7.最後の雨
その日は、朝から空が重かった。
雲が低く垂れ込めて、
今にも泣き出しそうなのに、まだ降らない。
まるで、決断の瞬間を待っているみたいだった。
胸の奥が、ずっとざわついている。
昨日、澪が言った言葉が、何度も頭を巡る。
——思い出したら、私はそばにいられなくなる。
それでも。
その日の放課後、僕は歩き出していた。
足が向かったのは、
記憶の断片の中に何度も現れた場所。
駅前の、小さな歩道橋。
夜になると、街灯の光が雨に滲む場所。
理由なんてなかった。
ただ、そこに行かなければならない気がした。
階段を上りきった瞬間、
最初の一滴が頬に落ちた。
——来た。
遅すぎるほど遅く、
でも確かに、それは降り始めた。
雨はすぐに強さを増していく。
傘を持っていないのに、
不思議と、濡れることが怖くなかった。
歩道橋の中央に、澪がいた。
制服のまま、傘も差さずに。
髪も肩も、すでに濡れている。
「……来ちゃったんだね」
彼女は、そう言って微笑った。
泣きそうな顔で。
「澪」
名前を呼ぶだけで、胸が痛む。
「ここ、覚えてる?」
問いかけられた瞬間、
頭の奥で、何かが強く軋んだ。
雨音が、遠ざかる。
代わりに、別の雨が聞こえた。
——過去の雨。
同じ場所。
同じ匂い。
同じ夜。
「……覚えて、ないはずなのに」
言葉が、勝手にこぼれる。
「ここに来ると、胸が苦しくなる」
澪は、静かに頷いた。
「うん。ここは……何度も、最後になった場所だから」
心臓が、強く跳ねた。
「最後……?」
「うん」
彼女は、雨に打たれながら言う。
「想くんが、思い出してしまった夜」
「そのたびに、ここで同じことを言った」
街灯の光が、雨粒を金色に染める。
「『ごめん』って」
「『もう一度、忘れる』って」
胸の奥で、何かが悲鳴を上げた。
「……そんなこと、言うはずない」
震える声でそう言うと、
澪は首を振った。
「言ったよ」
「私の手を握って、泣きながら」
彼女は一歩、近づいた。
雨の向こうで、輪郭が揺れる。
「でもね。今日は、違う」
「今日の想くんは……まだ、全部を思い出してない」
「だから、選べる」
選ぶ。
その言葉が、重く胸に落ちる。
雨が、さらに強くなる。
視界が滲み、
頭の奥で何かがほどけていく。
「……澪」
呼んだ瞬間。
胸の奥から、洪水みたいに記憶が溢れ出した。
傘の下で笑ったこと。
同じイヤホンを分け合った帰り道。
名前を呼ぶたび、少し照れた顔。
そして——
眠れなくなった夜。
何度も見る悪夢。
澪を守れない自分への恐怖。
「……あ……」
膝が崩れそうになる。
澪が、慌てて支えた。
「だめ……!」
彼女の声が遠い。
「思い出しすぎないで……!」
でも、止まらなかった。
記憶は戻るほど、痛みを連れてくる。
愛していたぶんだけ、
壊れていった自分が、はっきりと見えた。
「……そうか」
ようやく、理解した。
僕は、澪を失う恐怖に耐えられなくて、
自分を壊していたんだ。
守るために、忘れた。
それでもまた、
同じ場所に戻ってきてしまった。
「想……」
澪が、僕の名前を呼ぶ。
その声で、最後の記憶が繋がった。
——この雨が、最後になる。
そう、何度も知っていた。
「……ごめん」
思わず、口をついて出た。
澪の目が、見開かれる。
「それ、言わないで」
必死な声だった。
「今日は……今日は、違うって言って」
雨が、二人を叩き続ける。
僕は、震える息のまま、彼女を見た。
「……澪」
ゆっくりと、言葉を選ぶ。
「もし、全部を思い出したまま……壊れてしまうなら」
「それでも、君を忘れないほうを選ぶ」
彼女の瞳から、涙がこぼれた。
雨と混ざって、どちらか分からなくなる。
「それは……」
「君を、忘れない」
その言葉を口にした瞬間、
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。
雨音が、遠くなる。
視界が、白く滲む。
最後に見えたのは、
泣きながら微笑う澪の顔だった。
「……ありがとう」
その声を聞いて、
僕の意識は、静かに沈んでいった。
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次回更新:明日19時半予定です。




