壱 「記憶は人間が大事にしなければならないものだよ」
「君の症状は、現在の医学では解明できない」
「……」
「もっと大きな病院なら、もっと技術が進んだ外国の病院なら、あるいは」
スラッと背が高く、スタイリッシュで英国の紳士を連想させる三十代半ばぐらいの医者はそう言った。
名前は、斎蓮真。斎蓮総合病院の院長。
斎蓮総合病院。
市内で最も大きく、市内で最も立派な病院。ここで駄目だと言うのなら、市内での完治を諦めるしかない。
生活に支障が出る類の症状ではないのだけれど、スッキリはしない。
―――記憶がないと言うのは。
「頭部に外傷はないし、脳自体も良好。あと考えられるのは、心の傷だが、なにか思い当たることはあるかな」
「……ないと思います」
あるのかも知れない。
私には記憶がないから、断言できない。
過去の自分に降りかかった災いがあったのかも知れない。
記憶を消去したいぐらいの絶望があったのかも知れない。
だが、私は、それを思い出せない。
「しかし、心理的なショックによる記憶の錯誤で、全ての記憶が消えるなんて、聞いたことがない」
斎蓮先生は頭を抱えた。神妙な顔をしている。
これ以上先生に迷惑をかけてはいけない。私の記憶喪失は生活に支障はないのだから。
何かの拍子で記憶が戻ることがあるのかも知れないし、記憶が戻らなくたって、私の人生に大きな影響はない。
家族や友達との関係がリセットされるのは、すごくすごく辛いことだと思う。
でも、現代の医学では無理だと、少なくても市内で一番有名な病院で無理だというのなら、潔く諦めるしかない。
「私は、このまま頑張ってみようと思います」
「このまま頑張るって、記憶を取り戻すのは諦めるってことかい?」
斎蓮先生は私の両肩に手を置いた。
大人の男の先生の手は大きく力強い。私は不思議な包容感を感じた。
「記憶がないと言っても、私の場合はIQも問題ないし、言葉も問題ないですから」
「確かにそうだが、君の今までの十八年間の思い出が、なくなっているんだよ」
「家族の顔や友人の名前を忘れてしまったのは、寂しい。でも、しょうがないじゃないですか」
「君は自覚がないまま、夢現環という名前の女子高生として生きる。と言うのかい?」
「私は夢現環ですから」
「でも君には、そう呼ばれた記憶がない」
「そうですけど…」
私は言葉に詰まった。
正直に言うと、不安しか、ない。
見ず知らずの他人になってしまったような気分で、寄り添えるもの、すがりつくものが見つからずに不安定なのが怖い。
「人生は勉強じゃない。君は学力も体力も問題ないが、心はまだ何も経験していない」
「そんなことないです。ちゃんと心は機能してるし、喜怒哀楽もあります。ただ、記憶がないだけです」
「"ただ"じゃない。記憶は人間が大事にしなければならないものだよ」
「でも記憶は美化されるし、風化します。なければないで困りません」
「記憶は時間とともにあいまいになることもある。けれど、何ににも替えがたい物だよ」
「それはそうかも知れないですけど、今の医学じゃ、原因がわからないんですよね」
「もっと大きな病院に行けば、まだ希望はある」
「そこまで周りに迷惑は掛けれません」
母親だと言う人から聞いた話では、私は市内の私立の女子高に通っている高校生らしい。
私立は他の学校よりもお金がかかる。
しかし、不景気が父親の仕事先を襲っている。母親もパートに出ている。
そんな中で、これ以上私のなくても構わない記憶にお金を掛けられない。
「私は医者だからね。患者に無理強いはできない」
私は斎蓮先生の台詞を聞いて安心した。
とりあえず、彼らの生活は守った。
「でも、一つだけ訂正して欲しい。周りじゃない、家族だ」
一瞬意味が分からなかったが、すぐに理解した。
私が言った、そこまで周りに迷惑はかけれません。という台詞のことだ。
「君は記憶を失い、人との絆も失った。だから、家族のことを"周り"と言ってしまったんだよ」
「それは……言葉の綾です」
「それに君の一存では、まだ何も決めれない。家族と相談してみなさい」
「相談って言っても、医学では解明できないから、記憶を戻す方法もわからないんでしょ? 悪戯に大きな病院に行っても意味がないかも知れないんでしょ?」
「現代の医学では、私の見解では、無理だ。…でも、医学でないなら」
「医学でない?」
私は少し驚いた。医者が医学を放棄した?
斎蓮先生は満面の笑みで、私に向かって言った。
「私の知り合いに、優秀な霊能力者がいる」
「霊能力者」
「呪いや祟りというものは、経過がなく結果だけが存在する。それ故、どれだけ用心しても病にかかるし、怪我をする」
「私はオカルトは信じない主義です」
「相談料は無料だから。時間が空いた時に、一度行ってみてはどうだろうか。久恒神社の琥珀君とジュゴン君の所へ」
「久恒神社……?」
うさんくさい。
絶対に行かない。私は心のメモにそう書いた。
感謝の笑みを浮かべながら、嘘をついた。
「わかりました。時間があったら、行ってみます」
誰が行くもんか。
偽物オカルト師にすがるぐらいなら、非公式の宗教団体に加入したほうがマシだ。
診療室を出た私は、携帯電話で父親を呼んで、車で迎えに来てもらった。
ここから家まで、そう遠くないのだが、私は自宅の場所を忘却していた。