弐 「新しい私じゃ駄目ですか?」 5
クラスでは私の記憶を戻すのがブームだった。
皆アルバムを持って来て、私にそれを見せる。
中にはビデオカメラを持って来て、前の私の映像を私に見せる人もいた。
私が登校してから一週間と二日後の放課後。今日も私は前の私を見ていた。
記憶媒体の中の私は、元気溌剌としていて、目立ちたがり屋だった。
中学校の時の体育祭。
画面の中の私は学ランを着て、自主的にクラスの応援団をやっていた。
黒い学ランに白い手袋、必勝と刺繍された鉢巻を頭に巻いて、声を張り上げている。
「かっせ、かっせ、二のA!」
男顔負けの声で私は叫んでいた。
女子のか弱い作られた声ではなく、腹の底から出す地声。
私の隣で懐かしそうにビデオを見ていたひーちゃんは、ビデオの声を邪魔しないように囁くように言った。
「コスプレ好きだったよね。環」
「…本当?」
「そりゃもう。見てればわかると思うけど」
―――これ以上見たくないー!
ひーちゃんの言う通り、心なしか映像の中の私は生き生きしていた。
目立ちたがり屋も度を超すと、コスプレに走るのか?
今の私にはそんな癖はないのだけれど、前の私に限ってのことなのだけど、恥ずかしい。
「応援団をやった後、女子にコクられるのが増えたよね」
「…え?」
環の私の過去の暴露は続く。
「女子高だからなんだろうけどね。体育祭の片づけの時に四、五人にコクられてたよ」
「ギャグだよね?」
「さぁね、本気だったのかも知れないよ?」
「でも、女の子同士でしょう?」
「別にいいんじゃない? 付き合うだけなら、法律違反じゃないし」
「…私は嫌だ。前の私はちゃんと断ったよね」
「覚えてないなー」
「意地悪しないでよ」
前の私に振り回されて、私は泣きそうになるぐらいパニックになってた。
「泣かない。泣かない。イイコイイコ」
気持ちがいっぱいいっぱいになっていた私の頭を、アイちゃんがくしゃくしゃに撫でる。
アイちゃんに頭を撫でてもらうのはとても気持ちがいい。私の心はすぐに穏やかになった。
私が落ち着いてきたのを確認して、アイちゃんはカメラを指さす。
「ほら、リレーだよ?」
画面が変わっていた。
ビデオに映る私は既に学ランからジャージに着替えている。
体育祭の醍醐味、クラス対抗リレー。
「この時のタマちゃんは、すごかったね」
クラスメイトの誰かが言った。
三クラスの中で三番目でバトンをもらった私は、猛然と走り出す。
見る見るうちに二位の子と並び、抜き去る。
そのまま一位との距離をぐんぐん狭め、一位とほぼ同時にアンカーのひーちゃんにバトンを渡した。
女子とは思えないほど、見事な全力ダッシュ。
ひーちゃんが涼しい顔で一位でゴールした後、地面に倒れ込んだ私をカメラが写している。
「熱血系女子」
ボソっと誰かが漏らした。
私は反論できない。
「でも、今じゃ真逆だよね。お嬢様系女子」
「それじゃあ、小野阪さんとキャラが被っちゃうじゃん」
「小動物系女子じゃない?」
本人のそばで、私がどんな女子なのかという相談が始まった。
「ハムスター系女子じゃないかな?」
誰かが言った。
繁殖力が強そうだな。っということで却下。
「子猫系女子」
いつまでも子供は嫌なので却下。
「記憶喪失系女子」
そのままなので却下。
「環って、結構ワガママだよな」
ひーちゃんが呆れ顔でそう言う。
それを聞いて、私の却下が口に出ていたことに気づく。
赤面。
「タマちゃんは撫子系女子だよぅ」
ふわっとアイちゃんが言った。
撫子系女子。響きはいいのだけれど、古典的な雰囲気が気に入らない。
とは言え、これを却下したら、ワガママキャラが確立されてしまう。
とりあえず手を打つことにした。
特に影響はないわけだし。
「あいかわらず、藍に弱いよな」
ひーちゃんがニヤニヤ顔でそう言う。否定はしない。ていうか、できない。
次のビデオは高校生の頃の文化祭だった。
ライオンのたてがみを模した飾りを顔の周りに付け、さらに肉球の手袋をはめた私が手を振っている。
ご丁寧に尻尾も付いている。
「動物喫茶へようこそ」
明るくてハキハキした声。今の私とは違う声。
画面上のアクティブな自分に少し劣等感を持ちながら、私はそれを見る。
「動物のコスプレしながら喫茶店をやったんだよね。もちろん言い出しっぺはタマちゃんだよ」
「やっぱり、そうなんだ」
目を背けていたい現実を、アイちゃんが叩きつけてきた。
アイちゃんの説明は続く。
「タマちゃんがライオンで、あたしがワンちゃん。ひーちゃんがライオンのお母さんだったよね? タマちゃんとお揃いがよかったんだよね~」
「ち、違うぞ! 私は、準備するのが面倒だったから、環に同じのを用意してもらっただけで」
「ハイハイ。そういうことにしておこうね~」
「藍、一回殴るよ?」
「きゃ~。怖いよぅ」
満面の笑みで逃げて行くアイちゃん。追うひーちゃん。
画面の中の二人も、それにシンクロしていた。
成長してないというか、いつでも仲良しというか。
教室が閉まるまで続いたけれど、結局、これと言った成果も出せずに、今日のビデオ視聴は終わった。
でも、皆が私の記憶喪失の治癒を望む理由がわかった。
前の私は、今の私に比べて、とても元気で可愛らしい。そして何より、楽しい。
私は胸の中に劣等感を持ったまま、帰宅することになった。
*****
部室の掃除をしなくっちゃ。と言っていたひーちゃんを置いて、私とアイちゃんだけで帰っていた。
いつものT字路で私とアイちゃんは手を振って別れる。
少し前までは、心配性のひーちゃんが家の前まで送ってくれてたのだけれど、今日はいない。
アイちゃんが代わりに名乗りを上げたけれど、丁重にお断りした。
アイちゃんの家が私の家の近所というわけでもないから、遠回りさせるのも気が引ける。
実際、既に道は覚えている。なんの心配もない。
「ひーちゃんに、環を家まで送ってやれよ。って言われてるんだよねぇ」
―――ひーちゃんは私のことを子供扱いするんだから
事故で記憶を失った幼馴染を気遣ってあげる、ひーちゃんなりの優しさなのだろうけれど、少々度が超えている。
自分の目の届かない所に私がいると、不安になってしまうようにも見える。
―――それは、ちょっと自意識過剰かな
そんなことを考えながら、私はアイちゃんとひーちゃんの気遣いをやんわりと断ることにした。
「大丈夫だよ。ちゃんと帰れるから。ひーちゃんには送ってもらったって言っておくから」
物わかりがよくて思考が柔軟なのがアイちゃんのいいところ。アイちゃんは頷いて、私の申し出を受けてくれた。
そんなことがあったT字路を過ぎてから、数分後。
暗くなってきた視界に、弱々しい照明で照らされた立て札が飛び込む。
『久恒神社』
私は立て札のそばの階段を見上げる。
百八段の先に神社があった。
無意識に私は階段に足を乗せた。
何かに導かれるように、何かに背中を押させるように、私は一段ずつ石製の階段を登り始める。
階段の真ん中ぐらいに差し掛かった頃、急に私は異変を感じた。
不思議な感じだった。
急に全身に寒気が走った。そして実際に肌寒くなる。
鳥肌が立ったのが、制服越しにも分かる。
膝が震える。肩を抱く。それでも歩みは止まらない。
ゾワッ!
誰かが私の肩に手を乗せた。
いつかのようなひーちゃんのような感触ではない。アイちゃんでもないし、斎蓮先生でもない。そもそも、人ではない。
サイズはひーちゃんと同じぐらいの大きさ。でも、私はこの手が命を持たない何かの手だと確信していた。
その手は信じられないほど冷たかった。尋常じゃなく冷たかった。氷のような直接的な冷たさではなく、命の炎を蝕むような冷たさ。
生命の温かみがない、命を持たない何かの手が私の肩に手を置いた。
怖くて振り返ることができない。声も出せない。私はその場で硬直した。
―――助けて、ひーちゃん!
その瞬間、私の肩に置かれた手が、信じられないほどの力で私の肩を握りしめた。
苦痛に顔を歪めて叫んだ。
「あああああああああ!」
意味が通じない叫びを上げながら、私はその手を振りほどこうと体を揺すった。
私が苦痛から逃れようとすればするほど、その手は私を強く握って離さない。
肩の骨が壊れるんじゃないかと思うほどの、肩が握り潰されるんじゃないかと思うほどの激痛。私の目の前は、とっくに真っ白になっていた。
肩の激痛が消えたことに気が付くまでに、どれぐらいの時間がかかったのだろうか。
気が付いた時は、私は石製の階段に寝そべる様に倒れていた。
だらしなく口を上げて、瞼を閉じて、荒く浅い呼吸を荒く繰り返す。
「……ァ………ァァ…!」
酷いノイズが私の感覚を支配した。
トンネルに入った時のように、耳の奥がキーンとする。
そして、それが徐々に大きくなっていく。私は頭を抱えて、悲鳴を上げた。
―――ひーちゃん! 私を助けて!
私は何回も何十回も繰り返し繰り返し、ひーちゃんに助けを求めた。
私の助けを無視するように、冷たい手は荒々しく、私の首を絞める。
片手で私の首を鷲掴みにすると、そのまま持ち上げる。
遠のく意識の中で、私は懸命に目を閉じていた。
私の心を占める感情は恐怖。私は懸命に恐怖の根源から目を逸らし続けた。
喉の圧迫感は急に消えた。
続いてやって来たのは奇妙な浮遊感。そして激痛。
階段を転がっていることに、すぐ気付いた。
私は咄嗟に、体を丸めて頭を守った。
石製の階段の角が私の体を容赦なく突き刺す。
あまりの痛覚に私は叫び声も上げれず、ひたすら痛みに耐えながら落下し続けた。
私は重力に引っ張られて加速する。その分、体に走る激痛はより痛みを増す。
焼けるような痛みが背中に走る。私の肺の中の空気はその衝撃で外へ飛び出す。
―――苦しい。……死ぬかも
私は、息苦しさと、全身に走る連続的な鋭い痛みと、凍えるような寒さで震えた。
気が付くと、私は回転していなかった。階段を下りきったのだろう。
朦朧とする意識の中で、私は目を開けると、遠くに何やら二つのランプが見えた。
綺麗な光だった。私は、あの世からの使いの光なのかと思った。
「間に合えええッ!」
知らない男の子の声が聞こえたような気がした。
そして、私の意識は完全に途絶えた。