3,傘の下、名前を呼ぶ
午後から雨が降るらしい。
朝の天気予報でそう言っていた。
それだけで、胸の奥がざわついた。
昨日、澪は言っていた。
——雨の日だけでいいの。
その言葉が、何度も頭の中で反芻される。
晴れた空の下では、彼女は遠くて、
僕は“初めまして”のままだ。
それなら。
雨が降ったら、僕たちは少し近づけるのだろうか。
授業中、窓の外を何度も見てしまう。
雲は少しずつ厚みを増し、
光が鈍くなっていく。
まるで、世界が息をひそめるみたいに。
放課後。
最初の一滴が窓を叩いたとき、
胸が、はっきりと音を立てた。
——来た。
帰り支度をする教室のざわめきの中で、
僕は澪のほうを見る。
彼女も、同じように窓を見ていた。
視線が合う。
一瞬、迷うように揺れてから、
澪は小さく頷いた。
それだけで、十分だった。
校門を出るころには、雨脚は強くなっていた。
傘を忘れた生徒たちが、走っていく。
僕も傘を持っていなかった。
でも、不思議と焦りはなかった。
昇降口の屋根の下。
澪は、少し離れた場所に立っていた。
傘を一本、手にして。
「……入る?」
そう言って差し出された傘は、
昨日と同じ、少し大きめのものだった。
「いいの?」
「うん。濡れるよりは」
その言い方が、どこか不自然で、
胸がきゅっと締まる。
傘の中に入ると、距離は自然と近くなる。
肩が、触れそうで触れない。
雨音が、外界を遮断する。
この小さな空間だけ、時間が違うみたいだった。
歩き出してしばらく、
澪は黙ったままだった。
ただ、時折、僕のほうを見ては、
何か言いたそうに視線を落とす。
「……澪」
名前を呼ぶと、彼女はぴくりと肩を震わせた。
「なに?」
「昨日のこと、ずっと考えてた」
雨粒が、傘を強く叩く。
「忘れてるままのほうが優しい、って」
言葉を選びながら続ける。
「それって、澪にとっても?」
彼女は立ち止まった。
足元の水たまりが、波紋を広げる。
しばらくして、澪は小さく笑った。
「……優しくなんて、ないよ」
その声は、かすれていた。
「でもね。思い出されるたびに、私は……」
そこで、言葉が途切れる。
雨の匂いが、急に濃くなった。
胸の奥が、ずきりと痛む。
——まただ。
この感覚。
「想くん」
澪が、僕の名前を呼ぶ。
いつも通りのはずなのに、
どこか違って聞こえた。
まるで、確認するみたいな響き。
「……ううん」
彼女は首を振った。
そして、雨音に紛れるほど小さな声で、
もう一度、名前を呼んだ。
「……想」
呼び捨てだった。
その瞬間。
世界が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
胸の奥で、何かが強く脈打つ。
懐かしさと、痛みと、
どうしようもない愛しさが、同時に押し寄せる。
——その呼び方を、知っている。
そう確信した。
「今の……」
言いかけた僕を、澪は慌てて遮る。
「ごめんっ」
彼女は、ぎゅっと傘の柄を握った。
「呼んじゃだめだった……」
「でも、雨の日は、どうしても……」
俯いたまま、震える声で続ける。
「この距離だと、前のままに戻りそうになるから」
前の、まま。
その言葉が、胸に刺さる。
「前って……僕たちは」
問いかけた、その瞬間。
頭の奥で、何かが弾けた。
——雨の中。
——同じ傘。
——同じ声で、名前を呼ばれる。
「……っ」
視界が揺れる。
足が止まり、息が詰まる。
澪が、慌てて僕の腕を掴んだ。
「だめ……思い出さないで」
必死な声だった。
「お願い、想。今日は、まだ……」
その“お願い”が、
どうしてこんなにも切ないのか分からない。
でも。
胸の奥で、確かな感情だけが残った。
僕は、この人を——
何度も、好きになっている。
雨は、止む気配がなかった。
傘の下。
二人分の吐息が、白く混ざる。
そして僕は、はっきりと理解してしまった。
この恋は、
思い出した瞬間から、壊れてしまう。
そんな予感を抱えたまま、
僕たちは、同じ速度で歩き続けた。
読んでくださりありがとうございます。
続きは、明日21時半更新予定です。




