弐 「新しい私じゃ駄目ですか?」 1
家族の手前、大丈夫だと見栄を張ってみたが、一歩踏み出すごとに、不安が私を取り巻く。
登校する。ただそれだけのことのはずなのに、私の足取りは重い。
記憶喪失になってから三週間。私は学校を休んでいた。
その休み分を取り返すように頑張ろうという意気込みよりも、面識のある友達に出会ったらどうしようという不安が私の心をシェアしている。
向こうは私のことを友達だと思ってる。でも、私からすると初対面。
ちゃんと説明すればわかってもらえるよね? 第二の人生だって思えばいいんだよね?
私は自分を慰めるように、心の中で呟く。
朝からトボトボと歩いていた私を追い抜いていく、同じ制服を着た女の子。きっと同じ学校の生徒。
少し怖がりながら、彼女達を見てみる。自分と同じ制服の中に友達がいないのか、いるのか、わからない。
私は十七歳らしい。高校二年生で演劇部に所属しているらしいので、知り合いの後輩と先輩がいる。
この制服の中に、私に縁のある人がいるかも知れない。
しかし、誰を見ても、記憶が蘇らない。脳みそはちっとも刺激されない。
私の記憶にまつわるものを見たり、聞いたりすれば、記憶が刺激されて何かを思い出すはずなのだけれど、懐かしいという気持ちにすらなれない。
「タマちゃん? わぉ、怪我治ったんだ!」
私の背後の声は私に向かって、声を掛けているように聞こえる。確信はない。
振り向くべきか、他の誰かかも知れないから、黙っていたほうがいいか。
とりあえず、現状維持という選択肢を選んだ。
声の主は少し不安げに、もう一度私に声をかけた。
「え~と、夢現環さんですよね?」
聞き覚えのない声が、呼んでいたのは、やはり私の名前を呼んだ。
自分の名前を聞いた瞬間、自分の肩がビクッと震えるのがわかった。
恐る恐る振り返ると、見ず知らずの女の子が立っていた。
お洒落にカールしたロングヘアーと色白の肌のコントラストが可愛らしい女の子。優しく幼い笑顔がよく似合っている。
小顔で垂れ目。淑やかな雰囲気だけれど、幼い顔と低いから判断すると私よりも年下に見える。
でも、二年生であることを示すえんじ色のリボンを見る限り、同じ学年の生徒。
そして、親しげな雰囲気から察するに、きっと私の友達だ。
「タマちゃんが車に轢かれたって聞いた時は、ビックリしたんだよ」
「え、うん。ごめんなさい」
私のしどろもどろな反応に違和感を覚えたのか、名前も知らぬ友人はキョトンとした。
すぐに彼女は私の冗談だと思ったらしく、頬を緩めながら目を細めて言う。
「なんだよぅ、轢かれたショックで記憶がなくなったの?」
鋭い指摘というか、偶然の産物というか。
嘘から出た真とはこのことで、私としては、答えにくい。
色々考えたけれど、正直に話すことにした。
「交通事故のショックが大きかったみたいで、私は記憶を失くしてしまったみたいなんです」
「それは深刻だな~。あたしの名前もわかんないの~?」
めっちゃギャグだと思ってる!
私は自分が記憶喪失だと訴える前に、便宜上、彼女の名前を聞くことにした。
「その、失礼なのですが、あなたの名前も忘れてしまったようで、教えてもらえますか?」
「小野阪藍だよぅ。それじゃ、あれかな? あの熱い夜を忘れたの?」
私は過去の自分を呪った。
一体、私は小野阪さんに何をしたんだ!
言葉通りの意味なら、私の第二の人生はもうすぐ終わるぞ!
「じょ、冗談だよ? 本気にしてないよね?」
私の狼狽ぶりに、やや困惑しながらも、取り繕ってくれた。
よく考えれば、冗談に決まってる。
しかし、私が言うのもなんだけど、女って怖い。表情の作り方がうますぎる。
「まさか、本当に記憶喪失」
「はい。本当に正真正銘、記憶喪失です」
「ドラマの中だけだと思ってたよぅ」
私は、そうですね。と答えようとしたが、躊躇われた。
よく考えたら、どのドラマを見て、記憶喪失とドラマを結び付けたんだろう?
考えれば考えるほど、わからなくなる。
「誰かが記憶喪失になるドラマって、ありましたか?」
「韓流ドラマとか、そういうの多いでしょう?。タマちゃんも好きだったよ?」
あぁ、かんりゅうドラマか。
…タイトルが一つも思いだせない。
それどころか、主人公も、ヒロインも、何も思い出せない。
そもそも、"かんりゅう"って、どういう漢字だっけ?
「タマちゃん? 大丈夫?」
「大丈夫です。心配かけてごめんなさい」
「保健室に行く?」
「大丈夫です。何かあったら一人で行けます。場所は、……」
断ろうと思ったが、場所が思い出せない。
覚えているような気がしたんだけど、何も思い出せない。
それどころか、学校って、どこだっけ?
さっきまで覚えているような気がしていたのだけれど、そんな気はサッと去って行った。
「すみません、学校ってどこにあるか教えてもらえませんか?」
「え? なんの学校?」
「その、……。私達が通ってる高校です」
「それも忘れちゃったの?」
「はい。すみません」
「それじゃ、一緒に行こうか。覚えてないかも知れないけど、小学校の時はいつも一緒に登校してたんだよぅ?」
「ごめんなさい。覚えてないです」
私はパニックになった。
小野阪さんに、なんの学校? と聞かれた時に、私はとっさに学校の名前を言おうとした。
でも、学校名が出て来なかった。
覚えているつもりだっただけで、何も覚えていなかった。
まるで私の記憶は、宇宙に放り投げだされたような状態だった。足掻けど足掻けど、何もない。見えているのに、手を伸ばしても届かない。
私は初めて、孤独だと、思った。
*****
「ねえねえ、環ちゃん。私のこと覚えてる?」
「久美のことなんか、最初から覚えてないに決まってるでしょ? ねえ、あたしはのことは覚えてるよね?」
「私のことは覚えてない? 同じ部活の愛李だよ?」
「一緒にカラオケ行ったことは覚えてる?」
「中学の時の修学旅行は?」
「体育祭も忘れちゃったの?」
矢継ぎ早に質問される私は、オロオロしていた。
見ず知らずの他人から、親しげに接されるというのは、不思議な感じだった。
なんでこの人達はこんなにも、近い距離感で接してくるのか?
答えは単純。私が記憶を失くす前は、クラスメイトだし、友達だから。
私は俯いて、静かに、覚えてない。と答えることしかできない。
一生懸命思い出そうと、記憶を検索してみるけれど、まったくヒットしない。
初めて合う上に友好的に接してくれる人に、強く拒絶の色を見せることもできず、私はただ静かに、ごめんなさい。覚えてません。を繰り返していた。
唯一の救いは、ここが女子高だったこと。
見ず知らずの男子に馴れ馴れしくされるのは、苦痛だと思う。
「じゃあさ、去年の文化祭でクラスで喫茶店をやったの覚えてる?」
明るい茶髪の髪の子がそう聞いてきた。
「わからないです。ごめんなさい」
「なら、校長先生は? 校長先生のことなら覚えてない? ホラ、癖があったじゃん」
「わからないです」
どんな癖を持った校長先生なのか、私は全く覚えていない。
当てずっぽうで言ってみたいが、選択肢すら思い浮かばないのだから、どうしようもない。
「このプリクラを見てよ。何か思い出さない?」
私とプリクラを見せてくれてる子と、もう一人別の子と一緒に取ったプリクラ。
三人共それぞれの変顔をしている。プリクラの下のほうに、「タマちゃんだいすきぃー」と可愛い文字で書かれている。
身に覚えがない。私は謝る様に、首を振った。
「これはこれは? 合唱コンクールで銀賞をもらった時の記念の写真」
担任の先生と音楽の先生と一緒に撮ったと思われる写真。
好奇の視線が突き刺さる中、私は惨めに思いながら、頭を横に振った。
「はいはい。そこまで。環が困ってるだろ」
クラスの人にブレーキを掛けたのは、長身の女の子だった。
ショートヘアーの短く切り揃えられている髪がよく似合う。
細身だけれどひ弱いイメージはない。むしろ、健康的なイメージ。
短いスカートから見える、筋肉で引き締まった脚から想像するに、運動系の部活に入っているのだろう。
髪の染めず、パーマもかけず、力いっぱいの化粧もしていない。イヤリングなどのアクセサリもない。
飾りつけない、ありのままの自分に自信があるのだろう。私はそんな彼女のスタイルに好感を持った。
「あんまり色々と刺激を与えたら駄目だろ? 私は医学とか、そんなに詳しくないけど、頭痛とか起きるかも知れないだろ?」
その子は力強くそう言った。
皆から文句が漏れる。女の子は臆することなく言った。
「環のことも考えなよ」
説得力のある一言に文句は小さくなった。
「あの、ありがとうございます」
「…。大丈夫? 頭痛くない?」
「はい。大丈夫です」
「無理しないで、何かある前に保健室に行きなよ」
「ありがとうございます」
長身の女の子は、暗い顔で、気にしないで。と言って背中を向けた。
私は慌てて、その子を引き止めた。
「名前」
「なに?」
「名前を、教えてください」
その子は、作った笑顔でこう言った。
「東堂灯。東のお堂で東堂。灯台の灯でひかり。覚えてくれた?」
「東堂、灯さん、ですね」
「そ。好きに呼んでね」
「はい」
左手をフワフワと振りながら、灯さんは席に戻って行く。
初対面の相手をいきなり呼び捨てにできず、私は彼女を灯さんと呼ぶことにした。
記憶を失くす前の私と灯さんがどういう関係だったのか、私はわからない。
でも、いいじゃないか。また一から新しい友達になるのも。
私は暗い気持ちを誤魔化すように、第二の人生を踏み出した。