美しい無意味 ~ 拾われないものたちへ【水編】 ~
夏の終わり――
人のいない海に来ると、不思議と考え事をしてしまう。
少し前まで海水浴客で賑わっていた砂浜には、もうパラソルも浮き輪もない。
それすら波は、もう何も覚えていない。
何度寄せては返しても、昨日の波とはもう違う。
それでも海は、何事もなかったような顔で、
今日も岸辺へ打ち寄せている。
足元では、波に削られた小さなガラス片が光っていた。
砂と一緒に指で拾い上げると、思っていたより、ひやりとしていた。
こういうものを、
私は「美しい無意味」と呼んでいる。
咲いて、散るだけの花。
誰にも見られないまま、ひっそりと咲いて、
ひっそりと枯れていくだけの花。
砂浜の足跡。
さっきまで確かに誰かが歩いていた証。
けれど、波が来れば、風が吹けば、
足跡は少しずつ輪郭を失い、
やがて、何もなかった砂浜へ戻っていく。
そこに誰かがいたことさえ、誰も知らない。
波に削られて丸くなったガラス片。
もとは誰かが捨てた破片。
鋭く、危険だったものが、長い時間のあいだに角を落とし、
今はただ、静かに陽を返すだけのシーグラス。
波は何年もかけて、
誰かが捨てたものを、
誰かが拾いたくなるものへ変えていく。
役目を終えたのか。
はじめから役目などなかったのか。
もう誰にもわからない。
子どもの落書き。
ぐちゃぐちゃの線。
意味も形もない色。
描いた本人さえ、翌日には忘れてしまうような絵。
冷蔵庫に貼られたまま、いつのまにか色が褪せていく。
古い手紙。
もう忘れられてしまった誰かからの、懐かしい言葉。
読み返しても、何も取り戻せないと知りながら、
それでも、捨てられない手紙。
切手の消印の擦れが、何度も開かれたことを語っている。
誰もいない教室に差し込む夕日。
使われない机を、均等に照らす光。
誰のためでもない時間が、そこに静かに積もっている。
黒板の隅には、消し忘れた白い跡が、まだかすかに残っている。
レコードの溝が奏でる、曲間のノイズ。
音楽ではないはずの、かすかなざらつき。
今日も、スマホの音楽で済むのに、レコードに針を落としてしまう。
針先が溝に触れる瞬間、ほんの小さな「ブツッ」という音がする。
音楽が始まる前の、「……ガサガサ」という無意味の間を待つために、
わざわざ棚から重いだけの黒い盤を取り出してしまうのかもしれない。
誰に聴かせるでもないのに。
そして、
――小説を書くこと。
読んでもらえる保証もない物語。
それでも、僅かな期待を胸に、公開ボタンを押してしまう。
画面は静かなまま、何も変わらない。
やっぱり、誰の記憶にも届かないまま終わる言葉たち。
それでも、書いているあいだだけは、
世界のどこかと細い糸でつながっている気がする。
それは、海へ投げた小瓶の手紙のようなものなのかもしれない。
いつか、どこかへ辿り着き、
誰かに拾われるのか。
あるいは、
誰にも拾われないのか。
そんなことは、最後までわからない。
*
「美しい無意味」は、必要ないことかもしれない。
誰の役にも立たないのかもしれない。
それをあえて美化して、大事なものだと言う気もない。
そもそも、「美しい無意味」は、
役に立つとか――
大事だとか――
そんな物差しの上に載せること自体が、少し違うような気がする。
なくても困らない。
削っても世界は少しも揺れない。
それでも、それがないと、胸の奥のどこかが、わずかに乾いてしまう。
それが、呼吸を続けさせている。
詰まらずに済んでいる。
「美しい無意味」が、消えない保証など、どこにもない。
賞賛されているわけでもない。
ただ――
損得や効率だけでは、生きてはいけない。
私は、最後の一歩で合理になりきれない。
花は咲き、
足跡は刻まれ、
波はそれを消し、
シーグラスは磨かれ、
ノイズは残り、
物語は書かれる。
必要だからでも、
意味があるからでもない。
ただ、そうしてしまうから。
「美しい無意味」は、定義しなくてもいい。
評価もしなくていい。
誰にも、気づかれなくていい。
「美しい無意味」が、
偶然拾った誰かの心を、
一瞬だけ照らして――
また静かに流れていく。
足跡が波に消えるように。
シーグラスが海へ還るように。
物語もまた、誰かの心へ触れたあと、
静かに時の流れへ溶けていく。
それでも。
今日もどこかで、
静かに在る。
そして、このポエムも。
そう、
誰にも拾われないかもしれない。
だけど。
それでいい。
【了】




