大概、単純だった
何処かの屋敷の塀に背中を預け、小さな身体全体で荒い息を上げながら座り込む少年。纏う服は泥で汚れ、目も虚ろで表情が抜け落ちている少年の横を豪華な一台の馬車が通り過ぎようとして、突然少年の目の前で止まった。馬車から降りてきた男は、高価な布で作られている貴族服が汚れてしまうことも気にせず、少年の前に屈みこむ。
「どうしたんだい? よかったら私に話してみないか?」
これがクレイズとセルベト・オーランドの初めての出会いであった。
平民の子として生まれたクレイズは、高い魔力量を保持して生まれた。そのせいか、生まれてすぐに魔力が暴走するという事件を起こし、クレイズの魔力量の多さが発覚、そのまま貴重な存在として保護という名目で国預かりとなった。だからクレイズは両親の顔を知らない。いや、幼い頃はよく会いに来ていたはずだが、ある時から姿を現さなくなったため覚えていないという方が正しい。
魔術のセンスも高いことから王国一の魔術師になるだろうと期待されていたクレイズは、その整った顔立ちも相まって人々にちやほやされて育った。親の顔も知らずに生きていたクレイズは、寂しいと思うことはあったが、たくさんの人に囲まれ、何不自由ない生活を送れていることに不満を抱くことはなかった。
この頃のクレイズは表情豊かな、どこにでもいる少年であった。
そんな順風満帆な生活が崩れ始めたのは魔術学校に入学して二年程経った九歳頃。クレイズの特異体質の能力が目覚めたのだ。
それからは地獄のような日々であった。能力の目覚めが遅かったクレイズは、自我がしっかりあり、王国の歴史なども大方理解している歳であったため、特異体質がどれ程人々に恐れられ、能力者がどれ程嫌われているかを知っていた。だから、己のことを誰にも相談できなかった。
今までと変わらずグレイズを褒めちぎり、笑顔で話しかけてくる人々。しかし、クレイズの耳にはその人達の嫉妬に駆られた言葉や馬鹿にする言葉、憎悪、憎しみなどが聞こえていた。幼いクレイズは彼らの本心を知り、絶望した。
聞きたくないのに聞こえてくる心の声はクレイズの心を蝕み、表情を奪っていく。そして、とうとうクレイズは耐えきれなくなり逃げ出したのだ。
「私に話してごらん」
ーー子供がこんなところでどうしたのだ。何か事件だろうか?
セルベトの思考が言葉とともにクレイズの耳に流れ込んでくる。人を信じられなくなっていたクレイズは、本心から心配しているセルベトの心の声を聞いて思わず口を開いた。
「事件じゃない。逃げてきただけ」
その言葉を聞いてセルベトは僅かに驚きを見せる。
「もしかして君は特異体質者かい?」
ーーこの子も特異体質者か。
「おじさんもそうなの?」
「あ、あぁ、そうだよ。ここじゃあれだ、私の屋敷で話そうか」
ーー逃げてきた、か。まずは色々聞かねばならないな。
こうしてクレイズはセルベトに保護され、そのままセルベトの別邸に住みながら能力の制御方法などを学んだ。人との関わりを拒絶していたクレイズにとって、必要最低限の人しかいない別邸での生活は有難いものであった。セルベトの配慮で別邸で魔術も学んだクレイズは、いつの間にか王国一の魔術師という地位を手に入れた。もちろん欲しかった訳じゃない。魔術師になれば魔術学校にいた者達にも会う機会が増えるから、正直、地位などいらなかった。
しかし、セルベトという人物は良くも悪くもティライス王国第一の人間であった。優しく面倒見はいいが、国のためなら使えるものは何でも使う。クレイズもまたセルベトにとっては、息子のような存在でもあり、国のために動ける人材でもあった。
セルベトに借りのあるクレイズは、断ることもできず、言われるがままに魔術師として王宮という窮屈で不愉快な場所に居続ける。決して強制な訳ではなく、セルベトからは『守りたい何かができたら私の元を去ってもいい』と言われていたが、その言葉を聞いたクレイズは、そんなものできるはずないじゃないか、と内心毒づいた。人間なんてどうにでもなれ、と思っている自分に守りたいものなど出来るはずはないと。
結局、研究室に篭り、他者と関わらず、だらだらと過ごしていたクレイズのもとに久しぶりにセルベトが訪ねてきたのは半年程前のこと。セルベトの第一声は言わずもがな、聖女一行に加われというものであった。
さすがに他者と旅をしろなどとクレイズにとっては最悪としか言えない内容に、断固拒否を示したクレイズであったが、セルベトはただ一言言葉を残し研究室を出て行った。
「これが終われば好きに生きていいぞ」
思いもよらない提案に、クレイズはこれで自由になれると喜ぶことができなかった。どちらかといえば、何かを失ったような喪失感が胸を占め、その場に立ち尽くしていたのだった。
突然、倦怠感や疲労感が身体を襲い、クレイズは重たい瞼をゆっくり開ける。視界に入ってきたのは、先ほどまでいた研究室ではなく、薄暗い部屋であった。次第に意識がはっきりしてきたクレイズは、やっと己の状況を理解する。
「夢、だったのか。くそ、またなんであんな夢を見なくちゃいけないんだ」
重い身体を起こし、いつの間にか貴族のような服装からいつもの服に着替えていることを確認すると、クレイズはベッドから抜け出した。部屋の扉を開けたクレイズは思わず動きを止める。目の前にある居間のソファで、いつもの黒髪ではなく彼女本来の姿である亜麻色の長い髪をおろし、化粧を落とした無防備な姿のソフィアが背もたれに寄りかかり眠っていたのだ。ソフィアの前にあるテーブルにはクレイズのために作ったのだろう夕食まで置かれている。
「なんでこんなところで寝てるんだよ。風邪引くぞ」
クレイズはソフィアの横を通り過ぎ、台所で水を一気に煽り喉を潤すと、ソフィアの向かい側のソファに腰を下ろす。音がならないように気をつけながら皿を引き寄せ、夕食を口に運んだクレイズは「うまい」と小さく呟いた。
「あんな夢を見たのはお前のせいかもな」
どこか刺々しい視線や態度の普段とは違い、あどけない寝顔を見せるソフィアをクレイズは夕食を頬張りながら眺める。
ソフィアは他者と自分との間に線を引いている、そんな印象の女性であった。自分を隠すのが得意なのだろう、疑われることなく人に紛れ、仕事を熟していく。セルベトからソフィアの任務を聞かされていたこともあり、仕事を早く終わらせるにはちょうどいい相手、それぐらいに思っていた。
しかし、蓋を開けてみればクレイズはソフィアに弱みばかり見せているではないか。能力を気遣われ、看病をされ、食事まで作られている。必要以上に関わるなと突っ撥ね、利用してやろうと考えていた最初の頃の自分が愚かだと思えるくらいに、クレイズはソフィアと関わりを持ちすぎていた。
だが、その理由も劇場での出来事ではっきりとわかった。結局、クレイズはソフィアとの関わりが嫌じゃなかった。いや、正確には人の温もりを求めていたのだ。
逃げようと思えば逃げれたというのに、セルベトには借りがあると王宮から出なかったことも。
好きに生きていい、と言われた時の喪失感も。
拒否せずソフィアの作った食事を食べていることも。
ソフィアに支えられながら能力を使った際に感じた安心感も。
不快だ、嫌いだ、なんて言いながらもクレイズは人の温もりに飢えていた。今思えば、食事が上手いと思ったのはいつ振りか。笑ったのはいつ振りか。人を心配したのはいつ振りか。
「はぁ……くそ」
クレイズは目元に手を当て息を吐くと、食べ終わった皿を持ち台所へと向かった。いつものように皿を洗い終えると、再び居間へと戻る。しかし、向かったのは先ほど座っていた席の向かい側、ソフィアのもとであった。
「おい。おい、起きろ」
「ん……あっ!」
クレイズの呼びかけに反応したソフィアは、小さく声を発した後、驚いたように飛び起きる。思いもよらない反応にビクッと身体を揺らしたクレイズは、冷静さを装いながら呆れた声を上げた。
「んなとこで何してんだ」
「何してるって……そりゃ、あ! 食事が!」
「あぁ、食べた」
「食べ…… いや、まぁいいんだけど。それより身体は?」
起きたばかりのせいか、いちいちクレイズの言葉に大きく反応するソフィアを、クレイズはじーっと見つめる。その夜空を取り込んだようなクレイズの瞳からソフィアは思わず目を逸らした。だからソフィアは気づかない。クレイズの口元が僅かに緩んでいたことに。
「な、なに?」
「いや。身体はもう大丈夫だ。お前も部屋で寝ろ」
そう言うが早いか、クレイズはソフィアに背を向け自分の部屋へと戻っていく。そんなクレイズの背を見つめながらソフィアは首を捻った。結局、なんの用事で起こしたのかと。
一方、部屋に入り、再びベッドに横になったクレイズは所々汚れている天井を見つめながら小さく息を吐いた。
「……俺も大概、単純だな」
クレイズの呟きは狭く静かな部屋へと溶けていく。その余韻に浸るように、クレイズはゆっくり目を閉じるのであった。




