6.思い出す代償
その違和感は、前触れもなく訪れた。
雨の日でもないのに、
胸の奥が、ひどく痛んだ。
放課後の帰り道。
澪と別れたあと、ひとりで歩いていると、
突然、視界が揺れた。
耳鳴り。
足元が遠のく感覚。
まるで、頭の奥で誰かが、
強引に扉をこじ開けようとしているみたいだった。
「……っ」
電柱に手をついて、なんとか立ち止まる。
息が、うまく吸えない。
そのとき。
頭の中に、聞き覚えのある声が響いた。
――思い出す覚悟は、あるか。
低く、静かな声。
でもそれは、他人のものじゃない。
……僕の声だった。
「なんだよ……これ……」
混乱する意識の中で、
視界の端に、見覚えのないはずの場所が浮かぶ。
雨の匂い。
濡れたアスファルト。
夜の駅前。
そして——
泣いている澪。
「……やめろ」
そう思ったのに、映像は止まらなかった。
彼女は、僕の胸元を掴んでいた。
必死に、震えながら。
「お願い……もう、忘れないで……」
その声が、胸をえぐる。
「忘れたら、また……また、最初からになっちゃう……」
次の瞬間、
映像の中の“僕”が、澪を抱きしめた。
強く。
壊れないように。
「分かってる」
その声は、優しくて、苦しそうだった。
「だから、選ぶ」
——選ぶ?
「思い出すたびに、俺はお前を苦しめる」
「記憶が戻るたび、同じ未来に辿り着く」
「なら……」
雨音が、強くなる。
「忘れたほうがいい」
その言葉を聞いた瞬間、
心臓が締めつけられた。
「……っ」
視界が戻る。
現実の道路に、立ち尽くす自分。
呼吸は荒く、
額には冷たい汗が滲んでいた。
——忘れたほうがいい。
その言葉が、頭から離れない。
僕は、何を知っていたんだ。
何を、選んだんだ。
その答えは、
澪の言葉によって、形を持った。
翌日。
昼休みの屋上。
風が強く、雲が低かった。
「想くん……最近、頭痛してない?」
澪は、そう切り出した。
「……してる」
正直に答えると、
彼女は、やっぱり、という顔をした。
「思い出しかけてるんだね」
逃げ場のない声だった。
「澪……僕は、何を忘れた?」
しばらく、沈黙。
風の音だけが、二人の間を流れる。
やがて、澪は言った。
「想くんはね……」
言葉を探すように、ゆっくりと。
「私を、守るために忘れたの」
胸が、強く鳴った。
「思い出すたびに、想くんは壊れていった」
「眠れなくなって、笑えなくなって……」
「最後は、自分の存在まで、分からなくなってた」
彼女の声は、震えていた。
「だから、ある日……自分で決めたの」
——“記憶を手放す”と。
医師の言葉も、選択肢も、
全部知ったうえで。
「思い出せば戻る」
「でも、その代償として……」
澪は、唇を噛んだ。
「また、同じように壊れていく」
風が、強く吹いた。
雲の隙間から、光が落ちる。
「それでも、思い出したい?」
澪の問いは、静かだった。
でも、逃げ場はなかった。
「思い出したら……澪と、どうなる?」
彼女は、少しだけ笑った。
それは、あまりにも優しい笑顔だった。
「きっとまた、同じ結末」
「想くんが、全部を背負って」
「私だけ、置いていく」
胸が、締めつけられる。
思い出すということは、
過去を取り戻すことじゃない。
“同じ痛みを、もう一度引き受ける”ことだった。
「……だから私は、雨の日だけでいいって言った」
「全部を思い出さないまま、少しだけ一緒にいられる時間」
それが、彼女の選んだ、唯一の形。
空が、暗くなる。
けれど、雨はまだ降らない。
「想くん」
澪は、静かに言った。
「もし、完全に思い出したら……」
少しだけ、声が震えた。
「私は、あなたのそばにいられなくなる」
その言葉が、胸に深く刺さった。
記憶を取るか。
今を取るか。
その選択が、
もうすぐそこまで迫っていると、はっきり分かった。
読んでくださりありがとうございます。
物語はいよいよ終盤に入ります。
次回更新:19時半予定です。




