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『泡沫の日ごと』――雨の日だけ、君は僕のそばにいた  作者: 疾風


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1/8

1.雨の匂いを、僕は覚えていない

雨の音は、いつも少し遅れて届く。


 屋上のフェンスに当たる粒の音。

 遠くで滲む車の走行音。

 それらが混ざり合って、世界が一段だけ静かになる。


 僕は、その瞬間が苦手だった。


 理由は分からない。

 ただ、胸の奥がひどくざわつく。


 ——何かを、忘れている気がする。

 そう思うのは、決まって雨の日だった。


 教室の窓際。

 放課後の薄暗い空気の中で、僕は机に頬杖をついて外を眺めていた。


 ガラスを伝う雨粒が、ゆっくりと形を変えて落ちていく。

 それを見ていると、不意に胸が締めつけられる。


 まるで、

 大切な言葉を言いそびれたまま、時間だけが過ぎてしまったような。


 「……変なの」


 小さく呟いても、答えは返ってこない。


 クラスメイトたちはもう帰った。

 掃除当番の声も、部活の掛け声も、今日はどこか遠い。

僕の名前は、想。

 十七歳。


 特別な才能があるわけでもなく、

 誰かの記憶に強く残るような存在でもない。


 少なくとも——そう思っていた。


 窓に映る自分の顔を見て、ふと違和感を覚える。


 この顔を、

 「誰かが泣きそうな目で見つめていた」気がした。


 そんなはずはない。


 僕は誰かに、そんな顔を向けられるような生き方をしていない。

それなのに。


 雨の匂いが、鼻の奥をかすめた瞬間、

 胸の奥で、何かが微かに軋んだ。


 ——会いたい。


 そう思った。


 けれど、誰に会いたいのかは分からない。


 名前も、声も、顔も、何一つ思い出せないのに、

 その感情だけが、確かにそこにあった。


 泡のように浮かんでは、すぐに消えそうな想い。


 それでも、胸は痛かった。


 チャイムが鳴る。

帰宅を促す、無機質な音。


 僕は鞄を持ち、廊下へ出た。


 湿った床。

 窓から入り込む冷たい風。


 その中で——


 階段の踊り場に立つ、ひとりの少女が目に入った。


 濡れた前髪。

 少し大きめの傘を握る手。

 こちらを見ているのか、いないのか分からない曖昧な視線。


 その瞬間、心臓が大きく跳ねた。


 理由なんて、なかった。

ただ、確信だけがあった。


 ——ああ。


 僕は、この人を。


 そう思ったところで、言葉は途切れた。


 記憶の続きが、

 雨音にかき消されるように、静かに消えていった。

階段の踊り場に立つ少女は、雨の音に溶け込むように静かだった。


 制服は同じ。

 けれど、なぜか見覚えがない。


 転校生だろうか、と考えた瞬間、

 胸の奥がずきりと痛んだ。


 知らないはずなのに、

 “知っている”という感覚だけが先に来る。

僕は一段、階段を下りた。


 靴底が湿った床を鳴らす音が、やけに大きく響く。


 彼女は、こちらを見た。


 その目を見た瞬間、息が止まる。


 懐かしい。


 どうしようもなく、懐かしい。


 まるで、長い夢の途中で置き去りにしてきた現実が、

 突然目の前に現れたような感覚だった。


 彼女は少しだけ目を見開いて、

 それから、困ったように微笑んだ。


 「……やっぱり、今日も雨だね」

初めて聞く声のはずなのに、

 その響きは、胸の奥にすとんと落ちた。


 柔らかくて、静かで、

 どこか“謝っている”みたいな声。


 「え……?」


 僕がそう返すと、彼女は小さく首を傾げた。


 「ううん。独り言」


 そう言ってから、一拍置いて。


 彼女は、僕をまっすぐ見つめて、こう言った。

「想くん。雨の日はね——

 思い出さなくていいことまで、連れてくるから」


 心臓が、はっきりと跳ねた。


 「……なんで、僕の名前を」


 問いかけるより早く、彼女は視線を逸らした。


 「ごめん。びっくりさせたよね」


 濡れた前髪を指で払う仕草。

 その動きさえ、なぜか胸を締めつける。


 「今日から同じクラスだから。……たぶん」


 “たぶん”という言葉が、妙に引っかかった。


 「自己紹介、まだしてないんだ」

彼女はそう言って、少し照れたように笑う。


 「澪。澪っていうの」


 澪。


 名前を聞いた瞬間、

 頭の奥で、何かが弾けた気がした。


 呼んだことがある。


 確かに、この名前を——

 雨の中で、何度も。


 けれど、思い出そうとした瞬間、

 視界が一瞬だけ白くなる。

「……っ」


 ふらついた僕を、澪が慌てて支えた。


 その手は、ひどく冷たかった。


 「無理しないで」


 彼女は、まるで知っている未来を恐れるように、

 小さく息を吐いた。


 「思い出さなくていい。今は、まだ」


 「“まだ”……?」


 その言葉の意味を尋ねる前に、

 彼女はそっと距離を取った。

傘を開く音。


 雨が、少しだけ強くなる。


 「じゃあ、また明日」


 そう言って、澪は階段を下りていく。


 その背中を見つめながら、

 僕は、どうしようもない確信を抱いていた。


 この人と僕は、

 きっと、過去で何かを失っている。


 それが何なのか、まだ分からない。

けれど——


 雨の中に消えていく彼女の姿が、

 ひどく、ひどく大切なものに見えてしまった。


 泡沫みたいに。


 触れたら壊れてしまいそうな、

 そんな予感だけを残して。


読んでくださりありがとうございます。

これから、連載する予定です。

よろしくお願いいたします。

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