弐 「新しい私じゃ駄目ですか?」 3
記憶をなくす前の私と、今の私。
周りは表には出さないが、執拗に前の私を求めていた。
今の私を邪険にはしないが、歓迎している風でもない。
前の私は今の私の枷だ。
でも、今の私は前の私を消すことはできない。
私は机の上に両手で頬杖を付きながら、そんなことを考えていた。
―――なぜ、誰も今の私を見てくれないのだろうか。
答えは分かりきっている。今の私が前の私とまったく同じ格好をしているからだ。
でも、そんなのどうしようもない。
整形でもする? 論外だ。
お金がないから、もっと大きい病院で記憶喪失を調べてもらうことを辞退したというのに。
家族と話し合った結果、これ以上記憶喪失について調べるのを止めることとなった。
経済的にも負担だし、何より私が嫌がったのが一番の原因。
皆が私に、「頑張って記憶を取り戻そうね」と言ってくれるのは、彼らなりの気遣いだと言うのは理解している。
理解しているが、納得していない。
私にしてみれば、前の私は他人だ。
深く落ち込んでいた。
子供のように癇癪を起してしまい、何の罪もない灯さんを傷つけたかも知れない。
どんよりとした気持ちではち切れそうな笑顔のアナログ置き時計を見ると、短い針が7を、長い針が11を指していた。
午後六時五十五分。もうすぐ夕飯だ。
―――時計の読み方は覚えているのに、なんで家族や友達の顔も名前も覚えてないんだろう
薄情な自分に憤りを覚えた。
私の部屋は二階にある。自分の部屋から出て、一階のリビングに階段を使って降りる。
母親まで心配させるわけにはいかない。
そう思うと、溜息が溢れた。
今の、この生活は、とても窮屈だった
*****
仕事で帰りが遅い父親を待たずに、母親との二人きりの食卓。
夕飯はカレーライスだった。
「環は、このカレーが大好きだったよね」
願うように母は言った。
カレーライスは好きだ。でも、カレーよりも、シチューのほうが好きだ。
そんなことは口に出さず、代わりに、母の言葉を肯定した。
「うん。ありがとう。私、カレー好きだよ」
何か思い出さないか。注意深く母は私を探った。
念力を使えるんじゃないかってぐらいの眼力。慣れたとは言え、不愉快だった。
一食毎に何か思い出してくれないかと、私をジロジロと見て、何も思い出せていないと知ると、あからさまに落ち込む。私にとって、これ以上ない苦痛だった。
記憶や絆が消えたとは言え、親の切望に答えようという気がないわけではない。
確かに私は親への愛情は希薄だ。隣のおじさんとおばさんぐらいの距離感しか、持っていない。
でも、期待には答えようという気はある。気はあるが結果は見ての通りだ。
相変わらず、私の記憶は失われたままだった。
「学校どうだった?」
母は私に質問した。
私の頭の中で走馬灯のように、今日のことが流れる。
登校中に小野阪さんと出会った。教室でクラスメイトと出会った。授業が難しかったが理解はできてる。クラスメイトの質問攻めから、灯さんという頼もしい子が私を庇ってくれた。三人でドーナッツを食べた。
無作為に飛び出ようとする言葉を抑える。一度整理して、順序立てる時間を作るために、母に中身のない簡単な返事をした。
「うん。別に問題なかったよ。ちゃんと授業も受けてきたし」
これで、母が聞いてきたことに答えればいい。
友人のことを聞かれたなら小野阪さんや灯さんのことを。クラスのことならクラスのことを。放課後のことなら放課後のことを。
母の返事は、私の高まったテンションを下げるものだった。
「なにか思い出さなかった?」
私は言葉に詰まった。
さっきまで飛び出そうとしていた言葉が引っ込み、私は言葉を探してしまった。
母の関心は、私の今日の出来事ではなく、前の私のことだった。
「ごめんなさい。思い出してないです」
「あ、別にいいのよ。焦らないでゆっくり思い出せば」
思い出すことは、あくまで前提らしい。
思い出すことは、あくまで決定らしい。
私はこっそりと溜息をついた。
「灯ちゃんに会った?」
「灯さん? うん。陸上部の子でしょう」
「環の幼馴染なのよ。ずっと心配して、いつもお見舞いに来てくれていたのよ?」
「そうなんだ」
「あなたと灯ちゃんは仲良しでね。いつも一緒だったのよ。小学校の時の班分けは、必ず同じ班になって、あなたが班長。灯ちゃんが副班長でね」
思い出せ。思い出せ。思い出せ。
母の語る私の思い出を聞く度に、私は呪文を聞かされているような気になる。
何か思い出せ。母の思いが私を圧迫する。
母の思い。それは、前の私への愛情…。
「ごちそうさま」
「もういいの?」
「うん。今日は疲れた。寝る」
今の私を認めてくれない母親への苛立ちが募り、さっきみたいに気持ちが零れないうちに退散した。
「環?」
母親が私を呼び止める。
私は首から上だけ振り返る。
「その、何でもいいから、思い出したことがあったら言ってね」
私は震える声で返事をした。
なぜ声が震えたのか。
怒り? 悲しみ?
答えは、両方。
*****
歯を磨いて、パジャマに着替え、重たい頭を休めるために私の部屋に戻った。
嫌な思いを忘れるように不貞寝しようと、ベッドに倒れ込んだ。閉じかかった視界が姿見を捉えた。
機嫌が悪そうな顔がこっちを見ている。
私はこれが自分の体だということに、少し違和感を覚えている。
漫画のように、体はそのまま魂だけ交換してしまったようだ。
なんて漫画だったけ? そもそも、漫画のタイトルが一つも出てこない。
私は傀儡を操って、鏡の前に立たせた。
肩甲骨まで伸びた黒い髪は艶があり真っ直ぐ伸びている。退院以来、ちゃんと手入れをして手に入れた、女としてちょっと自慢の髪。
健康的に赤みのある色の肌は綺麗で、ニキビもない。前の私はそういう所を手を抜いていたようで、おでこにニキビが何個かあった。
身長が低い割には手足は長くて、見た目はいい。今は少し猫背気味だったのを少しずつ直している。
コンプレックスなのは、十八歳という年に見合わない幼い部分。牛乳とか豆乳とかを飲もう。
くるっと回ってポーズを取ってみた。少し甘口に判断して上の中。厳しく判断すると中の上。
最初に鏡を見たときよりも、格段によくなってる。
―――なのに、なんで誰も今の私に価値を見出してくれないのだろうか。
心が勝手にそう言った。
私はその考えを振り払うように顔を上下に振る。
自分の姿を視界から消すように、急いで部屋の電気を消して、ベッドに飛び込んだ。
ギシギシとスプリングが揺れる。
そばに会ったペンギンのぬいぐるみを思いっきり抱きしめて丸くなる。
ぬいぐるみの形が変形してしまうかも知れないけど、気にしない。
私が眠りに落ちた頃には、ペンギンのぬいぐるみは綿が偏ってしまっていた。それに濡れていた。