、身を焦がすような渇き。
……もう一度あの少女の血が飲みたい。
抑えがたい衝動のままにマリーは館を飛び出した。
無論、少女はもう近くにはいない。
そんなことは分かっていたが、それでも求めずにはいられなかった。
あの透き通る雪のような指先から零れる、炎のように真っ赤な血。
あの味をもう一度味わいたい……マリーの思考はただそれだけに支配されていた。
――まるで無関係の少女を攫ってしまったのは、いわば不可抗力のようなものだ。
あの少女には比べるべくもないが、それでも可愛らしい女の子。もうそれでいいからとにかく血が吸いたかった。
せめて少しでもあの少女のように美しく見えるよう、攫った少女に綺麗なドレスを着せて雰囲気を演出した。
苦痛を与えるつもりなど一切なかった。
ただ少女の血を飲みたかっただけだ。あの喉が焼けるような快感を味わえればそれでよかったのだ。
だから、少しだけ血を分けてもらったら少女は解放してあげるつもりだった。
――だが、初めて少女の血を飲んだ時、全てが変わった。
少女の血そのものは普通に美味しい程度のものだったが、マリーを何よりも驚かせたのは……少女から零れ落ちた『恐怖の味』だった。
少女は必死にマリーに許しを請うた。
助けてください。
命だけは。
許してください。
支配され続けるだけだった人生の中で、それはマリーが感じたことのない高揚感。
自分が強者であるという自覚。他者を支配しているという自覚。
マリーに血を与えてくれたあの魔人のように、マリーもまた他者を超越し、支配している。
その理解が何よりもマリーを昂らせた。
少女を痛めつけるほどにその昂りは強くなっていった。
少女が絶叫する度にマリーは世界が開けるような解放感を感じた。その瞬間だけは、マリーは何物にも支配されない。どんな不自由からも解放される。
その快感を知ってしまったマリーはもう止まれなかった。
しかし加減を知らないマリーはすぐにその少女を殺してしまい、代わりの少女を攫うことになった。
そうして何人も何人も、少女を攫ってきては血を飲み、拷問し、やがては殺した。
そうすることでマリーは自分が強者であることを確認し続けた。
もはやこの館は大商人のものではない。
彼はマリーに殺された。その命を支配され、奪われた。
マリーは誰よりも強者だった。故にマリーはこの館の支配者となった。
――強者は支配し、弱者は支配される。
全てはあの魔人の言う通りだった。
マリーは強者。だから支配する。
そして――。
「――弱い人は支配される、それだけだよ」
燃え落ちた柱が崩れる音が響く。
炎が少しずつエントランスを覆っていき、館の闇が散らされていく。
その炎を背に佇むホークに、マリーは不敵に笑みを返して語り掛けた。
「あのエルフの子もそうだよ。でも、救ってあげたんでしょ? じゃあもう用なんかないよね。帰ってくれる?」
「…………黙れ」
低く押し殺した声。その声からは何の感情も窺えない。
「人のお家焼いといて何その言い草? ねえ、そんなことよりパンダはどこにいるの? 私、今度こそパンダに勝って、支配して、」
「殺してやる……」
前髪で隠れたホークの瞳が、そのとき激しく熱を放った。
館を覆う炎よりも更に強く、激しい――激情によって。
「貴様を……殺す」
「二回も見逃してあげたのに、何度負ければ気が済むの? ……まあいいや。パンダの居場所も、あなたを拷問すればすぐに分かるか。――あの子みたいに」
どろり、と大量の血がマリーの周囲を浮遊する。
それはすぐにでも形を変え、敵対する者全てを打ち倒す剣となる。
それを前にしても、ホークの心に一切の変化はない。恐怖も焦りも、既に彼女の胸にはない。
あるのはただ一念。――眼前の敵を殺してやるという、激しい憎悪のみ。
「貴様を――殺すッ!!」
夜の帳が下りた闇の中。
燃え盛る炎の館を、魔を断つ弾丸が突き抜けた。




