弐 「新しい私じゃ駄目ですか?」 2
考えが甘かったと言うしかない。
病院で診断した結果、思い出を失っているけれど、勉強自体は問題なかった。
それを証明するように、授業中の私は人並みの生徒だった。
先生の気まぐれで出席番号順の逆順で当て始めると、名字が夢現の私は、すぐに当てられてしまう。
当てた本人も、失敗した。という表情になるのだが、私はスラスラと答えてしまう。
もちろん、難しい問題はわからないし、簡単な問題でも間違ったりする。それでも、「私のこと覚えてない?」という質問よりも、「この式の解を求めなさい」という問いのほうが楽だった。
私が先生の問題に答えてしまったせいで、クラスの中の誰かが、記憶喪失のふりをしてるんじゃないか。という疑惑を持ってしまったらしい。
小さな疑惑も雪達磨のように膨れ、放課後、名前も知らない女の子が私にこう言ってきた。
「記憶喪失のふりをして楽しんでるんでしょ?」
まったく的外れな考えだったけれど、それを聞いたクラスメイトは驚きの声を上げた。
赤の他人に向かって、私は食ってかかれる性格ではない。
必死にこう訴えるしかなかった。
「違います。病院に行けば、書類みたいなやつもあります」
その子は鼻を鳴らして、帰ってしまった。一握りの疑惑をその場に残して。
疑いの眼差しが、私に突き刺さる。
嘘つきのレッテルが張られたような気がした。
私は周りを見回す。
皆、敵のような気がする。
なぜ、そこまで私の過去にこだわるのか。転校生のように接してくれればいいのに。
私はそんな不満を胸に仕舞って、私は鞄を持って教室から出た。
特に愛着もない外靴を取り出し、私にとって御下がりと言ってもいい内靴を仕舞う。
学校の初日の失敗を思い返し、憂鬱な気分で肩を落とす。用事がないので真っ直ぐ帰ろうとすると、後ろから声を掛けられた。
登校中に会った小野阪藍さんと、さっき私を庇ってくれた東堂灯さんだった。
「環、一緒に帰ろ」
灯さんはそう言うと、不安そうに私の顔を覗き込んだ。
灯さんを後押しするように、小野阪さんも言う。
「三人で寄り道してドーナッツを食べよ」
「はい。誘ってくれてありがとうございます」
靴を外靴に履き替えて、私達三人はドーナッツ屋さんに向かった。
小野阪さんはフレンドリーに灯さんをひーちゃん、私をタマちゃんと呼ぶ。
灯さんは、小野阪さんと私を下の名前で、藍、環、と呼ぶ。
私は初対面の二人を、さん付けで呼んでいる。なんとも統一感がない三人だった。
ドーナッツ屋さんに向かう途中、私達は過去の私の話を一切しなかった。
意識をしていたように見えたけれど、その心遣いは嬉しかった。
今日の授業のことや、今年の文化祭のこと、定期試験のこと、部活のこと。
好きな男子や、灯さんや小野阪さんの友達の恋愛情報。
楽しくお喋りをしてたら、すぐにドーナッツ屋さんについた。
小野阪さんは即答で、生地に苺が練り込まれている、ストロベリードーナッツを選んだ。
私はチョコレートとクリームが半分ずつかけられている、ハーフ&ハーフ。
以外にも灯さんが一番最後まで悩み、身を切るような声で私と同じハーフ&ハーフを選んだ。
「いっつも思うけど、ひーちゃんさ、迷うぐらいなら両方食べればいいのに」
小野阪さんの言う通り、灯さんはハーフ&ハーフとクリームがいっぱいかけられているドーナッツと二つで迷っていた。
それを見て私も、小野阪さんと同じことを思っていた。
「二つも食べたら、太るじゃん」
「ひーちゃんはもうちょっと太らないと。出る所出ないよ」
「余計なお世話。私は陸上部のエースだからね。今ぐらいがちょうどいいの」
「そう言えば、今日は部活ないの?」
「昨日大会だったから、今日明日は部活休み。休養も練習ッス」
「結果はどうだったんですか?」
私の質問に、灯さんは胸を張って答えてくれた。
「高校生女子百メートル、堂々の一位。自己ベスト更新だぜ」
私と小野阪さんはパチパチと小さな拍手をする。
「灯さんって、足が速いんですね」
「もちろん。ひーちゃんは全国レベルの選手だもんね」
「でも、全国大会じゃビリのほうだから、もっと練習頑張らないと」
照れ隠しをするように灯さんは言う。
それをからかう様に、小野阪さんが茶化した。
「それじゃあ、ひーちゃんのドーナッツはあたしが代わりに食べてあげるよぅ」
「それは駄目! ドーナッツが私の原動力だから」
灯さんは断固拒否した。
仲が良い二人を見ていると、私は過去の自分がどんな人だったのか、気になってしまった。
彼女らと仲が良ければいいな。
「タマちゃん?」
小野阪さんが私の表情を覗き込みながら声をかけてくれた。
「え、はい」
「ボーっとしてたよ? ドーナッツが待ちきれないの?」
「そんなことないです。ただ、記憶を失くす前の私って、どんなだったかなって思って」
少し、恥ずかしかったが、思い切って聞いてみた。
「そうだねぇ。一言で言うと、明るくて元気で可愛いかな」
「全然、一言じゃないぞ。藍」
明るくて元気で可愛い。
うわぁ、嬉しい。
「目立ちたがり屋で、後先考えずに行動するから先生に怒られるし、怪我するし。でも、絶対に凹まないし、めげない。学習しない」
「そうそう。学習しない」
私ってそういうキャラですか。
おバカキャラってことですね。
「でも、クラスを盛り上げてくれるし、タマちゃんがいるだけで楽しかった」
いい言われ方をしているけれど、本当の所はどうなのだろうか。
ネガティブな考え方だけれど、いい面だけを言われてる気がする。小野阪さんの言うことを鵜呑みにしてはいけないんじゃないか。
「小野阪さんや、灯さんとはどういう関係だったんですか?」
「環と私は、小学校に入る前からの幼馴染だ。小五のクラス替えの時に、藍と知り合った」
「仲良し三人組みだったんだよ~」
妙に間延びした声で、小野阪さんがまとめた。
私は、この二人と仲良しだった記憶を失くす前の私が羨ましかった。
ドーナッツが運ばれて来た時に、一番喜んでいたのは、もちろん灯さんだった。
幸福只今絶好調。そんなフレーズが浮かんだ。
もしも灯さんが犬だったら、尻尾を千切れそうなぐらい振っているんじゃないだろうか。
「灯さんは本当にドーナッツが好きなんですね」
「ふむ。ドーナッツが神様の宗教があったら、入信するぜ」
その宗教のせいで人生を棒に振りそうな勢いで宣言する灯さん。
ドーナッツ教という宗教を見つけても、灯さんにだけは教えないようにしよう。
私達はドーナッツを食べながら他愛もない会話をした。
変な言い方になるが、生きている実感というものを感じた。
誰かと繋がっているという感触。一人じゃないという感触。
記憶を失くしてしまい、絆も全てゼロに戻った私は、気付かなかっただけで、必死に誰かとの繋がりを求めていたのかも知れない。
家族との関係も、友人との関係も、全てリセットしてしまった私にとって、灯さんと小野阪さんの存在は、とても強いものだった。
真っ暗闇の中で灯る、たった二つの明かり。
*****
ドーナッツを食べ終わった私達は、一休みした後、店を出て帰路についた。
狭い歩道で横一列に並ぶ三人。通行人からしてみれば邪魔だったのかも知れないが、それに気付かないぐらい楽しい時間だった。
いっぱい笑った。
失った過去を埋めるように笑った。
T字路に差し掛かると、小野阪さんがパーティから抜ける。
「私はコッチなのですぅ」
ふにゃっとした敬礼をして、小野阪さんは宣言するように言った。
「お疲れ。また明日ね」
「さようなら」
手をヒラヒラと振りながら、小野阪さんはフワフワと歩いて行く。
彼女は癒し系だ。私は小野阪さんの後ろ姿を見てそう思った。
灯さんと二人っきりになった。
しばらく静かだったけれど、緊張気味に言いにくそうに、灯さんは私に言った。
「ねぇ、ひーちゃんって、呼んでみてよ」
「え?」
「その、…今までの呼び方なら、何か記憶が戻るかもって」
「そうなら、…ひーちゃん?」
照れくさくって呼びにくかったけど、ひーちゃんって呼んでみた。
それを聞いた灯さんの中に、葛藤が生まれたように見えた。
具体的にどんな葛藤なのかはわからないけれど、私から目を逸らした彼女の心の動揺が伝わってくる。
「あのさ、…本当に私のこと、覚えてない?」
「ごめんなさい。覚えてないです」
「謝んなくていいよ。環が悪いわけじゃないし」
そう取り繕い、強がるような口調で続ける。
「記憶って、本当に何にも残ってないんだよな」
「何にもってわけじゃないんだよ。言葉とか、勉強とか。自転車も乗れたし、IQも問題なかった。……思い出が何にも残ってないだけ」
「記憶、戻るよね?」
「お医者さんは、原因がわからないから、治るかどうか、わからないって言ってました」
「原因がわからない? 事故のショックじゃないのか?」
「脳への直接的なダメージじゃないみたいだし、心の問題だとしても、記憶喪失が一部じゃないところが変だって、言ってました」
それを聞いた灯さんの表情に影が差す。
誤魔化すように無理矢理笑って、こう言った。
「でもさ、可能性がゼロじゃないんだろ?」
「はい」
「なら、頑張って記憶を取り戻そうよ」
「…記憶、戻ったほうがいいですか?」
「え?」
ずっと胸に突っかかっていた思いが込み上げる。
両親にも言われた。斎蓮先生にも言われた。今日学校でクラスメイトにも言われた。学校の先生にも言われた。
私に関わった人は、皆私にこう言う。
「頑張って記憶を取り戻そう」。
今の私をまるで見ないで、そういうのだ。
制御を失った心は、理性を無視して走り出す。
「新しい私じゃ駄目ですか? 前の私に戻らなければ駄目ですか?」
「そんなことない。ただ…」
灯さんは、ただのあとを続けなかった。
きっと続けたら私が傷つくと感じたから。
「ごめん、私、変だった」
灯さんは走って、私から逃げるように帰った。
しばらく立ち止っていた私は、しばらくその場に立ち尽くした。
母親からの着信で携帯電話が鳴るまで、立ち尽くしていたことにすら気付かなかった。
電話に出て、少し放心した状態で、今すぐ帰ると伝えると、喪失感を抱えたまま、環が走っていったほうに向かって、トボトボと歩き始めた。
灯さんを追ったほうがいいのかも知れない。悪いのは私なのだから。私の頭に、そんな考えが浮かんだ。
でも、私は、幼馴染の家を完全に忘却していた。
ドアの形も、屋根の色も、何階建てかも、お庭の広さも、表札も、全部忘れていた。
無責任な話だと、我ながら思う。
私は、覚えたての帰路を歩きながら、これからの生活に、重い不安を感じていた。