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カナリア

作者: なわばしご


「ねえ、どうしておばあちゃん僕のことわからないのかなあ?」



ススキが揺れる河原の道を歩きながら、今年小学校にあがったばかりの孫がそう呟く。

陽が落ちてきたので少し肌寒い。少し前まで暑かったのが嘘みたいだった。

あかねの空と菫の雲、この瞬間も少しずつ汚れているらしい世界だが美しいと私は思った。


遠くでカラスが物言いたげに鳴いている。



「ばあちゃんは年とってしまったからなあ。しかたないんだよ、忘れっぽいんだよ」


妻は数ヶ月前からボケが激しくなってしまいもう自宅での介護が難しくなった。

自分が虐待されているといった被害妄想を近所の人々に話してまわったかと思えば突然生ごみを撒き散らす、夜中の徘徊、記憶の欠落。

息子夫婦と同居してはいるが共働きだしこれ以上負担はかけられなかった。

せめて寝たきりになってしまってくれた方が…などと縁起でもないことを考えてしまう程に私達は疲れてしまっていた。


「おじいちゃん、さみしい?」


「ん…」


どうして子供はこんなまっすぐな質問をするのだろう?

私の中の、この複雑な心持ちをどう説明すればいいかわからない。

長年連れ添った妻がまるで子供のようになってしまった恐怖、私のことを他人のように見つめる彼女への憤り。

これは「さみしい」ということなのだろうか?



前から小さな明かりを付けた自転車がきた。

孫は小石を蹴りながら下ばかり見て歩いているので声をかけて脇に寄らせる。

土手の方から小さな虫の声がしている、いつのまにかセミ達は消えてしまった。



「うーたをわぁーすれたカナリアはー」

「うーしろぉのやぁまにすーてましょかぁ」


孫が突然、調子っぱずれな歌を口ずさむ。

両親が共働きで帰りが遅い為、幼稚園から帰ってくるともっぱら妻か私が遊び相手をしていた。

歌の好きだった妻が色々古い童謡を教えたらしく、時々今どきの子供とは思えない歌を知っていたりする。



♪歌を忘れた金糸雀は  後ろの山に捨てましょか



妻のボケがはじまってからというもの「忘れる」という言葉に過剰反応してしまう大人達をよそに、孫はその言葉をくりかえす。


「うたぁーをわすれたカナリアはー せとぉのこやぶにうめましょかぁ」


♪歌を忘れた金糸雀は 瀬戸の小藪に埋めましょか


孫の声を追うように私も歌詞を思い出す。

昨今の教育番組の歌には使われない「残酷な表現」がさらりと歌詞になっている。


暴力的なものは見せないように、汚いものは触らせないように、悲しいことが無いように。




妻を残してきた白い大学病院を背中に感じるがいつも私は振り向けない。

まだ少し、あの独特な消毒薬のにおいが鼻の奥でするような気がする。

孫が道をそれて河原の土手になっているところをわざと歩いている、草がぼうぼうとして斜面なのが面白いのだろうが虫にくわれるからよせと言って歩道に戻す。


どこからか煮物の匂いが漂ってきた。

もう夕飯時分なのだ、赤く染まった空がずいぶん低く感じる。


「うーたをわすれたぁカナリアーわぁー やなぎのーむちでーぶちましょかー」


「いーえいーえそれはぁーかわいーそうー」



♪歌を忘れた金糸雀は 柳の鞭で打ちましょか


♪いえいえ それは可哀想




妻は、いろんなことを忘れてしまった妻は、可哀想なのだろうか?

もし今後私が記憶をこぼしはじめたら、それはどんな心持ちなのだろうか?

親や兄弟を亡くし、心が千切れそうなった遠い日。

妻と出会い、息子を授かった幸福。

自分と妻が老い、成長する孫を見守るこれから。



忘れることは恐怖だろうか?




ごわっ と川下から風が吹き上げてきた。

枯れかかっているススキが風の形にうごく。

孫が「わっ」と小さく叫んでしゃがみこむ。

私は顔を伏せ、やり過ごしてからゆっくり空を仰ぐ。


あかねの空は最後の陽をのみこむ時、一瞬薔薇色になる。



先刻の風で砂埃がついてしまったのか、視界が少し暈けて見えたので老眼鏡をはずし服の裾で拭ってから掛け直したが変らなかった。



「おじいちゃん、さみしいの?」



いつのまにか隣にきていた孫が私の顔を見上げてたずねる。


「ん…」


次の言葉が見つからなくて、私は誤魔化すように歌の続きを呟いた。



「歌を忘れた金糸雀は 象牙の船に銀の櫂 

月夜の船に浮かぶれば 忘れた歌を思い出す」



いつか遠い川を象牙の船で渡った時、全てを思い出した妻と思い出話をしたい。

そこにはきっと私の親兄弟もいるだろうからみんなでいろんなことを話そう。

歌の上手い自慢の妻だと紹介するから、また以前のように歌っておくれ。





薔薇の空が群青にとけていく。

ぽかりと浮かぶ月の下、今宵も船が出るのだろうか。




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