境界と夜明け前、
ただ、
走り続けたはずだという感覚だけが、身体に残っていた。
息が、苦しい。
肺は確かに空気を欲しがっているのに、鼓動は思ったほど速くない。
どうして――
言葉にならないまま、思考が途切れる。
遠くで、サイレンの音が鳴っていた。
一つじゃない。
いくつも重なって、街の奥で反響している。
足を止める。
周囲を見回す。
見覚えのある角。
見覚えのある電柱。
もう、家は遠くなかった。
自然と、そちらへ向かおうとして――
数百メートルも進まないうちに、違和感に気づく。
呼吸の音。
靴底が、アスファルトを擦る気配。
どれも、距離が測れない。
だが、
人がいる。
それだけは、はっきり分かった。
物陰に身を寄せる。
視線を上げずに、耳を澄ます。
複数の足音。
無線の微かなノイズ。
抑えた声。
家の方角だ。
間違いない。
もう、帰る場所はない。
⸻
路地裏に入る。
雑居ビルの壁に背を預け、その場に腰を落とした。
息が白い。
それでも、寒さは感じなかった。
あの光景が、頭から離れない。
返り血に覆われた戦闘スーツ。
奇声。
咆哮。
四人の影。
人を――
殺していた。
僕も、同じだったのか。
問いかけは、答えにならないまま沈む。
夜は、静かに過ぎていった。
⸻
――夜が、白み始める。
路肩に止まった車から、ラジオの音が漏れていた。
断片的な言葉が、耳に届く。
『昨夜発生した大規模な襲撃事件について――』
『国防省関係者による、計画的なテロ行為と見られ――』
『容疑者五名のうち、四名は射殺。
一名は現在も逃走中』
射殺。
言葉だけが、異様に重く落ちる。
静まり返った街に、
街頭スピーカーの声が響いた。
『現在、危険人物が逃走中です。
不要不急の外出は控えてください』
僕のことだ。
そう理解するのに、時間はかからなかった。
⸻
音が、近づく。
ヘリコプター。
ローターの振動が、空気を震わせている。
走る。
今度は、はっきりと。
銃声がした。
弾丸が、空気を裂く。
身体が、勝手に動く。
考えるより先に、跳ぶ。
避ける。
――当たらない。
追ってくる足音。
けれど、距離は縮まらない。
路地を曲がり、影に紛れ、また走る。
いつの間にか、夜が終わろうとしていた。
⸻
立ち止まる。
街灯の下に、影が落ちている。
歪んでいる。
腕を見る。
輪郭が、揺らいで見えた。
ずっと見てきた、“それ”と同じだった。
夜明け前の空が、わずかに色を変え始めている。
灰色の中に、赤が滲んでいた。
もう、帰る場所はなかった。




