5.雨が降らなかった日
その日は、雨が降るはずだった。
天気予報では、朝からずっとそう言っていた。
降水確率は八十パーセント。
傘を持っていないほうが不思議なくらいの数字。
だから僕は、朝から落ち着かなかった。
今日は、澪と話せる日だと思っていた。
雨が降れば、あの距離に戻れる。
傘の下で、少しだけ本当の彼女に近づける。
そう、信じていた。
なのに。
昼を過ぎても、空は崩れなかった。
雲は厚いのに、光だけが残っている。
まるで、降ることをためらっているみたいに。
教室の窓際。
澪は、空を何度も見上げていた。
その横顔は、どこか不安そうで、
同時に、覚悟を決めているようにも見えた。
チャイムが鳴る。
放課後。
それでも雨は、来なかった。
校舎を出ると、風だけが冷たい。
地面は乾いたまま。
空気に、あの匂いがない。
——違う。
何かが、いつもと違う。
昇降口で、澪が立ち止まった。
傘を持っている。
でも、それは開かれることはなかった。
「……降らなかったね」
澪が言った。
その声は、静かすぎた。
「うん」
それ以上、言葉が続かない。
本来なら、ここで別れるはずだった。
晴れの日は、距離を取る。
それが、彼女のルールだったから。
なのに。
澪は、逃げなかった。
その場に立ったまま、僕のほうを見ている。
「想くん」
呼ばれるだけで、胸がざわつく。
「今日は……話してもいい?」
喉が、ひどく乾いた。
「雨、降ってないけど」
彼女は小さく笑った。
それは、諦めに近い笑顔だった。
「だからこそ、かもしれない」
歩き出したのは、澪のほうだった。
僕も、黙って後を追う。
帰り道。
いつもなら、ここで傘が開く。
けれど今日は、ただ並んで歩くだけ。
距離は近いのに、
傘という境界がないぶん、逆に不安定だった。
「ねえ、想くん」
澪が言う。
「雨の日の私と、晴れの日の私……どっちが好き?」
突然すぎる質問に、言葉を失う。
「そんなの……」
「いいから」
彼女は、前を見たまま言った。
「答えて」
胸の奥で、何かがきしむ。
「……どっちも、だと思う」
正直な気持ちだった。
澪は、ふっと息を吐いた。
「そうだよね」
それから、立ち止まる。
夕焼けが、二人をオレンジ色に染めていた。
「それが、いちばん残酷なんだ」
「え……?」
彼女は、まっすぐ僕を見た。
逃げ場のない目で。
「雨の日の私は、思い出に近い」
「晴れの日の私は、ただの今」
「でも想くんは、どっちも同じ顔で見る」
その言葉に、胸が締めつけられる。
「だから、私は……」
澪は、ぎゅっと唇を噛んだ。
「今日は、約束を破ることにした」
約束。
その言葉に、心臓が跳ねる。
「話していい日じゃないのに、話す」
「近づいちゃいけないのに、近づく」
彼女は一歩、前に出た。
指先が、触れそうな距離。
「だって、雨を待ってたら」
声が震える。
「いつまで経っても、今の想くんに、ちゃんと会えないから」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
「澪……」
名前を呼ぶと、彼女は一度だけ目を閉じた。
そして、静かに言った。
「思い出さなくてもいい」
「忘れたままでもいい」
「それでも……」
夕焼けの中で、彼女は微笑んだ。
泣きそうな顔で。
「今のあなたが、私を好きになってくれるなら、それでいい」
言葉が、胸に深く沈んだ。
雨は、降らなかった。
でもその日、
僕の中で、確かに何かが始まってしまった。
思い出とは関係のない、
“今”だけの感情が。
それが、どんな未来につながるのか。
まだ、分からなかったけれど。
少なくともこの瞬間だけは、
空が、少しだけ優しく見えた。
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