この白いテーブル
今日の目覚めは驚くほどに爽快だった。
寝起き直後特有のぼんやりした感覚も、手足に血が巡りじわじわと力が入ってゆく感じも、皆無である。
思考や肉体の状態が最初からクリアであった。
昨日のことを考えれば意外でもあり、当然でもある。
火事から逃げ出し、異世界へと着て、会話をしていただけ。労働していた頃と比べれば格段に身体を動かしていない。未知との遭遇という精神的疲労はあっても、身体のほうは思ったほど負荷を感じていなかったようだ。
管理者というものを謹んでお受けさせていただくと返事をした後、すぐに眠りについてしまったのだ。今の時刻はわからないが、あんな夕方前からぐっすりと寝てしまえば寝覚めが良いのも当たり前であろう。
ベッドの横に添えられている椅子では、タチバナさん――いやサツキが、畳んだ衣服を膝の上に抱えて座ったまま寝ている。
改めて思うと、不思議である。
夢でも感じたが、サツキはあまりにも僕の「好み」であり「理想」なのだ。その姿、その声、その仕草、その反応、そのどれもが目をひき、心惹かれるものだ。
アマネさんという女神様が美を体現化されたものだとしたら、それはもっと普遍的なものであって、サツキとは別のものである。
こんな奇跡的な偶然は、天文学的確率ほどに低いだろう。
そんな大変喜ばしい女の子が『妻として』とは一体どういうことか。
文字通りに妻になるというのだろうか。昨日会ったばかりであるこの自分の。
僕としては頭を下げて歓迎してしまうけれども。
昨日のアマネさん達の口振りや話から察するに、それは決定事項か或いはそう望んでいる節があると思われる。
あちら側からの要求を飲むことが管理者に求められているのかもしれない。憶測にすぎないが。
別段困ることは何もない。
知らないことだらけの始まりだが不安というほどのこともない。きっとアマネさんとサツキのおかげであろうが。
人の善さそうな――しかも美人と可愛い――二人に出会ったからといって、先々を心配しないとは我ながら易い(・・)性格だと思う。
とりあえず、船を漕いでいるサツキを起こさないように、ベッドからそっと離れて部屋を出る。
廊下へ出るとここ(・・)は箱状であるとわかった。目の前に昇り降りする階段だけがあり、廊下も部屋と同等の長さしかなく、両方の壁に小さな出窓が備えつけられており、後は何本かの、恐らくは空調設備や水道だろう管が隅っこにあるだけであった。
左右の幅から推測するなら、大きな正方形の面をパーテーションで区切り、さきほどまでいた十二畳ほどの室内空間を作り出していたと。そう考えるとかなりの大きさである。
廊下の出窓から確認すると、ここは夢でも見かけた建物だった。
階段を降りると一階のようで、寝ていた場所とは趣が異なり、箱自体が一つのダイニングキッチンという奴になっている。四角い室内は一方の壁一面を取った大き目な窓があり、その脇に申し訳程度のドアが備え付けられていた。
「あ、この白いテーブル……」
夢のことを思い出してしまう。この場所が事件現場だ。ここでいきなり抱き付いてサツキを押し倒して……。
はい、やめやめ。朝から何を考えているのか。この身体はどれだけ欲求不満なのだ。いくら二十六年間清い身とはいえ、分別というものもあろうに。猿なのか。ケダモノなのか。
イケナイ思考を忘れるべく早々に部屋を出る。
ドアを開けてすぐ目に飛び込んできた、町と青空。
この建物が丘の上にあったようで、町並みは一望できる。振り向いて確認してみると、大きな白い箱が四つ積み重ねられていた。今しがた出てきた建物がこれである。
だがそれよりも目に付いたのは、建物よりもその背後にある巨大な樹である。
ここまで大きな樹は初めてみる。こんなものは地球にはないだろう。
ファンタジーでなら世界樹とか呼ばれて、オタク的な人間が見れば、イグドラジルとかセフィロトとかそんな仰々しい名をつけそうなものだ。
巨大樹は白い箱状建物より数倍の高さも太さもある。
樹の周りを見に行くと、別の箱状建物に気が付く。こちらは灰色で、窓がなくドアが一つ付いているのみとなっていた。
その付近には、これまた見るのが初めてなやや大きい銀色の扉がある。扉はあってもそれだけ(・・・・)だ。後ろには巨大樹があるだけで、何処にも繋がっていない。扉の表面には奇妙な図柄のような細工だか絵だかがびっしりと見える。多分これが、昨日の話にちらっと出ていた銀の門とかいうやつだろう。
近くによってその細部を見てみたくもあるが、よくわからないのでやめておく。
そのままぐるりと、少し距離を置いて巨大樹の周りを歩き続ける。
半分ほど歩いた辺りに、何やら奇妙な群体を発見する。
柵で囲われているその場所に、卵なのかそれともカプセルなのか、遠目にはよくわからない、楕円形をした物体がたくさんある。大きさは2メートルぐらいか。規則的に並んでいるというふうでもなく、一定の範囲に乱雑に置かれているといった感じだ。
この場所への道が丘の下、町のほうへと伸びている。柵があるということは大事な場所のようだしあまり迂闊には寄らないようにしよう。
そんな風に歩いていると元いた場所に戻ってきていた。
確認できたのは白い箱が四つ重なったこの建物、灰色の箱の建物、大きな銀の門、卵型の何かの密集地帯、これだけだ。
円型の丘の上には他に何もない。眼下の町とは隔離されたこの場所は、意味合いはわからないが、この丘一帯が特別な場所なのが察せられる。
遠望出来た町並みは、東西南北から伸びる丘に向かう少し大きな道で四つの区画にわけられており、白い箱の建物がそうであったように、町も箱の形状を真似るかのごとく綺麗に立ち並んでいる。この丘を中心として、真四角なのであろう。
町はさほど大きくはなく、人口も多くないことが予想出来る。町の外部はというと、はっきりとは見えなかったが新緑の平原が一面に広がっているのみであった。一見なんの不思議もないような光景だったが、何もなさすぎる(・・・・・・・)ことの不自然さには後から気づくこととなった。
そしてこの丘を取り囲むように、町並みとはまったく不釣合いな、大きい水槽のような建造物が六つほど確認できた。あれが想像通りに水槽であるならば、きっとあれは貯水タンクとか、そんなのだろう。
他には目立つ建物はなく、また、予想はしていたが車などは走っておらず、空に飛行機やヘリコプターなども見つからなかった。
この暇つぶしに時間がどれだけかかったかわからないが、ひとまず白い建物に戻ることにする。
*
アマネは武器化させていないマリス殲滅用の槍≪プロテスティクム≫を携え、町南方の入り口付近を歩いていた。
イノセンツとして毎日欠かすことなく行われていた朝の巡回も、管理者が現れてしまえば必要なくなっていくであろうことを考えると、気が休まると同時に少し淋しいと感じるアマネである。
そして考える。
現れた『管理者』――あのリョウタロウという人間は信頼してもよいのだろうか、と。
ルラーシュに入場を許可された人間であるならば、イドールにとって危害をもたらす存在ではないと理解はしている。
≪ルラーシュ・ニドゥム≫に来ることが可能な人間は極端に「攻撃性」が低く、「悪意」を持たず、「動物」としては弱い者が選ばれる、とイノセンツであるアマネは知っていた。
人間の住まう地獄では、弱くて生きていけない者がここに来るのだとも書かれていた。
このルラーシュでは悪意を持つ人間は生きていけない。イドールに対して悪を為す、欲望の餌食にする、被害をもたらすといった人間は滞在することが赦されない(・・・・・)。イノセンツにのみ開示され、後世に残される記録では、管理者が道を外して追放されたことが数回あったと記されている。
彼ら人間の元居た場所と比較すると、ルラーシュは天国のような場所らしい。その楽園の生活に飽きて刺激を求め、怠惰を貪り快楽に耽り、動物的に生きようとすれば追放されてしまうのも当然であった。
自ら堕落することを喜びと捉えるその思考は、アマネのみだけではなくイドール達には理解できない価値観である。
管理者の追放には二通りある。
一つは管理者が自ら身を汚して世界に拒絶されること。
もう一つは、イノセンツの権限による処断であった。
だがそれは可能なだけであって、イノセンツにとっても、イドールにとっても苦痛であり悲劇でもある。
そういった悲しい事態を未然に防ぐためにも、イノセンツは「管理者という人間の思考、言動の誘導」が可能なのだった。
昨日アマネはリョウタロウにその能力を、緩くではあるが使用し、そしてすぐに止めた。
無理に管理者として留まらせてしまうほうが危険ではないかと思い直したのだ。だからこそ、急いで返事は求めなかった。しかし、リョウタロウはその直後に、なぜか快く引き受けてくれると言ったらしい。
サツキに詳しく聞いてみても、あの娘は身も心も管理者のための存在であるが故に、管理者を全肯定し赦してしまうので、その見抜いた心の奥を他へ伝えることが難しい。アマネが再度リョウタロウへと会いに行くと眠ってしまっていたので、本心は聞けないでいる。
町の東方入り口付近も見回りを終えた。
今日確認し排除できた<マリス>は、武器化を行わずとも片付けられる、小型のものが数匹のみ。
漏れだしているとはいえ、今日もこの世界は安定している。
リョウタロウが来たことによる影響はまだ(・・)少なそうだ。
アマネが丘の上を望むとリョウタロウが起きて外にいるのが視えた。
たった半日でリョウタロウに対して、不信や相性の悪さといったものを感じとったわけではない。もとよりそういった負の感情など、イドールであるアマネには最初から持ち合わせがないわけだが。
しかし、それと見定めることは別だ。
昨日来たばかりで申し訳なく心苦しいものもあるが、もうしばらくはイノセンツとしての責務を果たすことに専念しようとアマネは思い直す。
ひとまずは、そうだ、昨日眠ってしまっていたリョウタロウを歓迎し直すお茶会をしようと考える辺りが結局アマネもイドールであるが。