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『泡沫の日ごと』――雨の日だけ、君は僕のそばにいた  作者: 疾風


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8/8

8.泡沫の日ごと

目を覚ましたとき、

 窓の外は静かだった。


 雨の音は、聞こえない。


 カーテン越しの光は柔らかく、

 まるで何事もなかった朝みたいに、世界は整っていた。


 天井を見つめながら、僕はゆっくりと瞬きをする。


 頭は、驚くほど静かだった。


 痛みも、混乱も、ない。

ただ——


 胸の奥に、小さな空白があった。


 何かを失ったことだけは分かるのに、

 それが何だったのかは、どうしても思い出せない。


 病室の匂い。

 点滴の音。

 カレンダーの端に書かれた、今日の日付。


 そして、窓辺の椅子。


 そこに、ひとりの少女が座っていた。


 制服ではなく、私服だった。

少し伸びた髪。

 どこか大人びた横顔。


 僕が目を覚ましたことに気づくと、

 彼女は、静かに立ち上がった。


 「……おはよう」


 その声を聞いた瞬間、

 胸の奥が、微かに揺れた。


 理由は分からない。


 ただ、懐かしい。


 「おはよう……ございます」


 そう返してから、少し戸惑う。

どうして敬語なんだろう。


 彼女は、くすっと小さく笑った。


 「やっぱり、そう言うんだね」


 「え……?」


 「ううん。なんでもない」


 沈黙が落ちる。


 気まずいはずなのに、

 不思議と落ち着く空気だった。


 「……知り合い、ですか?」

僕がそう尋ねると、

 彼女は一瞬だけ目を伏せた。


 そして、ゆっくりと首を振る。


 「ううん」


 否定だった。


 けれど、悲しそうではなかった。


 「ただの……昔の友達」


 “昔”という言葉が、

 胸の奥で小さく波紋を広げる。


 「名前、聞いてもいいですか」


 彼女は、少し迷ってから答えた。

「澪」


 その瞬間。


 心臓が、わずかに跳ねた。


 でも、すぐに静まる。


 それ以上、何も起こらなかった。


 「……いい名前ですね」


 それが、僕の精一杯だった。


 澪は、どこか安心したように微笑った。


 「ありがとう」


 それから、窓の外を見る。


 空は、薄く曇っている。

今にも雨が降りそうで、

 それでも、まだ降らない。


 「今日、退院だよ」


 彼女はそう言った。


 「迎え、来てくれてる人もいる」


 「そうなんですね」


 自分のことなのに、どこか他人事だった。


 身支度を整えて、病院の外へ出る。


 空気は少し湿っている。


 懐かしい匂いがした。


 理由は分からないけれど。

玄関の前で、澪は立ち止まった。


 「……想くん」


 呼ばれた瞬間、胸が強く鳴った。


 「はい」


 自然に返事をしていた。


 彼女は、少し驚いたように目を見開いて、

 それから、泣きそうに笑った。


 「やっぱり」

「……?」


 「なんでもない」


 風が吹く。


 雲がゆっくりと動き、

 空から、一滴の雨が落ちた。


 それは、とても小さな雨だった。


 すぐに止んでしまいそうな、

 泡沫みたいな雨。


 その一粒が頬に触れたとき、

 胸の奥で、名前にならない感情が生まれた。


 理由も、記憶も、ない。

それでも。


 この人と、同じ空を見ていたいと思った。


 「……あの」


 気づけば、口が動いていた。


 「もしよかったら」


 澪が、こちらを見る。


 「また……会えませんか」


 彼女は、一瞬だけ目を閉じた。


 それから、静かに頷く。

「うん」


 「今度は、晴れの日に」


 雨は、それ以上降らなかった。


 でも確かに、そこにあった。


 触れたら消えてしまうほどの、

 かすかな想いとして。


 記憶は、泡のように消えていく。


 それでも、人はまた誰かを好きになる。

 忘れてしまうからこそ、

 今日という一日は、こんなにも眩しい。


 ——泡沫の日ごと。


 それは、失われ続ける時間の中で、

 それでも確かに残る、ひとつの温度だった。


 

読んでくださりありがとうございます。

初めて書いた小説が一人でも多くの方の心に

届いていたら嬉しく思います。


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