湯煙の密室
完璧な計画は、完璧な人間にしか実行できない。
しかし完璧な人間は、そもそも人を殺さない。
少年は今日も問い続ける。
正義とは何か。法とは何か。
探偵とは、何者であるべきか。
湯煙は答えを知っている。
しかし語らない。
ただ白く、静かに、空へ消えていく。
第一部 計画
第一章 呪われた少年
世の中には、行く先々で災いを呼ぶ人間がいる。
江森透は、自分がそういう人間だと知っていた。
統計的に見て、明らかにおかしかった。彼が旅に出るたびに死体が出る。彼が宴会場に足を踏み入れれば誰かが毒を盛られる。彼が温泉地を訪れれば、必ず湯煙の向こうから悲鳴が聞こえてくる。
探偵仲間の間では「疫病神」と呼ぶ者もいた。冗談めかして、しかし半ば本気で。
透はその呼び名を、笑って否定してきた。
俺が呼び込むんじゃない。俺はただ、そこにいるだけだ、と。
しかし今回は違った。
今回だけは、違った意味で呪われていた。
(今回は、俺が災いそのものだ)
四月の伊豆。桜はすでに散り、山全体が柔らかな新緑に包まれていた。山間の一本道を走るバスの窓から、透は流れていく景色を眺めていた。
見るともなく見ていた。
頭の中では、三ヶ月かけて構築した設計図が、何度目かの最終確認を繰り返していた。
凶器の素材と劣化速度の計算。トリックの手順と所要時間。犯行後の逃走ルートと動線。アリバイの構造。証拠の消去方法。そして最も重要な確認事項――監視装置と目撃者の完全排除。
一つ一つを頭の中でなぞるたびに、どこにも穴はないという確信が積み重なった。
三ヶ月。
九十日。
透はその時間のほとんどを、この計画のために使ってきた。
眠れない夜があった。食事の味がしない日があった。蘭に「最近元気ない?」と心配された夜があった。そのたびに笑って「なんでもない」と言い続けた。
その笑顔が、計画の一部だった。
疑われてはいけない。不審に思われてはいけない。江森透は、ただの明るい子供でなければならない。
(もう少しだ)
バスが山道のカーブを曲がった。
窓の向こうに、白い湯煙が見えた。
杉木立の間から立ち上る、細く白い煙。
旅館「月見荘」の煙突から出る湯煙だった。
透はその煙をじっと見た。
あそこで、今夜、すべてが終わる。
三ヶ月の計画が、一夜で完結する。
黒沢義隆が死に、誰も裁かれず、真相は永遠に藪の中に消える。
(行くぞ)
「透くーん、着いたよ!見て見て、湯煙!きれいだね!」
隣の席で毛家蘭が声を上げた。十七歳の少女の笑顔は、無防備なほど明るかった。その笑顔を見るたびに、透の胸に何かが刺さった。
この子は何も知らない。
この子には、永遠に知らせない。
「きれいだね」
透は言った。子供らしい、無邪気な声で。
バスが停留所に滑り込んだ。
バスを降りると、伊豆の山の空気が体を包んだ。
東京とは違う空気だった。湿っていて、緑の匂いがして、奥の方に硫黄のかすかな匂いが混じっている。
「いい匂い!」蘭が深呼吸した。
「温泉の匂いがするな」と毛家五郎が鼻をすんと動かした。「よし、まずは一風呂浴びてビールだ」
「お父さん、チェックインが先でしょ」
「チェックインしてから風呂に入ってビールを飲む、そういう段取りだ」
「同じでしょ」
親子のやりとりを聞きながら、透は月見荘の建物を見上げた。
木造三階建て。総檜造りの廊下。明治から続く老舗の宿だと聞いていた。
外観は調査済みだった。しかし実際に目で見ると、想像より少し大きかった。
(規模は問題ない。問題は中の構造だ)
透は荷物を持って、足を踏み出した。
第二章 失われた家族の記録
なぜ透がここまで踏み込むことになったのか。
それを語るには、六ヶ月前に遡らなければならない。
黒沢興産に関連する詐欺事件の調査依頼が、毛家探偵事務所に持ち込まれたのは、去年の十月だった。
依頼人は黒沢興産の元取引先だった中小企業の社長だった。土地の売買で騙され、会社が傾いたという案件だった。五郎が受けた仕事だったが、実際の調査は透がほぼすべて行った。
調査を進める過程で、透は一つの書類を見つけた。
それは、黒沢興産の古い人事記録だった。
遠野誠、経理部長、懲戒解雇。理由:横領。
日付は、十五年前。
何かが引っかかった。
透は探偵の本能で、その名前を追い始めた。
図書館に行き、当時の新聞記事を調べた。横領事件として小さく報じられていた。被害額は数千万円。しかし遠野誠本人は最後まで無実を訴え続けていた、という一文が記事の末尾にあった。
その一文が、透を止まらなくさせた。
さらに調べた。
元同僚への聞き取り。当時の裁判記録。黒沢興産の内部資料。
そして三週間後、透は一つの結論に辿り着いた。
遠野誠は、無実だった。
横領の証拠はすべて、黒沢義隆が仕組んだものだった。当時の経理システムへの不正アクセスログが、サーバーの深層に残っていた。精巧に隠されていたが、透の目には見えた。
遠野誠は解雇後、弁護士を探し続けた。しかし費用が払えなかった。妻は精神を病み、離婚した。一人娘の葵は、母親に引き取られた。
遠野誠は派遣の仕事と深夜のアルバイトを掛け持ちし、弁護士費用を貯め続けた。
三年間、貯め続けた。
しかし体が先に限界を迎えた。
過労による心筋梗塞。四十二歳。独り暮らしのアパートで、誰にも看取られずに死んだ。
葵は十歳だった。
透はその事実を知ったとき、しばらくの間、調査資料から目を離すことができなかった。
十歳。
十歳で父を失い、母はすでに精神を病んでいた。
その後の葵の記録を追うのに、さらに一ヶ月かかった。
母親は葵が十三歳のときに亡くなっていた。葵は親戚をたらい回しにされ、十五歳で家を出た。高校は行っていない。中卒で工場に就職した。
今は静岡県内の食品加工工場で働いている。
透は一度だけ、遠くから葵の姿を見た。
昼休み、工場の裏口。二十二歳になった遠野葵は、くたびれた作業着を着て、コンビニのおにぎりを一人で食べていた。
笑っていなかった。
ただ疲れた顔で、おにぎりを食べていた。
透はその姿を、路地の角から見ていた。
五分間、見ていた。
葵は一度も笑わなかった。
帰り道、透は電車の中でずっと窓の外を見ていた。
(遠野誠という人が、何をされたか、俺は知っている)
(その娘がどんな人生を送っているか、俺は知っている)
(そして黒沢義隆は、今も笑って生きている)
それから、透は弁護士を探した。
腕のいい弁護士を、三人。
三人全員に、集めた証拠を持っていった。アクセスログ。証言録。内部文書。
三人全員の答えは同じだった。
「証拠能力が極めて低い状態です。不正アクセス自体の立証が困難で、そもそも横領事件については時効が成立しています。民事でも、遠野氏本人がすでに亡くなっている以上、損害賠償請求できる当事者が……葵さんが動いたとしても、勝訴の可能性は、正直なところほぼないと言わざるをえません」
透は三人目の弁護士事務所を出たとき、夜の東京の街に立ち止まった。
十月の夜風が冷たかった。
(法は届かない)
(証拠はあるのに。真実はわかっているのに。法は届かない)
透は歩き始めた。
どこへ行くともなく、ただ歩いた。
気がつくと、毛家探偵事務所の屋根の上にいた。
よく考え事をする場所だった。
夜の東京が眼下に広がっていた。無数の灯り。無数の人間。その中のどこかに、黒沢義隆がいる。今夜も高い酒を飲んで、上等な料理を食べて、何不自由なく生きている。
(探偵とは何だ)
神崎凌として生きてきた日々が、走馬灯のように浮かんだ。
真実を暴いて、法に渡す。それが探偵の仕事だと信じてきた。
しかし法が機能しないとき。真実を暴いても、法の網が届かないとき。
探偵は、何をする。
(ただ黙って見ていろというのか)
(遠野葵が工場でおにぎりを食べている間、黒沢義隆はまた誰かを踏み潰すのか)
東京の夜風が吹いた。
透は長い時間、屋根の上に座っていた。
答えが出るまでに、三ヶ月かかった。
第三章 九十日の設計図
決意が固まったとき、透は一度だけ立ち止まった。
これは取り返しのつかない行為だ。
神崎凌としての自分の定義を、根本から覆す行為だ。
俺はずっと「人の死を悲しめる人間」でありたいと思ってきた。透はそう信じてきた。たとえ凶悪な犯人であっても、死という結末を喜ぶことはしたくなかった。
しかし。
(遠野誠は死んだ。誰にも看取られずに)
(葵は今日も笑わずにおにぎりを食べている)
(そして黒沢は、何も感じていない)
透は決めた。
決めたなら、完璧にやる。
中途半端は最悪の結果を生む。無実の誰かに罪を着せることも、証拠を残して自分が捕まることも、どちらも許容できない。
迷宮入り。それだけが、唯一許容できる結末だ。
黒沢義隆が死に、誰も裁かれず、真相は永遠に謎のままになる。
そのための計画を、透は九十日かけて組み立てた。
凶器の選定に、最初の二週間をかけた。
絞殺を選んだ。刃物は痕跡が残りすぎる。毒物は入手経路が問題になる。撲殺は証拠が多く残る。しかし絞殺も、使用した道具が残れば終わりだ。
硫黄泉の性質を徹底的に調べた。図書館で化学の専門書を十数冊読んだ。温泉化学の論文も漁った。
そして一つの事実に辿り着いた。
硫化水素を多く含む硫黄泉は、特定の合成繊維を急速に劣化させる。ポリウレタン系の弾性繊維が特に反応しやすく、高温の硫黄泉に三十分浸けると引っ張り強度が急激に低下し、その後さらに溶解が進む。
六時間後には、証拠として機能する状態ではなくなる。
透は実験した。
東京郊外の硫黄泉を持つ日帰り温泉施設に三度通い、同素材の紐を持ち込んで密かに実験を繰り返した。
理論通りだった。
施錠トリックの設計に、次の二週間をかけた。
古典的な釣り糸を使ったサムターン回しを選んだ。単純だが確実だ。
月見荘の岩風呂の間の鍵の型番を、設備業者のカタログから調べた。サムターンの形状と回転角度を確認し、どの角度から糸を引けば施錠できるかを、同型の錠前を購入して実験した。
窓のサイズも確認した。縦横三十センチ。大人は絶対に通れない。しかし透の腕なら外に出せる。
窓から腕を出し、釣り糸でサムターンを回す。できる。
体格差の克服に、最も時間をかけた。
透の体は六歳児のそれだ。黒沢義隆は五十八歳だが、体重は九十キロを超える。
しかし条件を整えれば、体格差は覆せる。
黒沢の習慣を調べた。夕食前に必ず一人で岩風呂に入る。社員旅行では毎回、部下を大広間に待たせ一人だけで入浴するという証言を、元社員から得た。
その際、必ず地酒を一本空けてから湯に浸かる。
酩酊状態。加えて、長湯による血圧低下と筋肉の弛緩。
透は毎晩、誰もいない時間を選んで、毛家探偵事務所の倉庫で練習した。
九十キロ相当の砂袋を使い、後ろから絞め上げる動作を繰り返した。
最初はうまくいかなかった。しかし三週間後、透は必要な技術を身につけた。
体格で勝てないなら、技術で補う。力学的に最も効率的な角度と体重のかけ方を計算し、体に叩き込んだ。
防犯カメラの調査は、計画の中で最も入念に行った。
三つのルートから情報を集めた。
まず旅行会社のパンフレット。月見荘の設備紹介に、防犯カメラの記述はなかった。
次に口コミサイト。数十件の宿泊客のレビューを読んだ。「プライバシーが守られている」「昔ながらの宿でカメラとか全然ない」という記述が複数あった。
最後に、直接確認した。月見荘に電話し、「大切なものを持っていくので」という口実で防犯設備について尋ねた。
女将の回答は明確だった。
「防犯カメラはお帳場と裏口だけですよ。お客様のプライバシーを大切にしておりますので、お部屋の廊下などには一切設置しておりません。ご安心ください」
岩風呂の棟は死角。
それが透の結論だった。
三ヶ月前の時点では、その結論は正しかった。
女将が言ったことは嘘ではなかった。
ただ、女将自身が知らなかっただけで。
第四章 黒沢義隆という男
月見荘にチェックインした後、透は宿内を歩き回った。
観光客の子供を装いながら、実際には調査を行っていた。
温泉の配管の位置と流れを確認した。非常口の数と場所を確認した。従業員の動線を観察した。
そして岩風呂の棟へ。
廊下の構造。ドアの位置と開き方。鍵の型番。窓枠のサイズ。窓の外の雨どいの位置と強度。
すべてが、設計図通りだった。
設備の更新が行われた形跡は、透には見えなかった。
廊下の中央部を歩きながら、天井と壁を確認した。カメラはない。
(問題ない)
透は確認を終えた。
それがすべての間違いの始まりだった。
透が見たのは、廊下の「中央部」だけだった。
廊下の突き当たり。岩風呂の間のドアのすぐ横。壁と天井が接する角の、最も目立たない場所。
そこに設置された小型カメラを、透は見ていなかった。
カメラは二ヶ月前に設置されたものだった。
月見荘の女将の娘、由紀が正月の帰省時に「最近ニュースで旅館のトラブルが多い」と心配し、息子の健介が翌月の帰省の際に設置した。市販の小型防犯カメラで、設置は三十分で終わった。
由紀も健介も、母親に「付けたよ」とだけ伝えた。
女将は「そう」と言って、そのまま忘れた。
パンフレットにも載っていない。口コミサイトに書いた宿泊客もいない。透が電話で確認した際、女将は本当のことを言っていた。
ただ、自分でも知らなかっただけで。
その事実を、透は知る由もなかった。
夕食前の廊下で、透は初めて黒沢義隆と直接すれ違った。
「だから言ったじゃないか!俺が川側でなぜ部下が山側なんだ!逆だろう、逆!女将を呼べ!今すぐ呼んでこい!」
大きな体に高級な浴衣。金の時計が廊下の灯りを反射した。脂ぎった顔に、怒りと傲慢が混ざり合った表情。
部下たちが「申し訳ございません」と頭を下げている。
透はその横をてこてこと歩いて通り過ぎた。
その瞬間だけ、透は黒沢の目を見た。
充血した、欲深い目。
自分が踏み潰してきたものの重さなど、微塵も感じていない目。
あの目が、遠野誠を見て「消えろ」と思ったのだろう。
あの目が、遠野葵の父親の人生を終わらせたのだろう。
透は前を向いて歩き続けた。
小さな拳が、浴衣の袖の中でかたく握られた。
夕食の席では、遠くの卓に座る黒沢一行を観察した。
黒沢は高らかに笑い、部下の一人の注いだ酒を飲み干し、料理に文句をつけ、また笑った。
三十年前に創業して、踏み潰してきた人間の数を、透は調べた範囲だけで数えていた。
遠野誠だけではなかった。
同じような手口で消された人間が、少なくとも三人いた。
それでもこの男は笑い続けている。
(今夜で、終わりだ)
透は箸を置き、お茶を一口飲んだ。
味は、しなかった。
第二部 実行
第五章 午後八時、月見荘の夜
夕食が終わり、宿が夜の静けさに移行し始めた。
透は時計を確認した。午後七時五十分。
計画では、黒沢は八時から八時半の間に岩風呂の間へ向かう。それが彼の社員旅行における不変のパターンだった。
透は蘭に「眠い」と言って早めに部屋に戻った。
「透くん、珍しいね。温泉入らないの?」
「もう入ったから」
「そう?無理しないでね」蘭が透の頭を撫でた。「おやすみ」
「おやすみ、蘭ねえちゃん」
部屋の引き戸が閉まった。
透は一人になった。
暗い部屋の中で、浴衣の帯を締め直し、ポケットの中身を確認した。
特殊繊維の細紐。透明な釣り糸。小さなハサミ。使い捨ての薄いゴム手袋。
すべてある。
透は目を閉じた。
(まだ引き返せる)
その声が、頭の中のどこかから聞こえた。
(今ならまだ間に合う。部屋に残って、明日の朝になれば、何事もなく帰れる)
透は目を開けた。
遠野葵の顔が浮かんだ。
工場の裏で、おにぎりを食べている、笑わない顔が。
(引き返さない)
午後八時二十分。
透は部屋を出た。
廊下は静かだった。
夜の旅館には独特の静寂がある。遠くから温泉の湯音が聞こえ、どこかの部屋からテレビの音が漏れ、あとは木造の建物がわずかに軋む音だけがする。
透は足音を殺して廊下を歩いた。
岩風呂の棟へつながる渡り廊下を渡る。
外の空気が頬に当たった。夜の山の空気は冷たく、硫黄の匂いが濃かった。
渡り廊下を抜け、岩風呂の棟の廊下へ。
角を曲がりながら、透は廊下の先を確認した。
岩風呂の間のドアが、閉まっている。
ドアの下の隙間から、薄く光が漏れていた。
中に人がいる。
透はドアに近づき、わずかな物音に耳を傾けた。
湯の音。そして、一つの呼吸音。
一人だ。
透は廊下の角に身を潜め、二分間待った。
大広間からの声が聞こえないことを確認した。部下たちは今頃、宴会の準備で忙しいはずだ。女将たちは厨房だ。五郎は自室でテレビを見ていた。蘭は大浴場に向かった。
完璧なタイミングだった。
透はゴム手袋をつけた。
細紐を右手に持った。
ドアに手をかけた。
そしてゆっくりと、音を出さずに、開けた。
第六章 岩風呂の間
湯煙が濃く流れ出してきた。
硫黄の匂いが鼻を突く。
室内は白い霧に包まれているようだった。視界が三メートルほどしか効かない。
しかし透には、それで十分だった。
地図は頭の中に入っていた。
入って左手に脱衣スペース。正面に岩風呂。右手に小窓。
岩風呂の縁に、黒沢義隆の背中が見えた。
湯船に足だけ浸け、縁に腰かけて目を閉じている。傍らには空になった地酒の瓶。首が少し前に傾いでいる。酔いが回っているのがわかった。
透は音を消して近づいた。
濡れた石の床を、小さな足が踏む。
硫黄の湯気が顔にかかる。
あと五歩。
あと三歩。
あと二歩。
細紐を両手に持ち、両端を引いて張り具合を確認する。
あと一歩。
「……誰だ」
黒沢が目を開けた。
透は動いた。
一瞬の判断で間合いを詰め、黒沢の首の後ろに回り込みながら細紐をかけた。
黒沢が「ぐっ」と声を上げた。
反射的に手を上げる。しかし酔っていて、動きが遅かった。
透は背後から、全体重を使って細紐を引いた。
足を岩風呂の縁の石に踏ん張り、腕の角度を計算した位置に固定した。
黒沢が暴れた。
予想していたより、力が残っていた。
大きな腕が空中を薙いだ。透の体を探して振り回される。一度、腕が当たった。透は吹き飛びそうになったが、細紐を離さなかった。
踏ん張った。
石の床に膝をついた。その衝撃で、膝を岩の角に強打した。
激痛が走った。思わず声が出かけた。
(出すな)
(声を出すな)
透は歯を食いしばった。
細紐を引き続けた。
黒沢の動きが、少しずつ弱くなっていった。
酩酊と長湯と、酸素の遮断が重なっていた。
やがて抵抗がなくなった。
黒沢の体が、岩風呂の縁に崩れた。
透は膝をついたまま、しばらく動けなかった。
荒い息が、湯煙の中に消えていく。
膝が痛かった。手が震えていた。
そして――予想していなかったものが、胸の底から這い上がってきた。
吐き気ではなかった。
後悔でもなかった。
ただ、深い、深い疲労だった。
三ヶ月間、ずっと張り詰めてきたものが、一気に緩んでいくような感覚だった。
(やった)
透は立ち上がった。
膝が痛んだが、構っている時間はない。
細紐を取り外した。
湯船の縁へ歩き、できるだけ深い場所を確認してから、細紐を静かに沈めた。
紐は湯の中でゆっくりと沈んでいった。
高温の硫黄泉の中で、すでに劣化が始まっているはずだ。三十分後には、証拠として機能しない状態になる。
次に、ドアの施錠だ。
透はドアのサムターンに釣り糸の一端を結びつけた。細く透明な釣り糸は、暗い室内ではほぼ見えない。
ドアを慎重に開け、糸を廊下に這わせながら外へ出た。
廊下を確認した。
誰もいない。
透は窓へ移動した。
窓枠を開け、体を外へ出した。
外は夜の山の空気だった。雨どいを掴み、体を支えながら、右腕だけを窓の内側に残した状態で体を保持する。
釣り糸を持ち、引く。
カチャリ。
サムターンが回った。
施錠された。
透は釣り糸を引き抜いた。糸を手の中で丸め、ポケットに収める。
地面に降りた。
靴の裏を確認した。石畳の模様がついているが、この宿の中庭は同じ石畳が続いている。区別はつかない。
裏口を通って廊下に戻った。
ゴム手袋を外し、ポケットに入れた。
背筋を伸ばし、普通の歩幅で廊下を歩く。
頭の中でチェックリストを確認した。
凶器は湯に沈んだ。施錠は完了した。外への脱出ルートは問題なし。手袋は回収した。
(完璧だ)
透はそう思った。
廊下の角を曲がりながら、透の目が天井の隅をかすめた。
そこに。
小型カメラのレンズが、暗い廊下の中で鈍く光っていた。
赤いランプが、静かに、点滅していた。
透の足が止まった。
一秒。
二秒。
(……カメラが、ある)
心臓が冷えた。
(なぜだ。なぜここに)
(俺は確認した。廊下にカメラはないと確認した)
(女将に直接聞いた。廊下には設置していないと言った)
(それなのに、なぜ)
三秒目に、透は歩き始めた。
表情を変えずに。
普通の速度で。
しかし頭の中では、設計図が音を立てて崩れ始めていた。
第七章 致命的な十秒間
透は部屋に戻り、一人で考えた。
カメラは廊下を映している。岩風呂の間の内部ではない。
俺が廊下を歩いた場面は映っている可能性がある。しかし犯行そのものは映っていないはずだ。
問題は、何がどこまで映っているかだ。
カメラの画角を思い出した。
廊下の突き当たり。ドアのすぐ横の壁と天井の角に設置されていた。
あの位置なら廊下全体が映る。俺が岩風呂の間に入る場面も、出てくる場面も映っているだろう。
しかし内部は映らない。犯行の瞬間は映っていないはずだ。
ならば、俺が廊下を通ったという事実だけで逮捕まで持っていけるか?
子供が好奇心でドアを開けたと言えばいい。中に大人がいたから出てきたと言えばいい。
ただし。
もう一つ、問題があった。
窓枠の外側。
透は外から腕を差し込んでサムターンを操作した。その際、窓枠の外側に浴衣の繊維が残っていないか。
内側は確認した。繊維は見えなかった。
しかし外側は確認していない。
その一点が、透の頭の中でどうしても引っかかった。
(確認しなければ)
(いや、行くな。計画にない行動はすべてリスクだ。カメラに映った事実に、事件後の再侵入が加われば致命的になる)
(しかし窓枠の外側に繊維が残っていたら、それこそ致命的だ)
透は二十分間、葛藤した。
その間に、女将の悲鳴が聞こえた。
廊下が騒がしくなった。
透は部屋を出て、様子を見に行くふりをした。
岩風呂の棟へ向かう人の流れに乗りながら、透は考えた。
(今なら自然に近づける)
(騒ぎの中に紛れれば、一瞬だけ確認できる)
透は五郎を見つけた。元刑事として、すでに現場へ向かおうとしていた。
「五郎のおじさん、おじさん!あっちの廊下に変なもの落ちてたよ?」
「なに?どこだ」
五郎が廊下へ引き返した。
透は素早く岩風呂の間の入り口に滑り込んだ。
十秒。
視線を窓枠へ走らせた。
内側。繊維片、なし。
外側を確認しようとした。しかし窓は閉まっており、外側は確認できなかった。
(外側は……)
時間切れだった。
透は出た。
「見間違いだったかも、ごめんね、おじさん」
その笑顔を、廊下のカメラが映していた。
透が岩風呂の間から出てくる場面を、カメラは確実に記録していた。
二度目の入室だった。
一度目は犯行時。
二度目は確認のための再侵入。
その二度が揃った時点で、透の「完璧な計画」は崩壊していた。
しかしその夜、透はそれを知らなかった。
第八章 眠れる探偵、最後の夜
深夜。
大広間では、地元の大沢警部が容疑者の事情聴取を進めていた。
黒沢の部下たち四人。全員がアリバイを主張し、全員が動揺していた。
密室の謎を解けない大沢警部は、毛家五郎に声をかけた。
「毛家さん、何かわかりますか」
五郎は腕を組んだ。
「密室だな。ドアは内鍵。窓は三十センチ……大人は通れない。うーむ」
透はその隣に座り、お茶を飲んでいた。
(五郎のおじさんを使うべきか)
いつもならそうした。声を変える特殊な小道具を使い、五郎の声で自分の推理を語らせた。
しかし今夜は違う。
(今夜の謎解きは……誰にもさせたくない)
この謎は、解かれてはいけない。
密室は、永遠に謎のままでいなければならない。
透は小道具に手を伸ばさなかった。
五郎が熱燗を三本飲み干し、畳の上で大鼾をかき始めた。
透はその顔を、長い間見た。
豪快で、がさつで、しかし根は真剣で、娘を深く愛している男。
いつも怒鳴られた。いつも「子供は引っ込んでろ」と言われた。
しかし守ってもらった。何度も。
(ごめんな、おじさん)
(俺が計画を完璧に実行できていれば、おじさんは何も知らなくてよかった)
(しかし、俺はカメラを見落とした)
(もし松岡という刑事が来たら、おじさんを傷つけることになる)
透は立ち上がり、縁側へ出た。
夜の山が、黒い輪郭で立っていた。
星がよく見えた。
湯煙が細く上がり、星明かりの中で白く光っている。
(綺麗だ)
透は初めて、そう思った。
三ヶ月間、この計画のことばかり考えてきた。
景色を綺麗だと思う余裕が、なかった。
(終わったんだ)
(俺のやるべきことは、終わった)
(あとは結果を待つだけだ)
透は星を見上げ、長い時間、縁側に立っていた。
第三部 発覚
第九章 カメラが見ていたもの
翌朝、午前六時。
大沢警部が防犯カメラの存在に気づいたのは、捜査員の一人が岩風呂の棟を改めて調べていたときだった。
「警部、これ……」
指を差した先に、小型カメラがあった。
廊下の突き当たり、壁と天井の角。
大沢警部は眉をひそめた。
「なんだこれは」
女将を呼んだ。
「あら……」女将は困惑した顔をした。「そういえば……息子が……」
三十分後、月見荘のWi-Fiに繋がったカメラのアプリを、女将の息子・健介がスマートフォンで操作し、映像を呼び出した。
健介は顔色が悪かった。「まさか本当に何か映ってるとは……」
大沢警部は映像を再生した。
画質は荒くなかった。市販品だったが、比較的新しいモデルで、夜間でも赤外線で撮影できた。
廊下が映っていた。
午後八時三十一分。
廊下の端から、小さな人影が歩いてくる。
子供だ。
岩風呂の間のドアに近づき、そっと手をかけ、静かに中へ入っていく。
大沢警部は映像を止め、顔を部下に向けた。
「この子供は誰だ」
「……毛家五郎の同伴者の子供です。江森透、六歳」
「六歳が……」
大沢警部は映像を再開した。
午後八時四十二分。
同じ人影が出てくる。
廊下を歩き去る。
その歩き方が、大沢警部の目を引いた。
子供の歩き方ではなかった。
目的を持った人間の、無駄のない歩き方だった。
午後九時〇七分。
再び同じ人影が来る。今度は大人の男を廊下に引き出し、岩風呂の間に入り、すぐに出てくる。
大沢警部は映像を止めた。
「……警視庁に連絡しろ」
声が、かすかに震えていた。
「捜査一課に。この映像を見てもらう必要がある」
しかしそれだけではなかった。
大沢警部が映像を精査する中で、さらに重要な事実が浮かび上がった。
カメラの画角は廊下だけでなく、岩風呂の間のドアが開いた瞬間、その内部のごく一部も映し出す角度にあった。
ドア正面ではなく、斜め方向からの画角だったため、室内全体は見えない。しかし湯煙越しに、人影の動きは確認できた。
午後八時三十一分から四十二分までの映像。
小さな人影が入室し、大きな人影に近づく場面。
湯煙で白く霞んでいたが、その動きは見えた。
大きな人影が動揺し、暴れ、やがて動かなくなる場面も。
完全に鮮明ではない。しかしそれは「何もない」とは全く異なっていた。
大沢警部は映像を何度も見た。
見るたびに、顔が青くなっていった。
「……六歳の子供が」
部下が震える声で言った。
「六歳の子供が、九十キロの男を……」
「黙れ」大沢警部は静かに言った。「余計なことを言うな。まず警視庁に連絡しろ。それだけだ」
第十章 松岡警部、来る
警視庁捜査一課の松岡警部が月見荘に到着したのは、翌朝の夜明け前だった。
午前五時十分。
山道を上ってくる車のヘッドライトが、旅館の窓から見えた。
松岡は五十代に見えた。しかし実際は四十七歳だった。二十五年の刑事生活が、顔に年輪を刻んでいた。
痩せた体。薄い唇。疲れているように見えるが、目だけが違った。
長年、人間を見てきた目だった。
嘘と本音を見分ける目だった。
松岡は大沢警部から映像を受け取り、その場で再生した。
一度だけ。
止めた。
沈黙が続いた。
「被疑者の名前を」
「江森透。六歳。毛家五郎の同伴者です」
「六歳が……」松岡はつぶやき、感情のない声で続けた。「あの動き……あれは六歳の動きではない」
「どういう意味ですか」
「そのままの意味だ」
松岡はもう一度映像を再生した。
人影が廊下を歩く場面だけを、繰り返し見た。
「目的を持って動いている。計算して動いている。感情ではなく、意志で動いている」
「それが……子供じゃないということですか」
「外見が子供だということと、中身が子供だということは、別の話だ」
松岡は立ち上がった。
「話を聞く。今すぐ」
松岡が月見荘の縁側に着いたのは、夜明け前の暗い時刻だった。
縁側に、小さな人影が一つ。
透は星を見ていた。
足音が近づいてきた。複数。
透はその足音を聞いた瞬間、何かを感じた。
普通の足音ではなかった。
音が小さい。意図的に音を消している。しかし完全には消えていない。
(刑事だ)
(警視庁の刑事だ)
(地元の警察ではない)
透は振り返らずに、もう一度星を見た。
大熊座が、山の端に沈みかけていた。
(来たか)
「江森透君だね」
松岡の声は静かだった。
透は振り返った。
二人の男が立っていた。
透は一瞬で分析した。靴の質。立ち方の角度。目の鋭さ。
(警視庁捜査一課。それも、ベテランだ)
「松岡といいます。捜査一課の。少し話を聞かせてもらえますか」
「……任意ですか」
透は言った。子供の声で。しかしその言葉は、子供が使う言葉ではなかった。
松岡の目が、わずかに動いた。
「今は、ね」
透は縁側から立ち上がった。
最後に、もう一度湯煙を見た。
山の向こうで、夜明けが始まろうとしていた。
白い煙が、まだ暗い空に消えていく。
(これで終わりか)
(いや、これで終わりにする)
「わかりました」
透は歩き始めた。
第十一章 映像という証拠
月見荘の一室。
松岡と透が、テーブルを挟んで向かい合った。
松岡の部下は廊下に出た。二人きりだった。
窓の外が、少しずつ明るくなっていった。
松岡はしばらく、何も言わなかった。
透を見ていた。
ただ、見ていた。
透もまた、松岡を見ていた。
どちらが先に口を開くか。そのわずかな均衡が、部屋の中に張り詰めていた。
松岡が動いた。
ノートパソコンを開き、透の前に向けた。
「見てもらおうか」
映像が再生された。
廊下を歩く、小さな人影。
透はその映像を見た。
(……これが、決定的だ)
一瞬で理解した。
廊下の映像。入室。退室。そして事件発覚後の再入室。
この三点が映像として記録されている。
言い訳の余地は、ほぼない。
「子供が部屋に入ったからといって……」
透は言いかけた。
最後まで言わなかった。
松岡が静かに言ったからだ。
「この映像には、続きがある」
透の体が、内側から固まった。
「岩風呂の間のドアは、開いた瞬間に廊下のカメラの画角にわずかに入る。その角度で、室内の一部が映っている。湯煙で鮮明ではない。しかし、小さな人影が大きな人影に接近する動きは、確認できる」
(……室内まで映っていた)
(ドアが開いた瞬間の、あの角度で)
(俺は……そこまで考えていなかった)
透は目を閉じた。
ドアを開けた瞬間のことを思い出した。
あのとき、ドアを完全に開けてから入った。
もし少しだけ開けて体をねじ込むように入っていたなら。
あるいはドアを開けた方向が逆だったなら。
あるいはカメラの存在を最初から知っていたなら。
(見落とし、だ)
(三ヶ月かけた計画に、三つの見落としがあった)
(二ヶ月前に設置されたカメラ)
(ドアが開いた瞬間の画角)
(窓枠の外側)
松岡が続けた。
「加えて、被害者の爪の間に皮膚片がある。あなたの膝の傷と格闘の痕跡が時間的に一致する。そして窓枠の外側に、あなたの浴衣と同じ素材の繊維が残っていた」
(外側に残っていたか)
(確認できなかった箇所だ)
「……外側の繊維は」透は静かに言った。「窓から外に出たときに付いたものです」
「そうだね」松岡は言った。「認めるんですね、窓から外に出たことを」
透は松岡を見た。
松岡の目が、静かに光っていた。
巧みな誘導だった。
繊維の説明をしようとした瞬間、自分から窓の外に出たことを認めてしまった。
(この人は、できる)
透は少し苦く笑った。
「……俺の負けです」
その声は、静かだった。
震えていなかった。
第十二章 なぜ、を問われる
松岡はパソコンを閉じた。
ファイルを脇に置いた。
それから長い沈黙があった。
窓の外が、完全に明るくなっていた。
山の向こうから朝の光が差し込み、部屋の中に薄く差してきた。
「一つ聞いていいか」
松岡が言った。
「どうぞ」
「なぜだ」
透は少しの間、窓の外を見た。
山の稜線に、湯煙が細く上がっていた。
「黒沢義隆は、十五年前に一人の誠実な人間を殺しました」
透は言った。
「法的な意味では殺していない。でも実質的に、殺した」
「遠野誠のことか」
透は松岡を見た。
「……知っていたんですか」
「今朝から調べた。君が黒沢を調べていた痕跡が、いくつかあった。そこから遡った」
透はしばらく考えた。
それから、話し始めた。
遠野誠のこと。横領の濡れ衣のこと。証拠の捏造のこと。解雇と離婚と孤独死。そして葵のこと。工場の裏でおにぎりを食べていた、笑わない顔のこと。
証拠を見つけたこと。しかし法には届かなかったこと。
三人の弁護士が、全員同じ答えを返したこと。
「それで、自分が裁くと決めた」
「……はい」
「三ヶ月、かけたんだね」
「はい」
「完璧な計画だと思っていた」
「思っていました」
「しかしカメラを見落とした」
透は答えなかった。
答える必要もなかった。
「なぜカメラに気づかなかった」
「二ヶ月前に設置されたものだったからです。三ヶ月前に調べた時点では存在しなかった。女将に直接確認もしたが、女将自身も忘れていた」
「そういうことか」松岡は静かに言った。「完璧な計画でも、変化には対応できない」
「……それが、俺の限界でした」
松岡は長い間、透を見ていた。
「後悔は」
透は一拍置いた。
「黒沢義隆を殺したことは、後悔していない」
「しかし捕まったことは」
「……毛家さんたちを傷つけることになった。それだけが、唯一の後悔です」
「自分が罰せられることについては」
「最初から、そのつもりでした」
松岡の目が、わずかに揺れた。
「どういう意味だ」
透は松岡を見た。
「計画が完璧であれば、俺は捕まらなかった。しかし完璧でなかった場合、捕まることは最初から可能性の一つとして考えていました。その場合、俺はちゃんと裁かれる。それは……理屈として、筋が通っていると思っています」
「自分が殺したのに、裁かれることが筋が通っていると思っているのか」
「正しいかどうかはわかりません。でも、筋が通っていると思っています」
松岡は長い息をついた。
「一つだけ、言っていいか」
「どうぞ」
「君は正直だ。しかし正直なことと、正しいことは、別の話だ」
透は松岡を見た。
「わかっています」
「……本当にわかっているか」
「わかっていません」透は初めて、素直に言った。「でも、それだけは正直に言えます」
松岡はしばらく沈黙した。
それから、静かに立ち上がった。
「江森透。殺人の疑いで逮捕する」
透は両手を、静かに差し出した。
小さな手だった。
しかしその手は、震えていなかった。
第四部 崩壊
第十三章 毛家五郎、号泣す
朝の廊下。
毛家五郎はトイレに行こうとして部屋を出た。
そのとき、廊下の向こうから人影が来るのを見た。
松岡警部と部下。そしてその間に、小さな人影。
透だった。
五郎は最初、寝ぼけていると思った。
目をこすった。
もう一度見た。
透が、警察の男たちに挟まれて歩いてくる。
「ちょっと待ってくれ!何をしてる!この子は……」
五郎は反射的に前に出た。
「五郎のおじさん」
透が足を止めた。
振り返った。
五郎は、その目を見た瞬間、足が止まった。
透の目が、いつもと違った。
子供の顔をしていた。しかしその目の奥に、五郎が長い刑事生活の中で何度か見たことのある光があった。
覚悟を決めた人間の目だった。
何が来ても揺らがないと決めた人間の、静かな目だった。
「今まで……ありがとうございました」
透は言った。
子供の声で。しかし完全に大人の言葉で。
「一緒にいてくれて、ありがとうございました。俺のことを何も知らないまま、ご飯を食べさせてくれて、毎日怒鳴ってくれて、危ないときに守ってくれて」
「お前……何を……」
「おじさんは知らなかったと思いますけど、ずっと俺が助けてもらってたんです。それだけは……言いたかった」
五郎の目から、涙がこぼれた。
止められなかった。
「蘭には」透の声が、そこだけわずかに揺れた。「俺が遠くに行ったとだけ、伝えてください。それだけでいいです」
「待て。待ってくれ。お前、まさか本当に……何をした。お前は何をしたんだ」
「おじさんの推理は、ずっと俺がやってました」
透は言った。
少しだけ笑って。
子供の笑顔で。しかしその目には、深い感謝と、静かな別れが宿っていた。
「声を変える道具を使って、おじさんの声で話してました。ごめんなさい」
「……何……」
「でも、おじさんのことが好きでした。本当に」
松岡が静かに透を促した。
透は歩き始めた。
小さな背中が、廊下を歩いていく。
五郎はその場から動けなかった。
透が廊下の角を曲がった。
見えなくなった。
その瞬間。
毛家五郎は廊下の壁に手をつき、声を上げて泣いた。
元警視庁刑事の、大きな体が、子供のように泣いた。
仲居が通りかかり、驚いて立ち止まった。
朝の旅館の廊下に、中年男の嗚咽が響いた。
鶯が、どこかで鳴いていた。
第十四章 蘭、すべてを知る
毛家蘭に松岡が話したのは、その朝の十時だった。
「透君は……黒沢義隆を殺害しました」
蘭は、言葉の意味を理解するまでに、しばらく時間がかかった。
頭の中で、言葉がうまく繋がらなかった。
透。殺害。黒沢義隆。
「……透くんが」
「はい」
「あの……透くんが」
「はい」
蘭はしばらく動けなかった。
椅子に座ったまま、前を見ていた。
透との日々が、浮かんでは消えた。
初めて会ったとき。透が来てからの毎日。一緒に食べたご飯。透が難しい顔をしてぼーっとしているとき。透が蘭のそばにいつもいたこと。
蘭はいつも、守るべき小さな子供だと思っていた。
しかしその子供は、ずっと……
「透くんは……本当は誰なんですか」
松岡は少し間を置いた。
「本人に聞いてください。面会できます」
蘭は俯いた。
目から涙が落ちた。
しばらくそのままでいた。
それから顔を上げた。
目は赤かった。しかし声は落ち着いていた。
「今すぐ、会いに行けますか」
「……今日の面会は難しい。手続きが必要です。数日後に」
「わかりました」
蘭は立ち上がった。
「お父さんに、伝えてきます」
廊下に出た蘭は、しかしすぐには歩けなかった。
壁に手をついて、しばらく立っていた。
(透くんは、一体何者なんだろう)
(ずっとそばにいたのに、何も知らなかった)
(いや……知っていたかもしれない)
(いつも大人みたいな目をしていた)
(いつも私より先に気づいていた)
(なぜ気づかなかったんだろう)
(気づかないふりをしていたのかもしれない)
蘭は壁から手を離し、歩き始めた。
父親の部屋に向かう廊下で、蘭はずっと泣いていた。
誰にも見えないように、俯いて、静かに。
第十五章 少年審判
家庭裁判所での審判は、二ヶ月後に行われた。
透は一人で椅子に座った。
小さな体。灰色の施設の服。丸メガネ。
どこからどう見ても、小学一年生だった。
傍聴席には松岡警部がいた。大沢警部もいた。
そして毛家蘭が、父親の五郎と並んで座っていた。
五郎は一度も透を見なかった。
ずっと前を向いたまま、目が赤かった。
裁判官は五十代の女性だった。
長い経験を持つ、落ち着いた人物だった。
透を長い間見てから、口を開いた。
「君は、自分がしたことの重大さを理解しているか」
「はい」
「後悔しているか」
透は一拍置いた。
「黒沢義隆の命を奪ったことが、正しかったとは言い切れません。でも間違いだったとも言えない。その二つが、今も俺の中にあります。どちらも本当のことです」
「後悔ではない、ということだな」
「はい。後悔という言葉が、俺には難しいです」
裁判官は静かに聞き続けた。
「一つだけ、間違いだったと思うことがあります」
「言いなさい」
「計画の失敗です」
傍聴席がわずかにざわめいた。
「カメラを見落とした。それが原因で俺は捕まり、毛家さんたちが傷ついた。それだけは……本当に申し訳なかった」
「自分が罰せられることについてではなく」
「はい。俺はどうなっても構わなかった。最初から」
裁判官はしばらく沈黙した。
「君の動機は理解できる部分がある」裁判官は静かに言った。「しかし法治国家において、個人が他者の命を奪う権限を持つことは認められない。どれほど正義に基づくと信じていても」
「わかっています」
「わかっているなら……」
「それでも、俺は後悔していません」透は言った。「わかっているのに後悔していない。それが俺の正直な答えです」
裁判官は長い沈黙の後、言った。
「少年院への収容を命じる」
透は静かに頷いた。
傍聴席で、五郎が顔を覆った。
蘭が、父親の腕を掴んだ。
第五部 贖罪
第十六章 少年院の日々
静岡県内の山間にある少年院。
透に与えられた居室は、四畳半だった。
窓は鉄格子越しに北側の山を向いていた。
入所の最初の夜、透は暗い天井を見上げながら、長い時間考えた。
(俺は間違いを犯した)
(黒沢を殺したことではなく)
(計画を完璧に実行できなかったことだ)
(違う)
(いや、本当に、それだけか)
透は目を閉じた。
遠野葵の顔が浮かんだ。
おにぎりを食べている、笑わない顔。
黒沢義隆は死んだ。しかしそれで葵の人生は変わるのか。
父親は戻らない。母親も戻らない。失われた十五年は取り戻せない。
(俺がやったことで、葵さんの何が変わった)
答えは出なかった。
施設の日課は規則正しかった。
起床六時。点呼。朝食。作業。昼食。学習。夕食。入浴。消灯。
透はすべてに黙って従った。
反抗しなかった。文句も言わなかった。
ただ、淡々と日々を過ごした。
同室の少年たちは、最初透を不思議そうに見た。
こんな小さな子が、なぜここにいるのか。
しかし話しかければ、静かに、丁寧に答える。勉強がわからなければ、わかりやすく教えてくれる。難しい顔をして本を読んでいるかと思えば、ふとした瞬間に笑う。
子供みたいに笑う。しかし目は子供ではない。
やがて少年たちは、透を「透」と呼ぶようになった。
くんもちゃんもなく、ただ「透」と。
担当指導員の高田は、四十代の寡黙な男だった。
刑事を目指して挫折し、この仕事に就いて十五年になる。
透を担当することになったとき、正直なところ戸惑いがあった。
六歳の子供。しかし態度も言葉も、全く六歳ではない。精神鑑定の結果「知的発達は成人をはるかに超える」と書かれていたが、そんな言葉では説明しきれない何かを、高田は透の目に感じていた。
ある夜、消灯後に廊下を歩いていると、透の居室に灯りが見えた。
豆電球程度の明るさだった。規則違反ではない。
そっと覗くと、透が窓際に座り、本を読んでいた。
古い探偵小説の文庫本だった。
施設の図書室にあったものだった。
高田はしばらく見ていた。
透はページをめくった。その横顔が、どこか遠くを見ているようだった。
高田は何も言わずに廊下を戻った。
翌朝、図書室に新しい推理小説を三冊補充した。
透は次の日、その本を借りた。
何も言わなかった。
高田も何も言わなかった。
第十七章 面会室にて
入所から一ヶ月後。
毛家蘭が面会に来た。
アクリル板を挟んで、二人は向かい合った。
蘭の目が赤かった。しかし透を見た瞬間、泣くまいと口元を引き締めた。
「……透くん」
「蘭ねえちゃん」
透は言った。いつもと同じ声で。
蘭は少し息を吸った。
「お父さんは?」
「来たかったって。でも泣いちゃうから来られないって。すごく格好悪いって言ってた」
透は少し笑った。「おじさんらしい」
沈黙が続いた。
「本当のことを教えて」
蘭は言った。静かに、しかしはっきりと。「透くんが誰なのか。なぜそんなことをしたのか。全部」
透はアクリル板の向こうで、少しの間考えた。
それから話した。
神崎凌のこと。薬のこと。小さな体になってからのこと。ずっと正体を隠して蘭のそばにいたこと。
声を変える道具を使って、五郎に自分の推理を語らせていたこと。
黒沢のこと。遠野誠のこと。遠野葵のこと。工場の裏のおにぎりのこと。三人の弁護士に断られたこと。
そして九十日の計画のこと。
防犯カメラを見落としたこと。
すべて話した。
蘭は途中から泣いていた。声を出さずに、涙だけ流し続けた。
透が話し終えると、蘭はしばらく黙っていた。
「……神崎凌だったの」
「ごめん。ずっと隠してた」
「馬鹿」
蘭は泣きながら言った。
「馬鹿だよ。なんで一人でそんなこと」
「一人でやるしかなかった」
「違う」蘭は首を振った。「相談してくれれば……」
「止めたでしょ」
「当たり前でしょ!」
蘭の声が面会室に響いた。
しばらく沈黙が続いた。
「……でも」蘭は静かに言った。「その人の娘さんのこと……その子の人生を考えたら。私には何も言えない」
「俺にも、わからなくなってきた」
透は初めて、そう言った。
「わからなくなってきた。でも……あの岩風呂の中で俺が感じたことは、本物だった。それだけは確かだ」
蘭はアクリル板に手を当てた。
透も、小さな手を当てた。
板越しに、二人の手が重なった。
「絶対に迎えに来る」
蘭は言った。
「私が。必ず」
透は何も言わなかった。
しかしその目が、少しだけ和らいだ。
入所から三ヶ月後。
見知らぬ女性が面会に来た。
くたびれた様子だったが、目は真剣だった。
アクリル板の向こうに座ったとき、透はすぐに誰だかわかった。
「……遠野葵さんですか」
女性は少し驚いた顔をした。
「知ってたんですか」
「写真で見たことがあります」
葵は少しの間、透を見た。
「……小さいんですね」
「見た目はそうです」
「私、先月まで、あなたのことを知らなかったんです。松岡という刑事さんが来て、話してくれるまで。父のことも、黒沢という人のことも、全部」
透は黙って聞いた。
「父が何をされていたか、子供だったから知らなかった。母からも聞かされなかった。ただ父が悪いことをして、家族がバラバラになったんだと……ずっとそう思ってた」
葵の目が赤くなった。
「十五年間……ずっと、父のことを恨んでいました」
透は何も言わなかった。
「あなたのせいで……あなたのせいで、本当のことを知りました」
葵は泣いていた。
「ありがとうと言うべきか、なぜそんなことをしたと怒るべきか、わからない。ただ……来ずにはいられなかった」
透はしばらく黙っていた。
それから、静かに言った。
「俺は……あなたに会ってもらうつもりはなかったです。あなたを救おうとしてやったわけではない。それは正直に言います」
葵は顔を上げた。
「俺がやったのは……遠野誠という人が、不当に死んだことへの怒りです。あなたのことも考えていたけれど、あなたを助けたかったわけじゃない。自分の怒りのためにやった。それだけは、誤魔化したくない」
葵はしばらく、透を見ていた。
それから、泣きながら、小さく笑った。
「……正直な人ですね」
「そう言われます」
「父も、正直な人でした」
二人は黙って、しばらく向かい合っていた。
「また来ていいですか」
葵が言った。
透は少し考えた。
「……はい」
第十八章 松岡警部、再び
入所から半年後。
松岡が一人で面会に来た。
「元気か」
「まあまあです」
「読書は続けているか」
「推理小説から法律の本に変わりました。指導員が差し入れてくれて」
松岡は少し目を細めた。
「一つ、伝えに来た」
透は松岡を見た。
「遠野誠の件。私が独自に動いた」
「……どういうことですか」
「君が見つけたアクセスログを起点に、私が独自に動いた。当時の黒沢の協力者、元システム管理者を特定した。その男は今、別の詐欺事件で調べられていた。取引材料として、黒沢の件を自供した」
透の目が、わずかに変わった。
「それで……」
「黒沢義隆が十五年前に何をしたか、公的な記録に残った。裁判にはならない。証拠能力の問題と、黒沢はすでに死んでいる。しかし記録は残った」
透は窓の外を見た。
山の稜線に、細く湯煙が上がっていた。
「遠野葵さんは」
「知らせた。弁護士と相談している。民事での損害賠償は難しい。しかし父親の無実が、記録として存在することになった」
透は目を閉じた。
しばらくそのままでいた。
それから目を開けた。
「……松岡さんは、なぜ動いたんですか」
「俺の仕事だ」
「でも君の行為が動機だろうという追及になる可能性もあった」
「そうだな」松岡は静かに言った。「しかし、間違いは間違いで、真実は真実だ。君が間違った手段を使ったことと、遠野誠が不当に死んだことは、別の話だ」
透はしばらく、松岡を見ていた。
「……ありがとうございます」
「礼は要らない。俺の仕事だと言った」
沈黙が続いた。
「一つだけ聞いていいですか」
「なんだ」
「あの朝、縁側で俺の目を見たとき。その時点で、何か感じましたか」
松岡は少し考えた。
「感じた」
「何を」
「覚悟、だ」
透は松岡を見た。
「逃げ場を探す人間の目ではなかった。追い詰められた人間の目でもなかった。もう揺らがないと決めた人間の目だった。それだけで、俺には十分だった」
「……計画を完璧に実行できていれば」透は静かに言った。「その目も、見せなかったかもしれない」
「そうかもしれない」松岡は言った。「しかし、透。人間の目は計画で消せない。それを覚えておけ」
透はしばらく、その言葉を反芻した。
「出た後、どうするつもりだ」
「探偵に戻ります」
「また人を殺さない、探偵に」
「……それだけは、約束できます」
松岡は立ち上がった。
扉に向かいながら、一度だけ振り返った。
「君が見落としたのは、カメラだけじゃない」
透は松岡を見た。
「人間には、計画通りに動けない部分がある。縁側で夜明けを待っていたあの時間。あれは計画の一部か?」
透は答えなかった。
「計画通りにやり遂げた後、人間は必ず、どこかに感情の痕跡を残す。それが目に出る。足取りに出る。呼吸に出る。完璧な犯罪というものは、完璧な人間にしか実行できない。しかし完璧な人間は、そもそも人を殺さない」
扉が閉まった。
透は一人になった。
松岡の最後の言葉が、部屋の中に残っていた。
(完璧な犯罪は、完璧な人間にしか実行できない)
(しかし完璧な人間は、そもそも人を殺さない)
透は窓の外を見た。
湯煙が白く、山の空へ消えていく。
(俺は……完璧ではなかった)
(それは欠点だったのか)
(それとも……)
答えは、まだ出ていなかった。
終章 湯煙の向こうへ
第十九章 少年、窓辺に立つ
一年後の春。
少年院の小さな窓から、山の稜線が見える。
晴れた日には、山の向こうから白い煙が立ち上るのが見える。
温泉の湯煙だ。月見荘のものかどうかはわからない。しかし透はいつも、あれが月見荘の湯煙だと思うことにしていた。
思うことにしていた、というより、そう思いたかった。
施設の日課は変わらない。
起床。点呼。食事。作業。学習。消灯。
透はその繰り返しの中で、毎日、考え続けた。
三ヶ月かけた計画が、たった三つの見落としで崩れた。
二ヶ月前に設置されたカメラ。
ドアが開いた瞬間の画角。
窓枠の外側。
しかし松岡は言った。それだけじゃない、と。
(人間には、計画通りに動けない部分がある)
縁側で夜明けを待っていたあの時間。
あれは計画の外だった。
計画では、犯行後はすぐに部屋に戻り、何事もなかったように眠るはずだった。
しかし透は縁側に出た。
星を見た。湯煙を見た。
なぜ、そうしたのか。
透は長い間、その問いと向き合ってきた。
答えは一つしかなかった。
(俺は……一人でいたくなかったんだ)
計画の重さを、一人で背負ってきた九十日間。
誰にも言えなかった。誰にも頼れなかった。
蘭に「最近元気ない?」と言われるたびに、「なんでもない」と言い続けた。
その重さが、犯行後に一人の時間を求めさせた。
部屋に閉じこもるのではなく、外の空気の中で、星と湯煙の下で、一人で座っていたかった。
それが、命取りになった。
(計画の失敗は、俺の弱さだった)
(しかし)
透は窓の外を見た。
今日の湯煙は太い。よく晴れた日で、温泉が盛んに沸いているのかもしれない。
(その弱さがなければ、俺はどんな人間だったんだろう)
完璧に計画を実行し、完璧に証拠を消し、完璧に部屋に戻って眠る。
そんな人間が、本当に自分だったのか。
(……違う)
(俺は、完璧な人間ではなかった)
(だから縁側に出た)
(だから星を見た)
(だから捕まった)
(しかし――)
透は目を閉じた。
遠野葵の顔が浮かんだ。
おにぎりを食べていた顔ではなく、面会室で初めて見た顔。
泣きながら、笑っていた顔。
「正直な人ですね」と言ってくれた顔。
(葵さんは今、何をしているだろう)
(父親の無実が記録に残ったことで、何かが変わっただろうか)
(俺には、もう確認する方法がない)
(しかし、松岡さんが動いた)
(それは、俺がいなければ起きなかったことだ)
(俺の計画の失敗が、松岡さんに事件を知らせた)
(そして松岡さんが、真実を記録に残した)
(完璧な犯罪が成功していたなら……松岡さんは動かなかったかもしれない)
透は目を開けた。
窓の外で、湯煙が流れていた。
(俺の見落としが、結果として……)
(いや、それは都合のいい解釈だ)
(俺は計画の失敗を正当化したいだけかもしれない)
(わからない)
(まだ、わからない)
「透、面会だぞ」
廊下から高田の声がした。
透は本を置いて立ち上がった。
蘭だろうか。毎月欠かさず来る。
それとも葵かもしれない。最近は月に一度来るようになった。先月は「弁護士と相談してみる」と言っていた。
あるいは五郎のおじさんかもしれない。来るたびに泣いて、差し入れに好物の弁当を持ってくる。規則で受け取れないのに、毎回持ってくる。
透は扉を開けた。
廊下に春の光が差し込んでいた。
小さな少年が、背筋を伸ばして歩いていく。
灰色の服。丸メガネ。
その目だけが、遠くを、真っすぐに見ていた。
湯煙は今日も白く、空へ消えていく。
すべてを知るつもりだった少年が、まだ知らないものと向き合いながら、静かに廊下を歩いていった。
完璧だと思っていた。
しかし人間は、完璧ではなかった。
それが、この物語の終わりであり、始まりだった。
〔完〕
登場人物
江森 透――主人公。小学一年生ほどの外見を持つ少年。しかし実際は十七歳の高校生探偵・神崎 凌が、ある事件で飲まされた薬により幼児化した姿。鋭い観察眼と論理的思考力を持つ。
毛家 五郎――元刑事の私立探偵。大柄で豪快、酒好き。透の保護者代わりとなっている。推理は実は透がほぼすべてやっている。
毛家 蘭――五郎の娘。十七歳。透を弟のようにかわいがっている。
松岡 警部――警視庁捜査一課のベテラン刑事。鋭い観察眼を持つ。
黒沢 義隆――不動産会社「黒沢興産」代表取締役。五十八歳。傲慢で強欲な男。
遠野 誠――十五年前に黒沢に陥れられた、かつての経理部長。故人。
遠野 葵――誠の娘。二十二歳。工場で働いている。
高田――少年院の担当指導員。寡黙だが誠実な男。




