12.悪魔の囁き
──広く無機質な部屋。空間の境界線が何処にあるのかが分からない錯覚を覚える「箱」の中、赤い炎が怪しく揺らぎ、パチパチと小さな音だけが静寂を切り裂く中、男は愉しそうに笑っていた。
「ふーーん。知ってて俺に黙っていたってことか。血かねえ」
側にあったガラスコップに、燃え尽き黒くなった紙を入れ、そのまま壁に向かって投げつける。
飛び散る破片に怪しくニヤリと微笑み、部屋を後にした。
静かな何も無い部屋の片隅に無造作に置かれた、この部屋には似つかわしくない「うさぎのぬいぐるみ」が、淋しそうに男を見ているようだった。
◇
「エミリア、まさかとは思うけど、これどうするつもりなのよ?」
マーゴは一応聞いてみた。予想と違う答えに一縷の期待を持って。
「陛下の今日のおやつですよ? マーゴさんの分もありますよ。可愛いでしょう?」
でしょうね。聞いた私が馬鹿でした。っておやつをミーシャが食べるわけないだろう。
「陛下がおやつをって言ったの? エミリア?」
「あ、パンを私が……それで取りに行こうとしたら、要らないって言われちゃって。それで、おやつを提案したんです」
うん。大丈夫落ち着け。深呼吸だ私。この状況にも慣れてきたぞ。
マーゴは大きく深呼吸をした。
最近この娘といたら、ミーシャの方が可愛く見えるのは不思議だわ。
マーゴは目の前に並ぶウサギやクマの焼き菓子が、楽しそうな娘の手により籠に詰められていく光景を目の当たりにして、不安よりも恐怖を感じていた。
あの男がコレを口にする姿を想像すると、最早それは拷問でしかない。そもそもミーシャがコレを食べる訳がない……
あの動物のパンどうなったんだろ……怖くて聞いてないけれどそう言えば。
マーゴはふと思い出したが、それを口にすることが怖くてやめた。
まさかとは思うけど、ナイフで切り刻んだりしてないよなぁ……
一瞬、笑いながら切り刻む姿が脳裏に浮かび、マーゴは背筋に冷たいものを感じた。
「ないない。うん。大丈夫!」
「え? 何ですか? 何が大丈夫なんですか?」
「あ、いや? 気にしないで。ほら早く行かないと?」
「そうですね、いざ出陣です!」
「う、うん……」
考えるな。何も考えまい。うん心を無にして。
マーゴは長い廊下を歩きながら、呪文のように頭の中で唱えていた。
◇
「着いたけど本当に一人で大丈夫? エミリア?」
マーゴは心配そうに、エミリアの顔を覗き込む。いくらミーシャ自身が呼んだと言っても、相手はあのミーシャだ。何が待っているかは分からない。そんな危険なところに、エミリア一人を行かすだなんて。
「マーゴさん! ありがとうございます! 本当にマーゴさんって良い人ですよねぇ。私マーゴさんとお友達になれて良かったです!」
お、お友達? ま、まぁいいけど。お友達ってあんた男爵家の令嬢でしょうに……
「う、うん。じゃあ行くよ? エミリア。付いていらっしゃい!」
「おーー!」
「失礼します入って良いですか? 陛下?」
「ちょ、エミリア。いきなり?」
この娘のこの度胸は何処から? あ、度胸ではなく気にしてないのかも……
「あ、マーゴさん。やっぱりいきなりは駄目でしょうかねぇ? ノックしましょうか? どうしましょう……」
どうしましょう。と言われても、私も流石にこの経験は無いので分からない。
「とりあえず、ノックして入りますって伝えてみる?」
「では、そうしましょう」
うん、もう分からん。どれが正解か。
意外とこの娘が正攻法なのかも? と、思えてきた自分にちょっと私も驚いた。
──トントントン
「陛下入りますよ~~」
凄いわアンタ。尊敬しかないわ。
「じゃぁ、私はここで待ってるからね?」
「え? マーゴさんまた待っていてくれるんですか? 有り難うございます!!」
「お邪魔しますよぉ~~」
──ガチャリ
あら? 陛下は何方に?
いらっしゃらない? のかしら?
「キャッ!」
「エミリア! どうしたの? 何が?!」
エミリアの声がして思わず私は部屋に入ってしまった。
「あ? 何だお前ら?」
「ちょ、ミーシャ。服ぐらいちゃんと着なさいよ!」
マーゴは急いでエミリアの前に立ちはだかった。私室だと本当に危険だわ、この男。もう当時の子供じゃないってことに自覚あるのかしら?
「って。何よこれ……」
マーゴは割れたグラスの破片を見て呆気に取られていた。
何やってんのよ。変な儀式とかするつもりじゃないわよねぇ……
「あら、陛下大変。髪がまだ濡れてらっしゃるじゃないですか!」
ええええ? アンタそこ? 上半身何も着ていない男見て驚かないの? しかもガラス辺が飛び散っているのよ? 何でそっちなのよ!
「マーゴに、入っていいって許可してないが?」
目の前の男は、こともあろうか笑いながら私に言う。
最悪だ……
まぁ救いなのはウチのうさぎちゃんは、狼に全く興味が無さそうなんですけどね。
「ミーシャ。いくら貴方が皇帝だろうが許さないからね。エミリアに酷いことしたら。その時は本気で私はアンタを殺してやるから!」
マーゴは目の前の男を何年か振りに直視し、久しぶりに睨んだ。
「あ? なに訳のわからないことを放いている。そんなに暇なのか?」
男は、必死で自分に熱い視線を向ける女を見下ろしながら、蔑むように嘲笑う。
「陛下? 駄目ですよ? マーゴさんは陛下を心配して言ってくれたのですからね?」
エミリアは少し頬を膨らませ、怒った顔をしながら男を睨んだ。
「幼女趣味はないから安心しろ。お前の大事なコンラッドと一緒にするなマーゴ。ハハハッ」
目の前の男は愉快そうに珍しく声を上げて笑う。
だが、その笑いは心から笑っている感じではなく、どこまでも蔑み見下したような笑い方だった。
マーゴは笑われたことよりも、その前に言われた彼の言葉に恥ずかしさと、居心地の悪さを感じていた。
自分でもよく分からない感情。だからと言ってそれを確認することへの怖さ。
確認することで、今の関係が壊れてしまうかも? と、ずっとそれに向かい合うことを敢えて避けてきたと言うのに。
まさかこの男に言われるとは……
「何なら協力してやろうか? お望み通りに?」
立ち去ろうとした瞬間だった。
耳元で甘く、脳裏に痺れるような声で妖しく囁いてきた。
そしてその目はエミリアを舐めるように見ている。
この男……
全く考えなかったと言えば嘘になる。
だからと言って、誰かを不幸にして良いはずなんてない……
自然と私は俯いていた。
「素直じゃないねぇ。また指くわえて見ているだけか。あいつ見習えよ? 手に入らないなら殺してでもってぐらいな」
「え? あんたそれ知って……」
全てを言う前に妖艶な、いや悪魔の微笑とも言える背筋が氷つくような笑顔を一瞬見せ、直ぐに背を向けて行った。
割れたガラスコップの破片を集めながら、マーゴはぼんやりしていた。
「イタッ」
ぼんやりしていたせいでガラスの破片で切った自分の指から流れる血を見ながら、マーゴは向こうで楽しそうに準備をしている娘の背を見つめる。
──この子さえ現れなければ……
「ハッ。何馬鹿なこと考えているの」
マーゴは咄嗟に脳裏に出た自分の言葉に驚き、走り去った。




