夫婦(偽)、街を歩く
「あら、夫婦でお出かけなんて珍しいわね」
アパートの前の道を箒で掃いていた大家のメルシーは、階段から降りてきた黒髪のウィッグをつけリリアに変装しているソフィアと帽子を目深にかぶるクレイズを見つけ声をかける。二人が並んで歩く姿を見たのが入居した日だけのこともあり、メルシーは珍しいものを見るような目を向けた。
「おはようございます、メルシーさん。ちょっと友人がこっちに来てるみたいなので会ってきます」
「そうなの。気をつけていってらっしゃい」
「はい。いってきます」
ソフィアはサリーナを意識した柔らかな笑顔を浮かべメルシーに手を振る。隣に並ぶクレイズは軽く会釈するのみだ。
付かず離れずの距離感で歩く二人を見送りながら、メルシーは初めて会った頃より二人の纏う空気が柔らかくなった気がしたが、深く考える間も無く近所の住人に声をかけられ、意識はそちらに逸れていった。
ソフィアとクレイズの目指す先は、朝から賑わいを見せる商店が集まる道のカフェだ。まだ朝という事もあり、道を占めるのは食材を買いに来た者か朝食を食べに来た者くらい。そんな人混みに紛れながら、黙々と無言で二人は進んでいたが、限界だと言いたげにクレイズは盛大なため息をついた。
「なんで俺まで行かなきゃならない。お前だけで十分だろう?」
「協力すると言ったじゃない。それに、この前は私が付き合いました」
唯のお飾りとしてね! と睨みつけるソフィアにクレイズは「楽しんで見てたくせに」と呟く。しかし、しっかり聞こえていたはずのソフィアは聞こえないふりで言葉を流した。
口喧嘩してる場合じゃないと気を取り直したソフィアは少し速度を上げるも、クレイズのスピードは変わらない。本当に協力する気があるのか、と怒りを通り越して呆れた表情で振り返ったソフィアは小さなため息を吐き、来た道を少し戻った。
「体調が悪いの?」
「いいや。王宮にいた時より断然いい」
「ならもう少し早く歩いて。待ち合わせ時間に遅れるわ」
「だから、お前だけでいいだろって言ったんだ」
ソフィアはこれ以上言っても無駄だと言葉を飲み込み、クレイズに背を向けると、目的の店に向かって歩き出す。当たり前のようにクレイズとの距離は開いていくが、気にすることはやめた。
昨晩、サリーナとの久しぶりの能力による会話で、聖女一行がハデスト帝国に入ったと知らされた。城のある首都に到着するまで、あと一週間程だろう。それまでに、少しでも準備を進めなくてはいけないし、情報だってまだ足りない。
刻一刻と決戦の日は近づいている。ティライス王国、いや世界の命運を握るのは聖女。そして、城に住む男。
ソフィアにとっては、ティライス王国がどうなろうと関係ないのだが、セルベトに任された任務を放棄することはプライドが許さない。いや、プライドというより意地かもしれない。今の仕事を蔑ろにする事は、今までこなしてきた仕事を意味のないものにしてしまいそうで嫌だった。
「……まずは城にいる男の情報を増やさなきゃ」
もう少しで目的の店というところで、ソフィアは自分に迫る人の気配を感じる。咄嗟に振り返った先にいたのは、突然振り返ったソフィアに驚いた表情を向ける仕事先の先輩である女性であった。ちなみに、ソフィアに『リリアは旦那さんが大好きなのね』とほんわかした笑顔で爆弾を落としてくれた人、名前をナイラさんという。
「び、びっくりしたわ。突然振り返るんですもの」
「おはようございます。私もまさかナイラさんに会うと思わず驚きました」
「じゃあ、おあいこね! ふふふ〜」
何がおあいこなんだろう、と思いながらソフィアは何とも言えない笑顔を浮かべる。ナイラは他の同僚達に比べて、雰囲気が柔らかく、仕事中も基本聞き役に徹しているような人である。少し天然なところは否めないが、既婚者ということもあり、他より落ち着いている、そんな印象だ。
それにしても、朝からこんなところでどうしたのか。気になって聞いてみれば、久しぶりに休みをとれた旦那さんと買い物に来たのに逸れたのだとか。確かに賑わってはいるが、何故大の大人が逸れるのかという疑問は口にしてはいけない気がした。
「何故かあの人、すぐにどっか行っちゃうのよ。出かけるたびに逸れちゃって困るのよね。リリアも今日は買い物?」
「あー、ちょっと友人と会う約束がありまして」
「まぁ! リリア友達いたのね!」
それはどういう意味でしょうか。さすがのソフィアも暴言とも言えるナイラの言葉に笑顔を引きつらせる。すると、背後から大きく吹き出した音が聞こえた。
振り返らなくても気配でわかる、クレイズだ。関わるのが面倒だったのだろう。少し前から近くにいる気配を感じていたソフィアは、拳を強く握ることで怒りを抑える。今、クレイズがこの輪に加わればカオスになるのは目に見えているからだ。
しかし、ナイラはソフィアの遥か上をいった。何を感じ取ったのか、吹き出した人物とソフィアを何度か交互に見つめて一言「旦那さん?」とソフィアに首を傾げて聞いたのだ。
別に、ハデスト帝国に入る際に夫婦と偽り、その後も新婚という設定で過ごしてきたのだから誤魔化す必要はないのだが、ソフィアは無性に否定したくなった。紹介していないのに旦那と決めつけられたことが、凄く、物凄く不満だったからだ。
「な、なんでそう思ったんですか?」
悪足掻きに聞いてみれば、ナイラは笑顔で「なんか似てるからかなぁ」と、またもやソフィアに爆弾を落とすのであった。
「……初めまして、リリアの、夫のレイオンです」
観念したのか、ソフィアの後ろからやって来たクレイズがナイラに挨拶をする。レイオンとはハデスト帝国でのクレイズの偽名だ。さすがに妻の同僚に挨拶するとあってか、クレイズは目深に被っていた帽子をとった。
何処にでもいる茶色の髪と瞳は魔術によって変えたもの。さすがに顔立ちまでは変えられないので整った美しい顔のままだが、深い青に染まる髪や夜空が溶けたような人を惹きつける瞳でいるよりはマシだ。
それでもナイラはクレイズの顔を見て息を呑んだ。ソフィアはナイラの様子を伺う。女性ならば、こんなに整った顔立ちの男の妻であるソフィアを羨ましいと思う人がほとんどだろう。
自分にないものを持つ人間に嫉妬したり、腹を立てる。それは、よくある事だとソフィアは思っている。憎しみや嫉妬で道を踏み外した人間を仕事の中でたくさん見てきた。だから、ナイラの反応を伺っていたのだが、ナイラは突然ソフィアの肩を掴むと興奮しているのか頬を染め、満面の笑みを浮かべる。
「リリア凄いわ! こんなにかっこい男性をゲットするなんて!」
「え、あ、はい。そう、かもしれないですね」
「優しそうだし、私、安心しちゃった! こんな素敵な方なんだもの、そりゃ大好きな訳よね。あ、挨拶が遅れてすいません。私、同僚のナイラと申します。いつもお世話になっております」
クレイズはナイラの勢いに押されているのか、若干顔を引きつらせながら「こちらこそ、妻がお世話になってます」と言葉を返すのがやっとのようであった。
ソフィアはといえば、すでにナイラの勢いにノックアウトされ、魂が抜けかけている。そんな二人の前に救世主が現れた。
「ナイラ!」
「あら、ガッシュ」
短く切られた金髪に赤みがかった橙色の瞳を持つ青年が遠くからナイラの名を呼び走ってくる。凛々しい顔立ちに鍛え上げられた身体は一目で武術の心得がある者だとわかる。そんな青年の両脇は買ったのだろう品物が占領していた。
ガッシュと呼ばれた青年はナイラの元にたどり着いてすぐ「勝手に動き回るなといつも言ってるだろう」とげきを飛ばす。結局、逸れたのはナイラの方だったということだ。なんとなくそうだろうな、と思っていたソフィアは苦笑いを浮かべた。隣にいるクレイズも同様である。
そして、私達へ振り返ったガッシュは「妻がご迷惑をおかけしました」と深く頭を下げた。「何もなかったですから、頭を上げてください」とソフィアは言いつつ、クレイズからの何か言いたげな視線を誤魔化す。
ホッとしたように顔を上げたガッシュは、クレイズを見て目を見開いた。
「救世主さん?」
「……俺のことか?」
ガッシュの視線を感じたクレイズは眉間に皺を寄せる。救世主呼ばわりがお気に召さないらしい。
「もちろんです。首都近くの村を救ってくれた救世主さんですよね?」
「もしかして騎士かなんかか?」
「はい。と言っても平民出身の騎士で下っ端の下っ端ですが。この前の首都近くで発生した魔獣化した動物の駆除の際に派遣されました」
それは何とも無謀なことを、とソフィアは思う。平民から騎士ということは剣の腕は中々だろうが、それでも簡単に唯の騎士が魔獣化した動物を倒すことはできないだろう。ハデスト帝国は武力が高く、実力主義が強いとされているが、まだまだ貴族階級の騎士が優遇され、平民出身はいいように使われているのかもしれない。
「貴方のような力のある方が味方にいてくだされば、まだ俺たち下っ端でも住民を守ってやれそうだと皆が言ってます。本当にありがとうございます」
「……そうか」
「しかし、聖女様が入国したという噂もありますし、この状況ももう少しの辛抱かもしれませんね」
目尻を下げ優しく笑ったガッシュは「引き止めてすいません」と再び頭を下げ、ナイラを引き連れて去っていく。
その背を見送りながら、ソフィアはすでに聖女一行の入国が帝国内で噂になっていることを重く受け止めていた。下っ端の騎士だというガッシュにまでは皇帝の考えが伝わっていないが、クレイズの入手した情報によれば、ハデスト帝国の上層部は聖女オリビアの浄化の力を邪魔に思っている。例え、下の者たちが必要としていても。これはすぐにサリーナに伝えるべきだなとソフィアは考えを巡らせる。
「おい」
不機嫌そうな声をかけられ、ソフィアが考えることを止めれば、目の前には帽子をかぶり直したクレイズが腕を組んで立っている。
今、大事なことを考えてるの、と言いたげな視線を向けるソフィアを見たクレイズは呆れたように盛大なため息をついた。
「お前、約束忘れてないか?」
「あっ! ま、まずい!」
ソフィアの顔から一気に血の気が引いていく。慌てて駆け出したソフィアをクレイズは不思議そうに眺めていた。
「そんなに面倒な相手なのか? おいおい、勘弁してくれ」
先程のナイラといい、今日は完全についてなさそうだ、とクレイズは足取り重くソフィアの後を追ったのであった。




