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NO TRACE ―影を追う者― IV 見えない視線

第一章 見られている女


神崎玲奈が最初に異変を感じたのは、撮影所の楽屋へ一枚の写真が置かれていた時だった。


二十八歳にして主演作品を何本も抱える玲奈のもとには、毎日のようにファンレターや贈り物が届く。中には距離感を間違えた文章もあるため、事務所のスタッフが内容を確認してから本人へ渡すのが常だった。


その写真は、そうした手続きを経たものではなかった。


撮影を終えて楽屋へ戻った玲奈が化粧台の上に置かれた封筒を見つけ、何気なく中身を取り出すと、自宅近くのコンビニから出てくる自分の姿が写っていた。雑誌やテレビから切り取った写真ではなく、夜道の向こう側から望遠レンズで撮影したらしく、本人がカメラの存在に気付いている様子はない。


玲奈は眉を寄せながら写真を裏返した。


黒いペンで、「今日も綺麗だった」と書かれていた。


気味が悪いとは思ったものの、それだけなら熱心すぎるファンの行為として処理できなくもなかった。しかし翌日には、仕事を終えて送迎車へ乗り込む瞬間を撮影した写真が届き、その数日後には自宅マンションのエントランスへ入る姿まで写されていた。


写真を撮る位置が、少しずつ近づいている。


玲奈は事務所へ報告し、高城修平社長の判断で警備が増やされた。警察にも相談し、撮影所への出入りを確認するようになったが、犯人らしい人物は一人も見つからなかった。


異変が写真だけで終わっていれば、玲奈もまだ平静を保てたかもしれない。


ある朝、撮影で使用する予定だった衣装が控室の中で切り裂かれているのが見つかった。背中から胸へ向かって真っ直ぐ刃物を走らせたような跡があり、人が着用している状態で切られていれば、皮膚まで深く傷ついていた位置だった。


衣装担当の女性は青ざめ、高城はその日の撮影を中止しようとした。


玲奈はそれを拒んだ。


「撮影を止めたら、向こうの思い通りじゃないですか」


「そういう問題じゃない。もうファンの悪戯で済む段階じゃないんだ」


「分かっています。でも、私が休んだら何十人も予定を変えることになるでしょう」


玲奈はそう言い切ったが、高城には彼女がまったく恐れていないわけではないことが分かっていた。廊下で物音がすれば振り返り、見知らぬスタッフが近づけば以前より長く顔を確認する。本人が認めなくても、生活の中へ恐怖が入り込み始めていた。


決定的な出来事は、その日の夜に起きた。


撮影を終えた玲奈が帰宅しようとすると、マネージャーが駐車場で送迎車の前にしゃがみ込んでいた。


「どうしたの?」


玲奈が声を掛けても、男はすぐには答えなかった。やがて顔を上げると、普段より低い声で言った。


「この車には乗らないでください」


前輪の奥へライトを当てると、ブレーキホースが鋭利な刃物で切断されていた。


偶然ではない。


誰かが玲奈を見ているだけではなく、周囲へ手を伸ばし始めている。


翌日の午後、高城修平はNO TRACE調査事務所を訪れた。


冬馬の向かいへ座ると、厚いファイルを机へ置いた。中には送られてきた写真、衣装の破損状況、切断されたブレーキホース、警察へ提出した被害届の控えまで整理されている。


冬馬は一枚ずつ確認した。


「脅迫文はありますか」


「直接『殺す』とは書かれていません。ただ、文章が変わってきています」


高城が新しい写真を差し出した。


玲奈が若い男性俳優と撮影現場の外を歩いている写真だった。裏には、「その男は君に相応しくない」と書かれている。


冬馬は文章よりも、撮影位置や画角を長く見た。


「玲奈さんを怖がらせることだけが目的ではなさそうですね」


「どういう意味です?」


「自分と玲奈さんには特別な関係があると思い込んでいる可能性があります」


冬馬は写真を机へ戻した。


「本人と話せますか」


「もちろんです。ただ、玲奈は護衛をつけること自体を嫌がっています」


冬馬はファイルを閉じた。


「それなら、まず本人へ選んでもらいましょう」


高城は少し意外そうな顔をした。


「こちらから依頼しているのに、断らせるんですか」


「護衛されるのは高城さんじゃありません」


冬馬は椅子から立ち上がった。


「守るためだと言って本人の意思を無視したら、やっていることが相手と大して変わらなくなります」


高城は返す言葉を失った。


その時点では、冬馬もまだ知らなかった。


玲奈を見つめている視線が、人間の目だけから向けられているのではないことを。


---


第二章 護衛依頼


神崎玲奈と初めて顔を合わせたのは、その日の夕方だった。


撮影スタジオ内の小さな応接室へ案内されて待っていると、玲奈はマネージャーと高城を伴って入ってきた。テレビ画面越しに見るより背が高く、華やかな容姿をしていたが、冬馬が最初に気付いたのは別の部分だった。


玲奈は部屋へ入った瞬間、無意識に窓と出入口を確認していた。


既に周囲を警戒することが習慣になっている。


高城が冬馬を紹介すると、玲奈は正面の椅子へ腰を下ろした。


「二十四時間ついて回る探偵さんだと聞きました」


「まだ決まっていません」


玲奈は眉を上げた。


「社長から依頼されたんですよね」


「依頼は受けました。ただ、護衛を受けるかどうかはあなたが決めてください」


高城が何か言おうとしたが、冬馬は玲奈を見たまま続けた。


「危険な状態だとは思います。それでも、四六時中知らない男に見られることを嫌だと思うなら断って構いません」


玲奈はしばらく冬馬の顔を見つめた。


「変わった探偵ですね」


「よく言われます」


その返答に玲奈の口元が僅かに緩んだ。


冬馬はそこで初めて、具体的な質問を始めた。


写真が届き始めた時期、ファンイベントで問題を起こした人物、過去の共演者、撮影スタッフ、仕事関係で恨みを買った可能性のある相手について一つずつ確認していく。


玲奈はかなり正確に答えたが、犯人へ直結するような人物には心当たりがないようだった。


冬馬は質問の方向を変えた。


「あなたが普通に接しただけなのに、自分だけ特別な扱いを受けていると思い込んでいた人はいませんでした?」


玲奈の表情が僅かに変わった。


「一人だけ、少し気になる人がいます」


「名前は?」


「相良透さんです。何年か前に一緒の現場にいた照明スタッフでした」


相良は決して無能なスタッフではなかったという。むしろ照明技師としての腕は高く、無口ではあったものの真面目に仕事をする人物だった。


玲奈が相良を覚えていたのには理由がある。


ある撮影の日、相良が照明機材の設定ミスで監督から激しく叱責された。玲奈はその直前の撮影で照明が美しく決まっていたことを知っていたため、「相良さんの照明は綺麗だったから、私は演じやすかった」と監督へ伝えた。


相良はそのことを何度も玲奈へ感謝した。


玲奈自身は、それ以上の意味を持たせていなかった。


「しばらくすると、現場で会うたびに話しかけてくるようになりました。最初は普通だったんですけど、そのうち仕事とは関係のない連絡先を聞かれたりして、少し距離を置くようになりました」


「その後は?」


「別の現場へ行ったと聞きました。それから会っていません」


冬馬は相良透という名前をノートへ記した。


事情聴取を終えたあと、玲奈へ改めて確認した。


「護衛をどうします?」


玲奈は少し考え、高城を一度見てから答えた。


「私が断っても、社長は別の警備会社を呼ぶでしょうね」


「多分そうでしょう」


「だったら、選べるうちにあなたにします」


冬馬は頷いた。


「分かりました」


玲奈はそのまま席を立ちかけてから、思い出したように付け加えた。


「ただし、仕事を休めとか、家から出るなとか、勝手に私の予定を決めないでください」


冬馬は迷わず答えた。


「分かりました」


玲奈は少し拍子抜けしたような顔をした。


「もっと反対されると思っていました」


「危険性については説明します。ただ、あなたの生活を全部止めてしまったら、守ったことにはならないと思っています」


玲奈はしばらく冬馬を見ていた。


その日の夜から、榊冬馬は神崎玲奈の護衛を始めた。


---


第三章 見えない侵入者


最初の二日間には何も起こらなかった。


冬馬は玲奈の送迎車へ同乗し、撮影中も必要以上に近くへは寄らなかった。本人だけを見ているのではなく、スタッフの出入り、非常口、窓、控室へ通じる廊下などを広く観察する。


玲奈は初日こそ冬馬の存在を意識していたが、三日目にはほとんど気にしなくなっていた。


異変は、その日の深夜に起きた。


翌朝早い撮影に備え、玲奈はスタジオ近くのホテルへ泊まっていた。冬馬は同じ階の別室を取っていたが、午前一時過ぎに玲奈から電話が入った。


「部屋へ来てください」


声に普段の落ち着きがなかった。


冬馬はすぐ廊下へ出た。


玲奈の部屋の前には既にホテルの警備員がおり、事情を説明されて中へ入ると、玲奈は洗面所の入口に立っていた。


鏡の中央に赤い口紅で文字が書かれている。


《ずっと見ている》


玲奈自身の口紅ではない。


窓は内側から施錠され、カードキーの履歴にも異常はなかった。廊下の防犯カメラにも、玲奈以外に部屋へ入った人物は映っていない。


「誰も入っていないそうです」


玲奈は鏡を見たまま言った。


「でも、誰かがこれを書いた」


冬馬は室内を調べた。


ベッドの下、クローゼット、浴室、窓、空調口まで確認したが、人が隠れている場所はない。


それでも、違和感が残る。


冬馬は洗面所から室内へ続くカーペットへ目を落とした。


数滴の水が落ちている。


浴室から続いているわけではなく、窓も閉まっている。


誰かが濡れた足で歩いたような跡だった。


冬馬は照明を落とした。


「何をしているんですか」


玲奈が訊いた。


「確認しています」


非常灯だけになった室内で、冬馬は視覚だけに頼らず、空気の動きを感じ取ろうとした。


人がいないはずのカーテンの前で、布が僅かに揺れた。


風は入っていない。


冬馬は玲奈の前へ出た。


「後ろへ下がってください」


玲奈は冬馬の声の変化を察し、言われた通り後方へ移動した。


冬馬はゆっくりカーテンへ近づいた。


誰もいないように見える。


しかし床を見ると、何もない場所でカーペットが僅かに沈んでいた。


人間一人分の重量が掛かっている。


冬馬は迷わず拳を振った。


拳は何もない空間で止まった。


硬いものへ当たった感触がある。


同時に空気が歪み、半透明の人型が浮かび上がった。


玲奈が息を呑んだ。


そこにいたものは、周囲の壁やカーテンの色を身体表面へ写し取るようにして姿を隠していた。頭部には左右へ独立して動く眼があり、鱗状の皮膚と長い指を持っている。


カメレオンを思わせる異形だった。


「廊下へ出てください!」


冬馬が叫ぶと、玲奈はすぐ扉へ向かった。


怪人も玲奈を追おうとした。


冬馬はその進路へ身体を入れる。


透明な腕が横から振られた。


僅かな風圧を感じ、冬馬は頭を下げた。


拳が頭上を通過する。


冬馬は相手の腹部があると思われる位置へ掌底を押し込んだ。


確かな手応えがあり、怪人が一歩後退したことで迷彩が崩れた。


ほんの一瞬だけ、顔がはっきり見えた。


「相良透か」


冬馬が名前を口にすると、怪人の動きが止まった。


僅かな反応だった。


それでも十分だった。


次の瞬間、相良はホテルの窓を叩き割り、外へ飛び出した。


十階である。


冬馬は窓際まで走ったが、相良は地上へ落下するのではなく、外壁へ指を食い込ませて這うように移動していた。身体が壁面の色へ溶け込み、数秒後には完全に見えなくなった。


背後から玲奈が戻ってきた。


「今の人……人間じゃないですよね」


冬馬は割れた窓から離れた。


「今は違います」


玲奈の顔色が変わった。


「今は?」


「元は人間です」


「相良さんなんですか」


冬馬は断定を避けなかった。


「反応を見る限り、その可能性はかなり高いです」


玲奈は鏡へ書かれた言葉を見た。


ずっと見ている。


それは比喩ではなかった。


相良は本当に姿を消し、誰にも気付かれず彼女のすぐ近くへ立っていたのだ。


---


## 第四章 消える男


相良透の過去を調べ始めると、玲奈が知らなかった出来事がいくつも出てきた。


相良はかつて複数の映画やドラマで照明を担当しており、技術者としての評判は悪くなかった。無口ではあったが仕事は丁寧で、周囲と深く付き合わないこと以外に目立った問題もなかったという。


変化が現れたのは、玲奈と同じ作品へ参加した頃からだった。


冬馬は当時一緒に働いていた照明技師を訪ねた。


「相良は神崎さんに救われたと思っていたんですよ」


男はそう説明した。


「監督から機材の設定を怒鳴られていた時、神崎さんが『照明が綺麗だったから演じやすかった』と言ってくれた。それ以来、あいつにとって神崎さんは特別になったみたいです」


「玲奈さんにとって相良が特別だったわけではない?」


「全然ですよ。神崎さんは他のスタッフにも同じように声を掛ける人でした」


しかし相良は違う意味で受け取った。


玲奈と自分には他人には分からない絆がある。


彼女は自分だけを理解してくれている。


その考えは徐々に膨らみ、やがて同僚へ「いずれ玲奈と付き合うことになる」と話すようになった。


周囲が否定すると怒り、玲奈に恋人の噂が出れば仕事中でも不機嫌になった。


決定的だったのは、玲奈の控室へ無断で入ろうとした事件だった。


現場から外された相良は勤務先を辞め、それ以降の公的な職歴がほとんど残っていない。


冬馬はさらに記録を追い、退職後の相良が民間の心理研究施設へ何度か通っていたことを突き止めた。


運営会社を辿ると、HELIX系列の企業へ行き着く。


相良が利用したプログラムには《対人執着傾向測定》という名が付けられていた。


冬馬は資料を見ながら眉を寄せた。


またHELIXだった。


その日の夕方、冬馬は玲奈へ調査結果を説明した。


玲奈は黙って聞いていたが、自分が照明を褒めた話になると小さく息を吐いた。


「覚えています。本当に綺麗だったから言っただけです」


「分かっています」


「でも、それが始まりだったなら……」


玲奈はそこで言葉を止めた。


冬馬はすぐに答えた。


「あなたの責任ではありません」


玲奈が顔を上げた。


「親切にしたことと、その相手があなたを所有していいことは別です」


「でも、あの時何も言わなかったら」


「別の何かを理由にしていたと思います」


冬馬は相良の資料を閉じた。


「相良はあなたの言葉そのものではなく、自分が欲しかった意味をそこへ付け足した」


玲奈は長い間何も言わなかった。


その夜、玲奈のマネージャーが地下駐車場で襲われた。


背後から突然殴られ、転倒した際に左腕を骨折した。


防犯カメラには犯人の姿が映っていなかった。


ただし、映像を何度も確認すると、照明の一部が不自然に屈折している場所がある。


冬馬は停止した映像へ顔を近づけた。


相良の透明化は完全な消失ではない。


周囲の色や光を身体表面へ再現することで、背景へ溶け込んでいる。


ならば動けば光が歪む。


重量がある以上、床へ跡が残る。


呼吸もする。


体温もある。


「見えないだけで、いないわけじゃない」


冬馬は小さく呟いた。


相良を捕まえる方法はある。


問題は、いつ、どこから現れるのかだった。


---


第五章 透明な距離


マネージャーが襲われた翌日も、玲奈は撮影現場へ向かった。


高城は休養を勧めたが、玲奈は首を縦に振らなかった。


送迎車の後部座席で窓の外を見ながら、玲奈は隣に座る冬馬へ訊いた。


「止めないんですか」


「何をです?」


「仕事へ行くことです。普通なら『危険だから休め』って言いそうですけど」


「危険だとは思っています」


「それでも?」


冬馬は前方を見たまま答えた。


「危険性について説明するのが俺の仕事で、最後に決めるのはあなたです」


玲奈はしばらく黙った。


「本当に変な人ですね」


撮影所へ着くと、以前より多くの警備員が配置されていた。


冬馬は人の顔ばかりを見なかった。


窓ガラスの反射、鏡、床に落ちた水、動くカーテン、金属製の機材へ映り込む景色まで意識する。


透明になった相良を視覚だけで見つけるのは難しい。


ならば、透明では隠せないものを見るしかない。


昼休み。


玲奈が控室へ戻ろうとしていた時、廊下の端に置かれたペットボトルが突然倒れた。


誰も触れていない。


こぼれた水が床を広がる。


冬馬は水面を見た。


途中で、不自然に水が二つへ分かれている。


見えない足がそこにある。


「玲奈さん、止まって!」


玲奈が足を止める。


同時に、その横の空気が僅かに歪んだ。


冬馬は一気に距離を詰めた。


玲奈へ向かって伸びた見えない腕と彼女の間へ身体を入れる。


爪が冬馬の肩を掠めた。


服が裂け、血が滲む。


冬馬は痛みに構わず、手応えのあった位置へ拳を返した。


鈍い音と共に相良が後退する。


床を見ると、こぼれた水の上に濡れた足跡が浮かんだ。


冬馬は足跡を追った。


右へ二歩。


次に左。


その先で突然跡が途切れた。


冬馬はすぐに天井へ顔を向けた。


「上か」


直後、空調設備が大きく揺れた。


相良が頭上から落下してくる。


冬馬は横へ身体を滑らせた。


長い爪が床へ深く突き刺さる。


迷彩が乱れ、怪人の姿が一瞬だけ現れた。


冬馬は変身した。


深緑の外殻が全身を覆い、橙色の複眼が灯る。


相良は再び透明になった。


冬馬はそこで目を閉じた。


玲奈が少し離れた場所から声を上げる。


「見えなくなるのに目を閉じるんですか?」


「最初から見えないなら、目だけに頼る方が危ない」


冬馬は呼吸を整えた。


水を踏む音。


空気の流れ。


床へ掛かる重量。


右側から僅かに風が動く。


冬馬は左腕を上げた。


見えない爪が前腕へぶつかる。


冬馬はそのまま相良の手首を掴んだ。


姿は見えなくても、そこに腕がある。


「見えなくても、触れれば同じだ」


冬馬は相良を引き寄せ、腹部へ膝を入れた。


衝撃で迷彩が崩れ、鱗状の身体が露出する。


「玲奈は俺のものだ!」


相良が叫んだ。


冬馬の表情が変わった。


「それは本人が決めることだ」


相良は怒りに任せて腕を振り払い、近くの窓を突き破って外へ逃げた。


冬馬は追わなかった。


背後に玲奈がいる。


敵を捕らえるより、まず護衛対象を安全な場所へ移す方が先だった。


玲奈は冬馬の肩から流れている血を見た。


「かなり切れてますよ」


「深くはありません」


「その量で言われても信用できません」


冬馬は傷口を確認した。


確かに、思っていたより血が出ている。


「思ったより深いかもしれません」


玲奈は呆れたように息を吐いた。


その表情の奥に、恐怖が残っていることを冬馬は見逃さなかった。


強い人間だから恐れないわけではない。


恐れていても、自分で決めて前へ進んでいるだけなのだ。


---


第六章 所有という愛


相良の攻撃は、玲奈本人よりも周囲へ向けられるようになった。


共演していた若手俳優の車が破壊され、玲奈と長く仕事をしてきたスタイリストの自宅には、顔を切り取られた写真が送り付けられた。


一つ一つの行為を並べると、相良の目的が見えてくる。


玲奈の周囲から人を遠ざける。


友人も仕事仲間も恐怖で離れていけば、最後に残るのは自分だけだと考えている。


相良が欲しいのは愛されることではない。


玲奈を孤立させ、選択肢を奪ったうえで自分を選ばせることだった。


ある夜、ホテルの廊下で玲奈と冬馬は偶然顔を合わせた。


玲奈は眠れなかったらしく、飲み物を買うため部屋を出てきたところだった。


「護衛って、本当にどこにでもいるんですね」


「仕事なので」


「そんなところに立たれていると、逆に監視されている気分になります」


冬馬は少し考え、壁際から離れてベンチへ座った。


玲奈も自動販売機で買った飲み物を手に、少し距離を空けて隣へ腰を下ろした。


しばらく沈黙したあと、玲奈が訊いた。


「相良さん、本当に私を愛しているつもりなんでしょうか」


冬馬はすぐには答えなかった。


「本人はそう思っているんでしょうね」


「じゃあ、あれも愛情なんですか」


「俺は違うと思います」


玲奈が横を見る。


冬馬は続けた。


「誰かを好きだから近くにいたいと思うことと、相手が嫌がっていても近くにいる権利があると思うことは別です」


玲奈は缶を両手で包んだ。


「守るっていうのも似ていませんか。危険だからって、何でも止めようとする人もいるでしょう」


「だから俺は、なるべくあなたに決めてもらっています」


冬馬は少し間を置いた。


「守るっていうのは、その人の人生を自分のものにすることではないと思っています」


玲奈は冬馬を見た。


「誰かを守っていたことがあるんですか」


美咲の顔が冬馬の脳裏をよぎった。


生きている美咲。


若い自分と並んで歩いていた姿。


「いました」


玲奈は何かを感じ取ったのか、それ以上深くは訊かなかった。


その時、廊下の照明が一つ消えた。


続いて、その隣も暗くなる。


冬馬はすぐに立ち上がった。


玲奈も異変を察してベンチから離れる。


何もないはずの廊下で、光が僅かに屈折した。


「部屋へ戻ってください」


冬馬が言うと、玲奈は自室へ向かった。


しかし扉の前で足を止めた。


誰もいないように見える場所から、相良の声が聞こえた。


「お前も俺と同じだ」


冬馬は玲奈の前へ移動した。


「何が同じなんだ」


「玲奈を追い掛けて、ずっと見ている。守るなんて言って、近くにいたいだけだろ」


冬馬は声の方向を探りながら答えた。


「違う」


「何が違う!」


怒りで迷彩が僅かに乱れ、輪郭が浮かんだ。


冬馬は相良をまっすぐ見た。


「俺は彼女に選ばせる」


相良の動きが止まった。


「仕事を続けるのも、逃げるのも、俺の護衛を受けるのも、全部本人が決めた」


玲奈もその言葉を聞いている。


「俺が近くにいたいかどうかなんて関係ない。玲奈さんが嫌だと言えば、それで終わりだ」


相良の顔に怒りが広がった。


迷彩が完全に崩れる。


「玲奈は俺を必要としている!」


「それを決めるのはお前じゃない」


相良が冬馬へ飛び掛かった。


冬馬は変身し、振り下ろされた爪を前腕で受け流した。狭い廊下では長い腕を振り回す相良の方が不利になるため、後退せず懐へ入り、肩を胸部へぶつけて体勢を崩す。


相良は尾を振って冬馬の脚を払おうとした。


冬馬は床を蹴って跳び、壁へ一度足をついて方向を変えると、相良の肩へ蹴りを叩き込んだ。


怪人の身体が消火器へぶつかる。


相良はすぐに透明になった。


冬馬は玲奈を見た。


「今のうちに部屋へ入ってください」


「一人で大丈夫ですか」


「少なくとも、あなたを気にしながら戦うよりは大丈夫です」


玲奈は一瞬だけ迷ったあと、部屋へ入った。


冬馬は廊下へ向き直った。


相良を倒すことが最優先ではない。


玲奈に触れさせない。


護衛としては、それで十分だった。


---


第七章 壊される日常


事件が長引くほど、玲奈の周囲から人が離れていった。


誰も玲奈を嫌いになったわけではない。


次に自分が襲われるかもしれないという恐怖からだった。


映画の撮影は延期され、予定されていた広告イベントも中止された。インターネットでは、玲奈自身に問題があるからストーカーに狙われたのだという心ない書き込みまで現れた。


楽屋で一人になった玲奈は、スマートフォンを伏せて置いた。


「私がいるから、周りが迷惑してる」


冬馬は壁際に立ったまま答えた。


「迷惑を掛けているのは相良です」


「でも、私が仕事を辞めれば」


「その考え方は相良が一番喜ぶと思います」


玲奈が顔を上げた。


「どうしてです?」


「あなたが『周りを傷付けたくないから一人になる』と思うことまで計算しているはずです」


冬馬は窓の外へ一度目を向けた。


「相良はあなたを孤立させたいんです。周囲に誰もいなくなれば、自分だけが必要な存在になれると思っている」


玲奈は表情を険しくした。


「最悪ですね」


「俺もそう思います」


その日の夜、玲奈は高城と冬馬をホテルの会議室へ呼んだ。


二人が席へ着くと、玲奈は迷わず言った。


「私を囮にしてください」


高城が即座に立ち上がった。


「駄目だ」


「このまま待っていたって終わりません」


「警察が捜査している」


「もう何人も私の周りの人が傷付いています」


高城は冬馬へ助けを求めるように視線を向けた。


「榊さんからも止めてください」


冬馬は玲奈を見た。


「危険です」


玲奈は頷いた。


「分かっています」


「俺が守り切れない可能性もあります」


高城が「そんな言い方をするな」と口を挟んだが、冬馬は続けた。


「それでもやりますか」


玲奈は視線を逸らさなかった。


「やります」


冬馬はしばらく彼女の表情を見た。


勢いで言っているのか。


恐怖から判断を誤っているのか。


そうではない。


怖い。


それでも、自分の意思で終わらせようとしている。


冬馬は頷いた。


「それなら計画を立てましょう」


高城は椅子の背へ手をついた。


「正気ですか」


「止めても、一人で相良へ連絡すると思います」


玲奈は少し気まずそうに目を逸らした。


冬馬はその反応を見て続けた。


「だったら、こちらで安全策を用意した方がいい」


高城は額へ手を当てた。


最後には、渋々ながら承諾した。


舞台には、現在使われていない旧撮影スタジオを選んだ。


一般人を巻き込む可能性が低く、出入口を限定できる。


玲奈は自分から相良へ連絡する。


冬馬は内部へ潜み、外周を警察が固める。


危険を完全になくすことはできない。


それでも玲奈は、自分で選んだ。


冬馬が守ろうとしているのは、その選択も含めた彼女の人生だった。


---


第八章 選ばせるということ


相良へ送ったメッセージには、十分も経たず返信が届いた。


《やっと分かってくれた》


玲奈は画面を見た瞬間、露骨に嫌そうな顔をした。


「何を分かったつもりなんでしょうね」


「多分、自分に都合のいいこと全部でしょう」


冬馬の答えに、玲奈は小さく笑った。


決行は翌日の夜になった。


旧撮影スタジオには、大型の鏡を何十枚も組み合わせた撮影セットが残っていた。かつて幻想的な映像を撮るために造られたもので、立つ位置によって同じ人物がいくつにも増えて見える。


冬馬は玲奈が到着する数時間前から内部を確認した。


透明化する相良にとって鏡が有利なのか不利なのかは分からない。


背景へ溶け込む能力なら、複雑な反射は迷彩を助ける可能性もある。しかし光を完全に曲げられるわけではない以上、鏡の中には歪みとして現れるかもしれない。


冬馬はセットの一部へ薄く水を撒いた。


相良がそこを通れば足跡が残る。


照明の位置も確認し、どのスイッチを落とせばどこまで暗くなるか頭へ入れた。


午後九時。


玲奈が到着した。


冬馬は最後に確認した。


「まだやめられます」


玲奈は首を横へ振った。


「やめません」


「危険だと思ったら、俺の指示を待たずに逃げてください」


玲奈は少し意外そうな顔をした。


「私が勝手に動いていいんですか」


「そのために出口を説明しました」


「普通は『俺が守るから動くな』って言いそうですけど」


「動ける人に動くなと言う方が危ないこともあります」


玲奈は小さく笑った。


「最後まで変な護衛ですね」


「今更ですね」


玲奈がセット中央へ進む。


冬馬は暗い通路へ姿を隠した。


十分が経過した。


十五分。


何も起こらない。


玲奈は不安を表情へ出さないようにしているが、指先へ僅かに力が入っている。


その時。


正面の鏡に映る玲奈の隣で、背景がほんの少し歪んだ。


玲奈の呼吸が止まる。


「玲奈」


相良の声がした。


位置までは分からない。


「やっと二人になれた」


玲奈は鏡の中を見ながら答えた。


「二人じゃないです」


「探偵がいるのか」


「そういう意味じゃありません」


玲奈は一度息を吸った。


「私一人でも、あなたのものじゃない」


静寂が落ちた。


空間の一部が歪む。


透明だった相良の顔が浮かび上がった。


「誰にそんなことを言わされた」


「自分で決めました」


その言葉を聞いた瞬間、相良の迷彩が完全に崩れた。


怒りで能力の制御を失ったのだろう。


「違う!」


相良が玲奈へ走り出した。


同時に冬馬が暗がりから飛び出す。


相良の腕を横から叩き、進路を変えた。


「逃げて!」


玲奈は迷わなかった。


自分で確認した出口へ走る。


相良が追おうとする。


冬馬はその前へ立った。


「お前の相手はこっちだ」


相良の眼が冬馬へ向く。


「邪魔をするな!」


爪が振り下ろされた。


冬馬は変身しながら腕を上げ、刃を外側へ逸らした。


玲奈が走り去る足音を背中で聞きながら、冬馬は相良の前から動かなかった。


守るとは、逃げる方向まで決めることではない。


逃げる道を残してやることだ。


冬馬はそう考えながら、再び迫った爪へ身体を向けた。


---


第九章 鏡の中の影


旧スタジオの鏡は、相良の姿を何十にも増やした。


透明化していない時でさえ、本物がどれなのか判断しにくい。


相良が身体を背景へ溶け込ませると、状況はさらに複雑になった。


冬馬は正面の空間だけを見なかった。


鏡へ映る歪み。


床の水。


風。


相良が移動することで生じる僅かな変化を探す。


左側の空気が揺れた。


冬馬は身体を右へ移した。


爪が肩を浅く切る。


外殻の隙間から血が滲んだ。


相良はすぐ姿を消した。


床を見る。


薄く撒いた水の上へ、足跡が一つ現れた。


次にもう一つ。


冬馬は足跡の進む方向へ拳を振った。


しかし相良は直前で軌道を変えたらしく、拳は鏡へ直撃した。


大きな亀裂が走り、破片が床へ落ちる。


「見えないだろ」


相良の声が別方向から聞こえた。


冬馬は構えを解かなかった。


「その割には、よく喋るな」


怒った相良が背後から近づく気配がした。


冬馬は振り返らず、後方へ肘を打ち出した。


確かな感触がある。


相良の迷彩が一瞬乱れた。


冬馬は身体を回転させ、顔面へ右拳を放つ。


相良は透明化しながら身体をずらしたものの、拳は頬を掠めた。


直後に蹴りが冬馬の胸へ入る。


冬馬は後方の鏡へ背中からぶつかった。


ガラスへ細かな亀裂が広がる。


遠くでは、玲奈が出口へ近づいている。


相良もそれに気付いた。


冬馬には、透明な身体が玲奈の方向へ動いたことが空気の揺れで分かった。


冬馬は手を伸ばした。


何も見えない。


それでも腕を掴む。


「お前の相手は俺だ」


「邪魔をするな!」


「それが仕事なんでな」


相良は腕を振り払い、再び姿を消した。


冬馬は肩の傷から流れる血へ指を触れた。


相良が次に攻撃してくる位置を完全に読むことはできない。


なら。


一度だけ。


攻撃を受ける。


冬馬は構えを僅かに緩めた。


相良には隙に見えたはずだった。


右側から爪が来る。


冬馬は致命傷になる位置だけを外し、脇腹の外殻で受けた。


鋭い痛みが走る。


だが。


その瞬間。


冬馬は相良の身体へ手を伸ばした。


自分の血が付いた手のひらを、相手の胸へ強く押しつける。


相良は驚いて後方へ跳んだ。


再び透明になる。


身体は見えなくなった。


しかし。


胸へ付着した赤い血だけは消えない。


空中を動く血痕が、相良の位置を教えている。


冬馬は床を蹴った。


「見つけた」


右拳が相良の腹部へ直撃する。


透明化が大きく乱れた。


続いて左肘を胸へ打ち込み、身体が折れたところへ膝を突き上げる。


相良の身体が後方へ飛び、巨大な鏡へ激突した。


ガラスが割れ、破片が床へ降り注ぐ。


相良はそれでも立ち上がった。


「俺は玲奈を愛してる!」


冬馬はゆっくり距離を詰めた。


「だったら、本人が嫌だと言ったことくらい聞け」


相良は何も答えられなかった。


自分の愛情を否定されたからではない。


自分が決して見ようとしなかった玲奈本人の意思を、冬馬に突きつけられたからだった。


---


第十章 見えない戦い


追い詰められた相良は、透明化の精度をさらに高めた。


身体の色だけではなく表面温度まで周囲へ近づけ、冬馬の感覚を欺こうとしている。胸へ付着した血も、近くに落ちていた布で乱暴に拭い取った。


冬馬は無理に追わなかった。


焦れば相良の思うつぼになる。


鏡の間をゆっくり歩きながら、相手の呼吸と足音へ意識を向ける。


突然、左から爪が飛んできた。


冬馬は前腕で受け流した。


すぐ右側から尾が振られる。


両腕を交差して受け止めたものの、衝撃で数メートル後方へ押し戻された。


相良は姿を現さないまま攻撃を続ける。


冬馬は次の爪を避けると、見えない腕の外側へ手を添えた。


攻撃の勢いを殺さず、そのまま身体の横へ流す。


相良の重心が前へ崩れた。


冬馬は背中がある位置へ肩をぶつけた。


相良の身体が鏡へ激突する。


迷彩が一瞬解除された。


「どうしてだ!」


相良が叫んだ。


冬馬は構えを解かなかった。


「何がだ」


「どうしてお前が玲奈を守る!」


「仕事だからだ」


「嘘をつけ!」


相良は再び透明になると、正面から冬馬へ突進した。


「好きでもない女のために、そんな傷を負えるわけがない!」


冬馬は振り下ろされた爪を左腕で受け止め、その手首を掴んだ。


「お前には分からないだろうな」


相良が抵抗する。


冬馬も離さない。


「何が分かるっていうんだ!」


冬馬は相良の腕を引き寄せ、腹部へ膝を入れた。


相良の身体が前へ折れる。


「誰かを大切にするのに、その人を自分のものにする必要はない」


相良は冬馬を突き飛ばした。


「綺麗事を言うな!」


「綺麗事でも構わない」


冬馬は再び立った。


「俺は一度、守りたかった人を失った」


相良の動きが僅かに止まる。


「だったら俺と同じだろ!」


「違う」


冬馬は静かに首を横へ振った。


「その人が生きてくれるなら、俺を選ばなくてもいいと思えた」


美咲。


若い冬馬と歩く姿が、胸の奥をよぎる。


痛みが消えたわけではない。


それでも。


「俺と一緒にいることより、その人が生きて自分の人生を選べることの方が大事だった」


相良の顔が歪んだ。


「そんなのは愛じゃない!」


「少なくとも、お前が玲奈へしていることよりは近いと思ってる」


相良は叫び声を上げ、完全に姿を消した。


冬馬は追わなかった。


周囲を見た。


スタジオに残る照明。


冬馬は近くの制御盤へ手を伸ばした。


すべての照明を落とす。


一瞬で、スタジオが暗闇へ沈んだ。


相良の透明化は、周囲の色と光を身体表面へ写す能力だ。


なら。


光そのものがなければ、冬馬にも相良にも何も見えない。


条件は同じになる。


冬馬は複眼を閉じた。


聴覚。


触角。


足元の振動。


鏡の破片を踏まないよう動く音。


一つずつ拾う。


右前方で空気が動いた。


冬馬は一歩だけ左へ移動した。


相良の腕が空を切る。


冬馬はその手首を掴んだ。


今度は離さない。


相良の内側へ右足を入れ、腰を低く落とした。


掴んだ腕を引きながら身体を回転させる。


相良の身体が宙へ浮いた。


次の瞬間、背中から床へ叩きつけられた。


硬い外殻が大きく軋む。


冬馬は胸部へ膝を置き、動きを封じた。


「離せ!」


「終わりだ」


「玲奈は俺を分かっている!」


冬馬は押さえつける力を緩めなかった。


「玲奈本人が違うと言った」


相良の抵抗が止まった。


それ以上。


相良には反論する言葉がなかった。


---


第十一章 見える傷


相良の変身が解除されると、そこに残ったのは痩せた一人の男だった。


顔は疲れ切り、髪も伸び放題になっている。長い間まともな生活をしていなかったことが、その姿だけで分かった。


冬馬も変身を解除し、少し離れた場所へ腰を下ろした。


相良は割れた鏡を見ながら呟いた。


「玲奈に会わせてくれ」


「玲奈さんが会いたいと言ったらな」


「謝りたいんだ」


「それを聞くかどうかも本人が決める」


相良は目を閉じた。


「どうして分かってくれないんだ」


冬馬は相良の顔を見た。


「誰が?」


「玲奈がだよ」


「お前が玲奈を分かろうとしていないからだろ」


相良が目を開いた。


冬馬は割れた鏡へ視線を移した。


「お前が見ていたのは、自分の頭の中にいる玲奈だけだ。本当の玲奈が嫌だと言っても、自分の想像と違えば玲奈が間違っていることにした」


相良は何も言わない。


「それじゃ最初から、一人で恋愛しているのと同じだ」


ほどなくして、警察と特殊医療班が到着した。


相良には通常の拘置施設だけでは対応できない。HELIXによる改造を受けている可能性が高いため、身体状態の確認と能力抑制を行ったうえで、特別な監視下へ置かれることになった。


搬送される直前、相良が冬馬へ訊いた。


「俺はもう人間じゃないのか」


冬馬はその問いにすぐ答えなかった。


自分自身が何度も考えてきた問いだったからだ。


「身体については、俺にも分からない」


相良が冬馬を見る。


「ただ、これから何をするかは自分で選べる」


相良は視線を落とした。


そのまま医療班に連れられていった。


玲奈がスタジオへ戻ってきたのは、それから一時間ほど後だった。


割れた鏡や血の付いた床を見て、表情を曇らせる。


「終わったんですか」


「相良は拘束されました」


「生きているんですね」


「殺す必要はありませんでした」


玲奈はしばらく黙った。


「私に会いたいって言いました?」


冬馬は頷いた。


「謝りたいそうです」


玲奈の顔が強張る。


冬馬は続けた。


「会う必要はありません」


「謝りたいって言っているのに?」


「謝りたいのは相良の事情です。それを聞く義務まで玲奈さんにはありません」


玲奈はその言葉を聞き、ゆっくり息を吐いた。


「だったら、今は会いません」


「分かりました」


冬馬はそれ以上何も言わなかった。


許せとも、会ってやれとも言わない。


玲奈が選んだ答えを、そのまま相良へ伝えるだけだった。


---


第十二章 見えない視線


事件から二週間後、神崎玲奈は撮影現場へ戻った。


延期されていた映画の撮影も再開され、腕を骨折したマネージャーも固定具をつけたまま現場へ顔を出すようになった。


もちろん、すべてが以前と同じになったわけではない。


背後で突然物音がすれば、玲奈は一度振り返る。


見知らぬ人間から長く視線を向けられれば、以前より警戒するようになった。


相良に襲われたスタッフたちにも、それぞれ傷が残っている。


事件が終わったからといって、そこまでの出来事が消えるわけではない。


それでも玲奈は仕事を続けた。


誰かに強制されたからではない。


自分でそう選んだからだった。


ある日の夕方、玲奈がNO TRACE調査事務所へやって来た。


冬馬は机で相良事件の資料を整理していた。


「護衛費の請求書、高くありません?」


玲奈が開口一番そう言ったので、冬馬は資料から顔を上げた。


「高城さんへ言ってください」


「社長から、本人と交渉しろと言われました」


「それなら、高いものは高いです」


玲奈は呆れたように笑った。


「値切る余地がないんですね」


「かなり怪我をしたので」


玲奈は冬馬の肩へ視線を向けた。


傷はまだ完全には塞がっていない。


「それ、私のせいですか」


「相良のせいです」


冬馬は迷わず答えた。


玲奈は少し黙り、そのあと小さく笑った。


「そういうところなんでしょうね」


「何がです?」


「いえ、何でもありません」


玲奈は冬馬の向かいへ座った。


「ありがとうございました」


「仕事です」


「それでもです」


玲奈は机の端へ指を置いた。


「最後まで、私に『こうしろ』って決めつけませんでしたよね」


「危険な時に逃げてくれとは何度か言いました」


「それは護衛なので別です」


冬馬は何も返さなかった。


しばらくして、玲奈は壁に貼られている写真へ目を向けた。


これまでの事件に関係した人々。


水城遼。


高瀬修。


真鍋恭介。


そして、少し離れた位置には美咲の写真もある。


玲奈はその一枚を見てから冬馬へ訊いた。


「前に話していた人ですか」


冬馬も写真へ視線を向けた。


「守りたかった人?」


玲奈がそう続けたため、冬馬は否定しなかった。


「そうです」


「その人は今、どうしているんですか」


冬馬は窓の外へ目を向けた。


この街のどこかに美咲がいる。


若い冬馬と共に生きている。


自分が入るべきではない人生を、自分の手で守ることができた。


「生きています」


玲奈の表情が少し柔らかくなった。


「それなら良かったですね」


冬馬はすぐには答えなかったが、やがて小さく頷いた。


「そうですね」


玲奈は少し考えてから言った。


「その人、幸せだといいですね」


冬馬は美咲の写真を見た。


胸の奥には、今でも失った未来への痛みが残っている。


それでも、その痛みを理由に美咲の人生を奪いたいとはもう思わない。


「そうですね」


今度の返事は、先ほどより自然に出た。


玲奈は立ち上がった。


「それじゃ、私は仕事へ戻ります」


「気を付けてください」


「また見えないストーカーが出てきたりしませんよね」


「それは俺にも分かりません」


玲奈は苦笑した。


「最後まで安心させる気がないんですね」


「分からないことを大丈夫だと言うよりはいいでしょう」


玲奈は笑いながら事務所を出ていった。


扉が閉まったあと、冬馬は相良透の資料をもう一度開いた。


普通の照明スタッフだった男が、一人の女性へ強い執着を持った。


HELIXはそこへ接触した。


姿を見られずに近くにいたい。


誰にも邪魔されず対象を見続けたい。


そんな欲望へ適応するように、身体はカメレオンの特性を与えられている。


偶然とは思えなかった。


これまで戦ってきた怪人たちにも、それぞれ元になった感情や願望があった。


怒り。


恐怖。


喪失。


執着。


それらと与えられた能力の間に、何か規則があるように思える。


HELIXは人間を無差別に怪物へ変えているのではない。


何かを見ている。


人間の中にある感情を選び、それを身体へ結び付けている。


冬馬はまだ、その理由までは知らなかった。


だが、組織が何を研究しているのかという輪郭だけは、これまでより確実に見え始めていた。


窓の外では日が沈み、ビルの明かりが一つずつ点いていく。


相良は透明になることで、自分なら誰にも見つからず玲奈の傍にいられると思っていた。


しかし、姿が見えないからといって存在まで消えるわけではない。


愛情も執着も恐怖も同じなのかもしれない。


目には見えなくても、人間を動かし、ときには人生そのものを変えてしまう。


冬馬が資料を閉じたところで、机の電話が鳴った。


受話器を取ると、向こうから緊張した声が聞こえてきた。


新しい依頼だった。


冬馬はノートを開き、相手が名乗った名前を丁寧に書き留めた。


また誰かが、何かに追われている。


その痕跡が消えてしまう前に見つけることが、今の冬馬の仕事だった。


「最初から聞かせてください」


そう告げると、冬馬は電話の向こうの声へ耳を傾けた。


窓の外では、誰にも見えない夜の影が静かに街へ広がっていた。


――NO TRACE.


第四巻 完


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