新生活は前途多難
汚れなんて一切見当たらない真っ白なシーツを何枚も抱え、ふらつきつつ肩ほどの長さの黒髪を揺らしながら歩く娘。広い屋敷の中にはそんなに必要なのかと思うほどの部屋があり、使っていない部屋のシーツさえもかき集めてくるのが彼女の仕事だ。
貴族様の考えることは理解できない、そう言いたげに眉をひそめ歩いていた娘は、洗濯場に着くと、どさっとシーツを籠に入れ、肩を回す。このコルベス伯爵家の屋敷で働き始めて五日、やっと仕事にも慣れてきた。
「これで全部かい? リリアちゃん」
「はい、これで全部です」
リリアと呼ばれたその娘は、声のかけられた方へと顔を向け、笑顔で答える。それに頷いたのはベテランの洗濯婦だ。
「ご苦労さん。一日は始まったばかりさ、頑張りなぁ」
「はい、ありがとうございます」
そう言うが早いか、素早く洗濯場を出るとベッドメイキングを始めようとしている先輩達の元へと急いだ。急ぐといっても走れば一発でクビになってしまう。リリアは目立たないよう、しかし怒られるのも嫌なので素早く歩いた。
「戻りました!」
「じゃあ早速始めるわよ、リリア」
「はい!」
途方も無い数の部屋を回るため、皆の動きには無駄がない。入ったばかりのリリアであったが、仕事を卒なく熟すため、すでに戦力の一人としてカウントされていた。
黙々と部屋を綺麗に作り上げていく。しかし、幾つ目かの部屋に差し掛かる頃には集中力が切れ始め、女性特有の雑談が織り混ざってくるのだ。リリアは無駄口など叩ける立場ではないため、専ら聞き役である。
「最近、旦那様は城から帰ってこない事が多くなってきたわよね」
「そうよねぇ。奥様もお身体を心配なさっているみたいだけど、そんなにお仕事が忙しいのかしら」
「穢れのせいかもしれないわね」
リリアが一瞬手を止め、先輩の方へと視線を向ける。そんなリリアに気づく様子もなく、彼女達は話を続けていた。
「確かに穢れが発生した頃から忙しそうだったけれど、他国に比べたら少ないって話じゃない。それに、隣国のティライス王国に聖女様が現れたっていうし」
「あら、でも、最近首都の近くで魔獣化した動物がちらほら現れてるとか。安心していられないわよ」
へぇ、首都の近くに魔獣化した動物がねぇ……騎士団が動き出している様子はないけど大丈夫なのかしら。
リリアは再び仕事を始めながら心の中で、どうでもよさそうに呟いた。そんなリリアの呟きに答えるかのように、一人の先輩が口を開く。
「その魔獣化した動物を倒してくれる男が現れたって言うじゃない。動物が現れてすぐに騎士様を呼びに行ったところで、間に合わないから、救われた一部の人の中には救世主だと讃える人もいるとか」
「救世主ねぇ。まぁ、確かに無償で命の危機を救ってくれるなんて、このご時世じゃ救世主かもしれないわね。それに魔獣化した動物を相手にできるのだから強いに決まってるもの」
「会ってみたいわぁ。どんな素敵な方なのかしら」
「素敵かなんてわからないわよ。ただのおっさんかもしれないじゃない」
そこからは救世主の妄想話に盛り上がり始めたため、リリアは耳を傾ける事をやめた。しかし、面白い情報が手に入った、とリリアは内心ほくそ笑んだ。
住み込みではないリリアが家へと帰るのは夜遅い。街灯と家々の明かりを頼りに夜道を歩けば、我が家へと到着だ。
階段をあがり、鍵を開ければ部屋の中は真っ暗、これはいつものこと。
「只今帰りましたぁ」
返事がない、いや、家に同居人がいないのも、いつものことだ。
「あの人はどこで何をしてるのよ」
そう愚痴りたくなるのも仕方がない。あの人ことクレイズは、同居生活が始まり、ソフィアがリリアとしてコルベス伯爵家で働くことになってから、家にほとんどいないのだ。夜は帰ってきているようだが、ソフィアが朝早く仕事に向かう時には自室で寝ていて、すれ違い生活である。
正直、ストレスが溜まるので会いたくはないのだが、何をしているのかは気になる。一度聞いたが「教える義理はない」と腹の立つことを言われてしまった。
夜ご飯をパパッとある材料で作り、一人で黙々と食べる。それが今まで一人で仕事をしてきたソフィアにとっては普通のことなのに、目の前にもう一人分の食事があるだけで一人の家ではない、という事実を突きつけられる。そして何故か落ち着けず苛々するのだ。
目の前にはいないのに、存在を主張されている、そんな感じ。ならば二人分を作らなければいいじゃないか、と思うのだが、無駄なプライドが邪魔をする。
ハデスト帝国に浸入して二日目、同居生活を始めた日の夕食のことである。買い物から帰ったソフィアは、深く考えることなく、二人分の食事を作った。腹の立つクレイズではあるが、一応魔術師という国の中でも貴重な存在。下の者が上の者の食事を準備するのが当たり前だろう、と思ったからだ。
しかし、ソフィアが食事ができたとクレイズに声をかけに行ったところ、思い切り眉をひそめられた。顔を歪めても美形は美形なのか! とソフィアが変なツッコミを心の中でしたのは、苛立ちで暴言を吐かないための最善策だったと言いたい。
「なんの冗談だ?」
「どこに冗談で食事ができたと声をかける者がいますか」
そう言ったソフィアにクレイズは盛大なため息を吐いた。
お前何様だよ! と叫ばなかったあの時の己を褒めてやりたいとソフィアは思う。
結局クレイズは、せっかく作ったのだから食べろ食べろ……というソフィアの熱い視線に根負けしたのか、嫌々ながらご飯を食べた。感想は勿論頂いていない。
ソフィアとクレイズのご飯の攻防戦が始まったのはそれからである。
一緒にご飯を食べるのが嫌なのか、ソフィアの作るご飯を食べたくないのか、何をしているのかさっぱりわからないが、次の日からクレイズは家にいることがほぼなくなった。
しかし、夜になると家に帰ってくるのがわかったソフィアは、半ば嫌がらせのようにご飯を作って置いときはじめる。最初の二日程は全く手をつけられなかったご飯も、三日目からは皿だけになっていた。しかも、しっかり洗われた状態で。
その事にソフィアは、クレイズに勝った気がしたのだ。嫌々ながら、それでも食べるクレイズを想像すると笑いが漏れる。だから、例え目の前に食事がある事で、クレイズの事を思い出し腹が立ったとしても、唯一の嫌がらせを止めるつもりはソフィアにはなかった。
今日もクレイズの帰りは遅いだろう、と判断したソフィアは、さっさと寝てしまおうと準備を始める。今日、得られた情報もまとめなくては、と寝る前にやる事を考えていると、突然玄関の方から大きな物音が響いた。
咄嗟に短剣を構え、壁に寄ったソフィアは気配を消して慎重に様子を伺う。
ハデスト帝国に浸入がばれたのか、と相手を警戒しつつ、ゆっくりと玄関を覗き込み、ソフィアは息を飲んだ。
ソフィアは警戒を解くと、慌てて玄関へと駆け寄る。
「なっ、どうしたのですか!?」
声をかけた先に倒れていたもの、それは見慣れたローブを羽織るクレイズだったのである。




