天川良太郎
アパートに戻った僕は暗い部屋に一人、寝転がって天上を眺め続ける。
どうしてこうなったのか――現状に至るまでを思い出す。
ある人物の不正経理を上司に訴えても聞き入れてもらえず、外部に報告したら僕の責任として処理された。
再就職先を探すハメになり、色々と面接にも行くが、どこもかしこもこちらの中途半端な経歴を気にかけてくるものであった。「へぇ、それで元の会社はどうなったの? 他にも困った人が出たんじゃないの?」などと嫌味ったらしく言われても、後の祭りである。ある面接官からは「ウチでは雇えないけどさ、君はそこまで正直に話さなくてもいいと思うよ」などと苦笑交じりに言われた。
時間をかけていると貯金はみるみる減っていき、生活は厳しくなってきた。
もう両親も住んでいない空き家となっている実家に一時的に避難しよう、家賃代だけでも浮かすことができるはずだ。
そう考えて少ない荷物を抱えて実家に戻ってきてみれば、叔父家族が勝手に住み着いていたことを知る。三年前に両親の葬儀で会った時には、「私が手入れをしておく。ここは良太郎君の家なんだから、いつでも帰ってくればいい」と、何か頼もしいことを言っていた。
しかし再会しての第一声が「連絡ぐらいしてくれ」である。それに対して「すみません」と反射的に謝ってしまったことを少し後悔している。
「片づけがあるからその辺で時間を潰していてくれ」と家に入ることは出来なかった。
チープな言い方であるが「世界は悪意で満ちている」ことを痛感した日々である。
ものの見事に人間の社会は悪意の社会だ。欺瞞、争奪、暴力、搾取、支配。こうやって弱者は磨り潰されて息絶えるのだ。
しかしそれが人の社会だ。そうした悪意に染まることが人間だというのだ。そうなれない人間は食い物にされていくだけだ。適応すれば、順応すれば、形を合わせれば、そこでやっていけるという。
悪意の支配を受け入れ、動かされるままに、誰かを非難し、誰かを差別し、誰かを罵り、誰かを傷つけ、誰かを苦しめ、誰かを悲しませる。
そうやっていくのが人の世の「正解」だ。世界が平和になるはずもない。平和は正解に含まれないのだ。
しかし適応できないだけでもこうした悪意は向けられる。何もせずとも生きているだけで悪意は襲ってくる。「社会不適合者」などと一方的に罵られるだけだ。僕のような人間から見れば、「自分不適合社会」だと感じる。
とりとめもないことを思って落ち着いてはみたものの、現状は何も変わらないわけで。
「いや、ほんと辛い」
我慢していた言葉が、つい口からこぼれてしまう。
これからどうすればいいんだろう。やっぱりもう、死ぬしかないのか。
もう母さんも父さんもいないし、自殺しても親不孝にはなるまい。
そういえば母さんには「路傍の草のように、目立たなくてもいい、強く生きて」と言われていた。
「ごめんなさい、無理でした」
父さんには「男は強くなければ生きられない。優しくなければ生きていく価値がない」と、何処かの探偵を教えられた。
「ごめん、強く生きられなかったよ」
両親の教えに添えずに生きてきたから十分に親不孝か。
いや、仕方ないよね。
僕みたいなのはきっとこれからもこういう目に遭って、誰かの食い物にされて、身ぐるみを剥がされて、最後には骨と皮だけで路上で朽ち果てていくんだろう。
クビを突き付けられた時、反抗すればよかったのかもしれない。
叔父に会った時に怒鳴りでもすればよかったのかもしれない。
こんな風に思い返すと、もっと昔の後悔まで芋づる式で出てくるからやめよう。
「でも、ダメなんだ。皆みたいには、生きていけないんだ」
一言でいえば疲れたんだよ。
死にたくなんかない。でも、もう生きていけるだけの希望は持てない。
「消えてしまいたい」
ああ、しっくりくる。「死にたい」んじゃない、「消えたい」だ。
どうせ僕じゃ世間の荒波の中やっていけないんだし。消えても何の迷惑にもならない。人間、死ぬことですら誰かの迷惑になってしまう。だから消えたいんだ。
「世界がもっと優しくあれば良かったのに」
こんな独り言を聞かれたら、ヘタレだとか根性無しだとかゆとりだとか甘えだとか言われるんだろう。
だけど、誰だってそう思うはずだ。
なのに、なんで、生きているだけでも辛い気持ちにならないといけないんだ。
こんな世の中は絶対に間違っている。
欺瞞と虚栄ばかりで「本物」というものが消されていく。真っ直ぐに生きようとしている人間はバカにされる。
ただお天道様に背を向けないような生き方をしていたいだけだったのに。
それなのに、そうは生きていられない。
「死ぬしかないのか」
あ、涙出てきそう。いかんな。気落ちしすぎてる。
今日はもう寝よう。
まだ夕方だけど生きていてもしょうがない。違う、起きていてもしょうがない。
いい夢を見よう。それですっきりできればいい。
せめて夢の中ぐらいは、全てが優しい、悪意のない世界がありますように。
*
すがすがしいまでに青い空。
こんな風に寝転んで空を眺めるなんて、生まれて初めてかもしれない。
これは夢だ。だって空がこんなにも怖くない。
体を起き上がらせると、すぐ近くに大樹が見える。
大樹にはドアと階段が備え付けられている。
どうやら四階までの大きさのようだ。
そこへ行こうと考えた瞬間にドアの前まで来ていたのは、これが夢だからであろう。
何も不思議はない。夢だから。
ドアも開けずに中へ入ると女の子がいた。
部屋の様子よりもまず先に女の子がいたことが重要だ。
白い木のテーブルで何かを書いている。
お隣の席にお邪魔して覗きこむ。
「……」
ええっと、これは犬なのか猫なのか空想上の生き物なのか。
なんだか絵心がうかがいしれない何か動物っぽいものなのは理解できる。
「猫ですよ~」
あ、そうなんだ。
ニコニコ顔で返事をもらえた。猫には見えないけど。
返事?
えっ?
「えっ」
急に横を向くものだからばっちりと目が合ってしまった。
「…………」
驚いた様子でこちらを見つめるルベライトの大きな双眸。くっきりとした目鼻立ちに張りのある健康的にも白い肌。耳にかかっていた桜色をした前髪がゆっくりと落ちる。
やだ、可愛い。どストライクだ。
「あのー……?」
熱い視線を感じる。実体を持たない身体まで熱くなるようだ。
なるほど、これはアレだ。
イケナイ類の夢だ。
起きてみるとめんどくさい感じになってるアレ(・・)だ。
「新しい管理者様、です……? はわぁ、びっくりしました。こんな風に急にいらっしゃるんですね」
女の子が何か言っているがよくわからん。
夢なんだし、意味がなくても当然といえば当然だ。
今は流されるままに夢を楽しむことが先決だ。
「はきゃっ」
抱き上げて、テーブルの上に寝かせる。
白地に薄い水色のラインが入った不思議な服を着ている。修道服というのだったか。ゲームやラノベでは見たことがあるが実物は初めて見る。
服が身体のラインをくっきりとさせているせいもあってか、テーブルの上で仰向けにされている肉体はとてもとても。視覚的にだけで満足してしまいそうだ。
「あの、管理者様? これは一体……」
不安と羞恥で頬を朱色に染め、困ったような、戸惑っている表情でこちらを覗いてくるも、決して抵抗するそぶりは見せない。
なんてことだ、満点の反応じゃないか。
夢の中でここまで理想的な反応を出させるとは、我ながらとんでもないことをしでかしたものだ。
置かれている双丘に勢いよく顔をうずめる。
「んっ」
なんだよこれ……、生地越しでこの眠りを誘う低反発なのかよ……。実物ってのは一体どうなってしまうんだよ……。
童貞の身でここまで妄想具現化を出来ている自分が怖い。
いや、そんなことより、しばらくはこの柔らかく優しい反発力を堪能しよう。
「ふふっ。管理者様は、子どもみたいですね」
子どもはこんな夢を見ない。
思春期の中学生にはここまでのクオリティは出せないであろう。こちらには積もり積もったものがあるのだ。
太ももまで入ったスリットに片手を伸ばす。
「わっ……」
小さな悲鳴が聞こえたような気がする。そんなサービスが付けば身体は余計に熱を持つ。
自分の身体を合わせてゆき、ゆっくりと近づけ、そして――
あっ。
……これが夢じゃなかったら立ち直れない素早さだ。
えっ、今抱き付いただけだよね。
現実でそういうことにかまける時間も余裕も無さ過ぎたとはいえ、ご無体すぎるだろ。
いや、あのね。夢の中でまで死にたくなるようなことが起きるとは夢にも思ってなかったよ、うん。夢まで僕を潰しに来てるのん?
急速に覚醒していく感覚が湧き出る。
「……」
両腕を胸の前に置き、吐息で震える唇を片手で抑えている女の子が、不安気な視線を潤んだ瞳で送ってきていた。
なんという熱視線だろうか。もう目が覚めるというのに身体はどんどん熱く、夢だというのに動悸まで感じる。
この子が見られる夢を、もう一度見られたらいいな。
いや、「いいな」じゃない。是が非でも見たい。
そして唐突に意識は失われ、はっきりと目が覚める。
*
夢の中での熱い行為を思い耽ることもなく理解する。
目を開くと辺りは煙と炎に覆われていた。
火事。火の海。なるほど、これは熱いわけだ。
意識すると身体に熱と痛みを感じる。
「あああっつうぅぅ!!」
天国から地獄とはこのことか。
起き上がろうにも体に力が入らない。眠っている間に煙を吸いすぎたようだ。立ち上がろうにもフラついて転んでしまう。
最悪だ。本当に最悪だ。不幸はまとめてやってくるとは言うが、こんなあっけなく死んでしまうのか。僕の人生とはなんだったのか。
でも、最期にあんな気持ちのいい夢を見られたから、別にいいかもしれない。生きていてもしょうがないし。
這いつくばって玄関へ向かう。擦れる腕と腹が異様な熱を持つ。意識が朦朧としてくるが、それでもなんとか腕を上げて進む。
もう諦めたい気持ちと無意識にも生きたいという気持ちの葛藤。
なんて高尚な心情を持つ余裕なんてなく、ただこの熱さと苦しさから一刻も早く抜け出したい。
目は痛いし、身体は火傷だらけだし、呼吸もまともにできない。息を吸うのはこんなに大変だったのか。あれだな。火の海の中で啖呵切ってバトルってたり、ヒロインが儚げに台詞言って死んでいくとかあるけど、絶対無理だ。こんなきついものだって知らないからあんな風になるんだ。僕の犠牲を元に、是非にでも修正してほしい。
あと少し。玄関までの数メートルをここまで長いと感じることは、二度とないだろうし、あってほしくもない。
もうちょっと。ドアノブに手が届かない。次に付けるドアノブは、こういう状況のことを考えられたものを備え付けてほしい。こんな状況は稀だろうが、万全を期すというのはそういうことだ。予想出来るあらゆる可能性に出来得る限りの対処をしておく、そうでないのは怠慢というものだ。「そんなこと起きない」なんてタカをくくっていると、必ず何処かで犠牲が出る。今の僕とか。
ようやくドアを開けることが出来た。
でももうダメだ、意識が飛ぶ。
ドアにもたれかかった腕はずるりと落ちる。
――お疲れ様。
霞んでゆく意識の中、その手を誰かに握られたような気がした。
2014/06/28 修正