卒業式前の記憶
拝啓——十五の黄身へ。
教室の窓から眺めていた。
朝日が地平線との境目にあった。空が赤みがかっている。雲がピンク色に染まっていた。まるで夕日のような風景に、少し驚いた。朝にこんな空があったとは。
こんなにも早く学校に来たのは初めてだ。他の生徒は見当たらない。僕は、廊下に向かった。一直線の廊下の側壁にある大きな掲示板。そこを目指していた。
なぜそこを目指していたのか。それは、僕が掲示係を務めているからだ。掲示係が掲示物を貼るのは、自然なことだ。違和感はない。
なのに僕の手は震えていた。誰も見ていないはずなのに、酷く緊張していた。ひとまず深呼吸。
「ふぅ」
ようやく一枚を貼りつけれた。掲示板のど真ん中。僕は羞恥心を抱いた。なにをやっているのだ。自分のやっていることに疑問符が浮かんだ。
突如、真横から物音がした。足が、床を踏む音だ。曲がり角から出てきたのは担任の菅原先生だった。
「桜井くんおはよう。随分と早いね。掲示物、貼ってるの?」
「ああ、おはようございます。先生も早いっすね」
「うん。それにしてもすごいねえ。それ、描いたの?」
「ああ、これは、まあ、そうです」
「ふーん。うまいじゃん。ありがとね。ここなにも貼られてなくて寂しかったから助かるよ。それじゃ」
「はい」
先生は職員室に向かったようだ。続けて掲示板に『絵』を貼っていった。もしこの絵の意図を、誰かに知られたら、あまりの恥ずかしさに冷や汗をかいてしまうだろう。
両面テープを、紙絵の裏側に接着させる。それを掲示板にバランスよく貼り付ける。こんな事をしている僕を変な奴だんて笑わないでほしい。最後くらい、格好つけさせてほしい。たとえ結果が無駄に終わってもいい。少し傷つくだけだ。
中学生最後の卒業式まで、彼女が登校することを願っていた。願うだけなら自由だ。
貼っている間、思い出にふける。七無瞳さんは、よく僕を勘違いさせた。学校で、すれ違うたびに、手を振ってくれるのだ。別に恋人関係でも、友人関係でもなかったと思う。なのに、なぜ僕を勘違いさせるように、肘を直角ぐらいに折り曲げて小さく手を振ってくれたのか、いまだにわからない。
その度に僕の心臓は尋常ではないスピードで脈を打って平然ではいられなかった。話しはあまりしなかった。だって彼女が手を振ってくれるだけなのだ。校内でそれ以外の関係はほとんどなかった。
すれ違いざまに僕はいつも「変わってる」と独り言をつぶやいた。
会話はあまりなかった。ただ、僕の顔面が紅潮するだけで終わりだ。僕は素直ではなかった。一言、なにか気の利いたセリフをしゃべればよかったのに。それさえも、恥ずかしかったのだ。
あの頃の思い出を反芻して脳裏に浮上させていくうちに、やっと、最後の掲示物を貼ることができた。
僕の肩に何かが触れた。
「桜井、今日は早いな」
神崎くんの手だった。
「いやー。今日、早く目が覚めちゃったからさあ」
「はは。で、それなに?」
「ただの掲示物だよ。そうなんだよ」
「……」
「なに?」
「俺のクラスにそのアニメのキャラクターが好きな奴がいたなって思ってな。いや、なんでもね」
「ああ、そういえば、そうだったような気がするよ。うん。七無さんはこのキャラクターが好きだった。でも、そ、そんなのただの偶然なんだからね。これは掲示係としての任務をまっとうしてるだけなんだから!」
「お前はツンデレか!」
漫才芸人にように、僕の頭をしばいた。
少し緊張が解けた。絵を他人に見られるのが恥ずかしかったけど、今は冷静でいられた。僕は彼に感謝した。
僕は知っている。学校に自分の居場所がない人がいることを。手首に傷をつけるくらいに、人との関係がうまくいかない生徒がいることを。
一年前に彼女から電話がきて、思い知った。その声は震えていた。僕よりも弱い人がいることを、思い知った。あれからだっただろう。電話をかけられ手を振られる関係が続いたのは。それは希薄な関係だったと思う。
それを僕が勝手に勘違いしただけなのだ。
勝手に助けようとして、勝手に失敗し続けた。
今日も七無さんは来なかった。僕は、やるせなかった。なぜか彼女は不登校になってしまった。二年生の後半が過ぎたころから、彼女は学校を休みがちになった。いまでは欠席日数を二百日以上に伸ばしている。
彼女の間に親密な関係なんてものはなかった。
ただ、僕が勘違いをしただけなのだ。廊下とかで出くわすたびに、手を振られ、恥ずかしくなって、なのに嬉しくなって、変な気持ちになる。あのぱっちりと開いた瞼から見える大きな瞳を思い出す。くせ毛で、猫背で、前かがみの小走りする姿が独特で、誰かと一緒にいることが多い。
ほんわかしたあの著名なキャラクターが好きで。だから、こうして僕は『変かもしれないこと』をしているのだ。無駄に終わるかもしれないことを、やっているのだ。
卒業式には出て欲しかった。卒業証書を授与する姿を、見て、僕自身が安心したかった。学校といる集団のなかで、彼女の席だけ空いているのはのけ者にされている感じがして納得がいなかなかった。
卒業証書という成長の証を学校で受け取る。それこそが正しい終わり方だと思うのだ。
下校したあと、家に帰って七無瞳さん宛にメールをした。学校に来れば面白いものが見られるかも。
卒業式当日。僕は彼女が来るのを待った。
しかしいくら待ってもあの教室の彼女の席は空だった。
逃げていては成長はできない。
その言葉が何度も脳裏で反芻する。彼女にとって成長とはなんだったのかすらわからない。ただ、僕は勘違いをして、ひたすら絵を描いていただけなのだ。誰かの為に行動できること。それが僕にとっての成長だったのかもしれない。
きっと、学校に来てくれることを信じていた。
だけど、僕の刹那的な努力も実を結ばないままこの物語は終わる。
これはただ、勘違いをし続けた男の不甲斐ない物語。
もし拝啓と前置きして十五の僕に伝えることかできるなら、こう言うだろう——『無駄』には人によって期間と目的の認識の違いがある。僕のやったことは短期的な観点からすれば無駄だったかもしれない。大人になった今でも、思い出す度に恥ずかしさのあまり身体がビクンと震えてしまう。
だけど、僕は後悔しないことにした。
窓から見える幻想的な朝日が、僕の脳裏によみがえる。卒業を控えたひとりの教室。あの孤独な感情すらも、価値があると思えた。
相対なんてする余地はなく価値はあった。
絶対にあのとき成長した。
後日、電話で彼女は泣いていた。誰がバラしたのだろう。でも、もう遅い。やがて僕は駅前で彼女と立ち話をすることになった。丈の長いプリーツスカートを揺らしならやってきた彼女は髪型を変えていた。艶やかでさらさらな直毛のショートボブ。そこからのぞく大きな瞳が、僕に向いている。
「髪型変えたんだ。いいね」
見とれる僕を尻目に彼女は将来の夢を語った。いままで親に迷惑をかけた分、高校では欠席せずに勉強を頑張って、特待生になるんだと意気込んでいた。
それを聞いて、これから先、何度も人間関係で、うまくいかないことがあっても、心が折れることはないと思った。道ばたには、ハルジオンが天に向かってまっすぐにピンと咲き、誇らしげだった。雑草のようにどこにでもいる僕たち人間は、踏まれるたびにそれを耐性にして成長の力に変えていく。もちろん生き方だって多様で、踏まれても立ち上がらない芯が弱い雑草だっている。絶対に立ち上がることが成長とは限らない。もしかすると生まれ続けることが成長かもしれない。生き続けることが成長かもしれない。そんなもの誰にもわからないのだから、感情的な思い込みに囚われて決めつけないでほしい。
これから数えきれない傷をつけても、誰にもその傷を共感されなくたって、傷の痛みを理解できる優しさに変えて、一歩ずつでも、前に進んで生きていけるはず。確かなものはわからないけれど。
僕はバイバイをして彼女と別れた。
あれから七十年以上が経過した。僕は、白いベッドで横になっていた。四角い窓から外が見渡せる。また、昔のことを思い出した。頭の隅においやっては、空を眺めるたびに思い出す。結局、長い間、そうしてきただろう。僕はずっと一人だった。誰とも、心を通わせることなく、ただ、仕事一筋でこれまで生きてきた。だんだんと身体は弱くなり引退した。人生ってのは想像してたよりあっけなかった。
毎年、彼女から数回に分けて電話がかかってきた。僕は、彼女にいい人が現れればいいのにと思いながら話を聞いた。電話を切る前には決まって「ありがとう」とお互いが言い合うようになっていた。彼女はいつまで経っても、本質は変わらなかった。ずっと、同じようなことで愚痴をこぼしていた。それを、僕が聞くだけだった。その関係は希薄だった。なのに、彼女はその細い糸をずっと繋いだままにした。
最期、こうなることはわかっていた。結局、最後はどちらかが死んでしまうのだ。先に逝けてよかったと思う。心残りがあるとすれば、あの掲示板に貼ったキャラクターの絵を彼女に見せることができなかったことか。まあ、それは終わったことだ。考えるな。気にするな。どうせ死んだら全てがゼロになるのだから。窓から、澄んだ青々とした空を眺めていると。
カチャリ——と出入口の扉が開いた。看護師さんだろうかと視線を寄せたら、少し驚いた。
そこには七無瞳さんがいたのだ。白髪に染まっているが、好奇心を感じさせるぱっちりと見開かれた瞳と、猫背の小走りする姿は相変わらずだ。手にお土産らしき包み袋を持ちながら、ちいさく手を振ってこちらにやってくる。ほんとうに、変わらない。いつまで経っても、変わらないなと思った。