いつも通り
朝起きて、服を着替え、顔を洗い、台所へ行く。朝食は交互に作り合う当番制で、朝食を作る日は少しだけいつもより早起きをする。
サリーナと共に朝食を食べ、片付けをし、自室に戻って軽く化粧をして、真っ直ぐサラサラ髪のサリーナと色だけ同じ亜麻色の癖のある髪に櫛を通して高めの位置で一つに結ぶ。制服に着替えるのは開店前。準備は私服にエプロン姿で汚れても大丈夫なようにしている。
これがソフィアの一日の始まりの流れだ。
そして、朝食を食べ終えたソフィアは今、自室のテーブルに小さな鏡を置き、その前にちょこんと座って癖の強い自分の髪と戦っていた。いつもより準備する時間が遅れているのはテーブルの隅に申し訳なさそうに置かれている一冊の本が気になって仕方がないからだ。
サリーナに見られたのは昨日の夜。見られたソフィアは内心動揺しまくりだったが、サリーナの話ぶりが何も知らない様だったので安心していた。だが、ソフィアは完全に騙されていた。
朝食の際、本を片手に慈悲深い女神のような笑みをたたえ近づいて来たサリーナは「これ、役立てて」と何てこともなさそうにソフィアに一冊の本を手渡した。
『魔術師による、魔術師のための植物図鑑』
受け取ったソフィアはその場で固まった。まさか……と思ったが、サリーナは「渡す時に育て方も伝えるのが基本らしいけど、あの人なら教えてくれてないでしょう?」と言う。その時、ソフィアはすべてお見通しなのだと悟り、恥ずかしいやら何やらで居た堪れず、只々この半日にも満たない時間でこの本を手に入れたサリーナを称賛するしかなかった。
髪も結び終わり、後は店舗である一階に降りて準備を始めるだけとなったソフィアは恐る恐る本へと近づく。手にとってみるも、開くとなると躊躇してしまう。
テーブルの中央には何の飾りも付いていないありふれた小さな鉢植えが置かれている。その鉢植えにクレイズから渡された『結びの種』を植えようとしたのは、どんな花が咲くのかな、というほんの小さな出来心だった。
しかし、部屋に来たサリーナに見られて隠すように慌てて植えたはいいものの、冷静になったソフィアは唖然とした。
なんせ花が咲くということは、クレイズの気持ちを自分が受け入れたという証拠だ。そんなこと起こり得るはずがないのだから、当然花など咲くわけもない。どんな花が咲くのかと興味を持った自分が馬鹿すぎて、ソフィアは項垂れた。
しかも、サリーナには植えるところを見られ、何も知らなさそうだという淡い期待は完全に打ち砕かれた。この本の中には結びの種の育て方が書いてあるはずだろう。
「なぁぁあああーー」
地を這うような恐ろしい呻き声がソフィアの口から漏れ出る。力なく床に膝をつく姿は実に滑稽だ。
「このまま放置すれば何事もなく終われるのか……あぁ、いや、でも……」
色々な植物を育ててきた身としては、鉢植えに種を植えるまでしておいて放置するのも気がひける。
「植物に罪はない……うぅぅうう……」
様々な葛藤を頭の中で繰り広げた結果、『植物に罪はない。育てても咲かないが、放置するよりはマシである』という誰かに言い訳しているような結論に至り、ソフィアは本を開いたのである。
本に書いてあった内容はいたってシンプルなものであった。
・毎朝種に水をやる
・花が咲くまでは日陰に置き、花が咲いたら太陽に当てる
これだけなら花壇の花を育てる方がよっぽど手間暇がかかるなとソフィアは思う。
備考欄に『水から伝わる相手の微弱な魔力を通して相手の気持ちを感じ取り花が咲く。魔力を込めた魔術師の想いが消えると花は咲かない』と書かれていたがソフィアは気づかぬふりをした。
早速ソフィアは如雨露に水を入れてくると鉢植えに水をかけた。なるべく無になるよう心がけるが、ふっとその必要がないことに思い至る。
逆に気にしている方がおかしいではないか。それではまるでーー
「あぁ、今日は何だかおかしい。なにをぐちぐち考えてるの」
頭を思い切り振って考えていること全てを吹っ飛ばそうと試みる。最近の自分はおかしいのだ。変にクレイズを意識しすぎている。これでは奴の思惑どおりだ。
「いつも通り。いつも通りでいい」
ソフィアは呪文のように同じ言葉を繰り返しながら部屋を出た。ギシギシといつもは気にならない階段の軋む小さな音が耳に残る。
一階に降りたソフィアは辺りを見回し、誰もいないことに安堵の息を吐いた。台所のある奥へと向かい、食材の在庫を確認し始める。
あれがそろそろきれる、今日はこの一品を出そうかと考えていると、すっと風の流れが変わる気配がした。野菜を手に持ったままソフィアの動きが止まる。
「おはよう」
いつもよりも幾分眠たそうな低い声がソフィアの背後からかけられた。ソフィアの肩が僅かに揺れる。
「お、おはようございます」
振り向くこともしないままいつも通りの挨拶を返したソフィアだったが、背中に刺さる視線が異様に気になり、ゆっくりと振り返った。
そこには腕を組み、若干不機嫌そうな雰囲気を醸し出しているクレイズが立っていた。
「あの……なにか?」
「敬語。言葉遣い、なんで戻した」
「え、あぁ……」
ソフィアは目を泳がしながら、そういえば敬語をやめたんだった、とつい昨日した約束を思い出す。
「癖で……」
最もな言い訳の言葉が思い浮かばずソフィアは在り来たりな理由を述べたがクレイズは納得できていない様子だった。
「戻すなよ?」
「はい……あ、うん」
しどろもどろなソフィアの態度を不審に思ったのかクレイズが無言でソフィアに近づく。思わず腰が引けたソフィアに気づいていないクレイズは、すっと大きな手の平をソフィアの額に当て、もう片方の手を自分の額に当てた。
外から来たせいかクレイズの手はひんやりしていて、火照ったソフィアの顔を冷やしてくれる。一瞬気持ち良いと感じてしまったソフィアだったが、クレイズの言葉ですぐに我に返った。
「少し熱っぽいか?」
「い、いやいやいやいや、全然平気」
「そうか? なんかいつもと違う気がするぞ」
ソフィアは頭を抱えたくなる。
いつも通りと思えば思うほど意識してしまってうまくいかない。自分はどうしてしまったのか。今までこんなに他人の言動に動揺したことなどなかったのに。
「今日、仕事休んだらどうだ?」
思わず、そうさせてくれと言いそうになったソフィアは慌てて首を横に振る。
もうこの時点でおかしい。ソフィアにとって仕事こそが自分の価値を示す大切なものであるはずなのに、今、ソフィアは一番言われたくない相手からの提案をのみそうになった。
「あんまり無理はするな」
聞いたことのないようなクレイズの優しい声にソフィアの心臓が煩くなる。
ああ、駄目だ。いつも通りって、いつもはどんな感じだったっけ。
ソフィアは今度こそ頭を抱えたのだった。




