人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。
第九章 冬の入り口とビストロの予約席
その金曜日、私は三回、服を着替えた。 朝の忙しい時間帯に、鏡の前で一人ファッションショーをするなんて何年ぶりだろう。 結局選んだのは、三年前の同窓会で着たきりの、ネイビーのワンピースだった。それにグレーのカーディガンを羽織り、首元には少し明るい色のスカーフを巻く。 派手すぎず、でも日常着ではない。 「あくまで仕事帰りです」という言い訳が通用するギリギリのライン。四十五歳の恋には、この「言い訳の余地」が必要不可欠なのだ。
パン屋のバイト中も、心ここにあらずだった。 トレイを拭きながら、何度も時計を見る。 十七時。十八時。 時間が進むのが遅いような、早いような、奇妙な感覚。 今日は、ただ本を返して帰る日ではない。 水曜日の夜、愛梨の時計が直ったことのお礼をLINEで送った時、彼から返信があったのだ。
『よかった。金曜日、もし時間があれば、少し付き合ってもらえませんか。お礼のコーヒーの代わりに、美味しいワインの店を見つけたので』
初めての、正式な誘い。 スマホの画面を見つめすぎて、液晶が焼き切れるかと思った。 「行きます」と返信するのに、三十分も悩んだ。
十九時。 私は更衣室で、儀式のようにルージュを取り出した。 キャップを外す。 今夜は、バッグの奥に隠す必要はない。 丁寧に輪郭を取り、ローズピンクを唇に乗せる。 鏡の中の私は、先週までの「疲れたお母さん」とは違う顔をしていた。目元には期待と少しの不安が宿り、頬はチークを入れなくても上気している。 「……大丈夫」 自分に言い聞かせる。 私は、行っていいのだ。 愛梨は今夜、模試直前の追い込みで塾に缶詰めだ。帰宅は二十二時。 それまでの三時間だけ、私は魔法にかかることを自分に許した。
*
待ち合わせは、図書館の前ではなく、駅の反対側にある小さな公園の時計台前だった。 十九時半。 木枯らしが吹き始め、街ゆく人々はコートの襟を立てている。 私はスカーフを巻き直し、時計台の下に立った。
「お待たせしました」 声がして振り返る。 そこには、いつもと違う牧村さんがいた。 ツイードのジャケットに、きちんとしたプレスのかかったスラックス。首にはチェックのマフラー。眼鏡もいつもの太い縁のものではなく、少し知的なシルバーフレームのものに変わっている。 素敵だ、と素直に思った。 そして同時に、彼も私のためにお洒落をしてきてくれたのだという事実が、胸を熱くした。
「いえ、私も今着いたところです」 定型文のような挨拶。でも、お互いの視線が絡み合い、自然と笑みがこぼれる。 「そのスカーフ、いい色ですね。冬の空に似合う」 「ありがとうございます。牧村さんのジャケットも、とても素敵です」 「いやあ、タンスの奥から引っ張り出してきました。カビ臭くないか心配で」 彼が照れくさそうにジャケットの裾を払う。 その仕草が可愛らしくて、私の緊張が少し解けた。
「行きましょうか。ここから歩いてすぐです」 「はい」
彼が予約してくれていたのは、裏路地にある『ビストロ・ハル』という小さな洋食屋だった。 煉瓦造りの外観に、温かいオレンジ色の灯りが漏れている。 店内はこぢんまりとしていて、ジャズが静かに流れていた。カウンターの奥では、初老のシェフがフライパンを振っている。 通されたのは、店の一番奥、壁際の二人掛けの席だった。 テーブルの上には『Reserved』のプレート。 予約席。 その響きだけで、自分が特別な存在として扱われている実感が湧く。
「ここは、煮込み料理が美味いんです。あと、ハウスワインも悪くない」 牧村さんがメニューを開きながら言った。 私たちは赤ワインのデキャンタと、牛頬肉の赤ワイン煮込み、そして季節の野菜サラダを注文した。
乾杯のグラスを合わせる。 チン、と澄んだ音が響く。 「時計のこと、本当にありがとうございました」 私は改めて頭を下げた。 「愛梨――娘も、すごく喜んでいて。『新品みたいだ』って」 「それはよかった。職人冥利に尽きます」 彼はワインを一口飲み、満足そうに目を細めた。 「娘さん、気づいてましたか? 修理したのが、ただの業者じゃないって」 ドキリとする。 「……ええ、まあ。勘のいい子なので。『ママの機嫌がいいのは、その職人さんのおかげでしょ』って」 正直に伝えると、彼は声を上げて笑った。 「ははは! それは手厳しい。でも、鋭いな」 「笑い事じゃないですよ。もう、冷や汗ものでした」 「いいじゃないですか。娘さんに認められたみたいで、僕は嬉しいですよ」
料理が運ばれてくる。 湯気の立つ煮込み料理。ナイフを入れると、肉がホロホロと崩れる。 口に運ぶと、濃厚なソースの味と共に、幸せが広がった。 美味しい。 誰かが作ってくれた、温かい料理。 自分で作る料理は「作業」の味がするけれど、誰かと囲む食卓は「喜び」の味がする。
「牧村さんは、普段どんなものを食べてるんですか?」 「基本は自炊です。男の手料理なんで、焼くだけ、煮るだけの茶色い飯ばかりですが」 「意外です。器用だから、凝ったものを作りそうなのに」 「修理は好きですが、料理はね……。設計図がないから苦手なんです。『少々』とか『適量』とか言われると、パニックになる」 彼の言葉に、私はクスクスと笑った。 理系男子らしい悩みだ。
ワインが進むにつれ、会話は深まっていった。 仕事のこと。若い頃に夢中になった映画のこと。 そして、お互いの「失敗」のこと。
「僕ね、前の奥さんとは、会話がなかったんです」 彼がグラスを見つめながら、静かに語り出した。 「同じ家にいても、別の部屋で過ごして。食事も別々で。それが『大人の距離感』だと思い込んでいた。でも違った。ただの無関心だったんです」 彼は私を見て、少し寂しそうに微笑んだ。 「だから、こうして誰かと向かい合って、同じものを食べて、『美味しいね』って言い合うことが、こんなに贅沢なことだとは忘れていました」
私の胸が締め付けられる。 私も同じだ。 元夫との食事は、業務報告の場か、あるいは沈黙に耐える時間だった。 「私もです。……私、ずっと自分の人生は『残り物』の処理だと思っていました。娘を育て上げて、あとは静かに老いていくだけ。でも」 私は勇気を出して、テーブルの上の彼の手を見つめた。 職人の、節くれだった手。 「牧村さんに会って、自分の人生にも、まだ『デザート』が残っているかもしれないって、思えるようになったんです」
彼の手が動いた。 私の手の甲に、彼の手がそっと重なる。 温かい。 大きくて、少しザラついた感触。 「……デザートだけじゃなくて、メインディッシュもこれからですよ」 彼が低く囁く。 その言葉の意味を理解して、私の顔が一気に熱くなった。 四十五歳の恋は、若者のように激しくは燃え上がらない。 炭火のように、静かに、でも芯まで熱く燃えるのだ。
店を出ると、外気はさらに冷たくなっていた。 でも、繋いだ手と手の間だけは熱いくらいだった。 駅までの帰り道。 いつもなら「早く帰らなきゃ」と急ぐ道が、今は少しでも長く続いてほしいと思う。
「あの」 駅の改札前で、彼が立ち止まった。 「来週末、娘さんの模試が終わったら……三人で、食事でもどうですか?」 時が止まった。 三人で。 それは、私と彼だけの関係から、一歩踏み出す提案だった。 「愛梨と、ですか?」 「ええ。合格祝いには早いですが、時計のメンテナンスの説明もしたいし。……それに、一度ちゃんと挨拶がしたい」 彼は真剣な眼差しで私を見た。 「コソコソ付き合うような歳じゃないでしょう。僕は、あなたの娘さんにも、胸を張れる関係でいたい」
涙が出そうになった。 この人は、どこまで誠実なのだろう。 私の不安――娘への罪悪感――を、彼は正面から受け止め、解決しようとしてくれている。 「……聞いているかわかりませんが、誘ってみます。あの子、人見知りしないから、きっと面白がってついてくるとは思いますけど」 「はは、それは頼もしい。じゃあ、楽しみにしています」
彼は繋いでいた手を、名残惜しそうに離した。 その瞬間、冷たい風が間を吹き抜ける。 「気をつけて。おやすみなさい、恵さん」 初めて、名前で呼ばれた。 「宮本さん」ではなく、「恵さん」。 その響きが、心臓をトクンと揺らす。
「おやすみなさい……牧村さん」 下の名前で呼び返す勇気は、まだ出なかった。 でも、それでいい。楽しみは少しずつ取っておこう。
帰りの電車の中。 窓に映る私は、行きよりもさらに美しく見えた。 ルージュは少し落ちていたけれど、表情は輝いていた。 スマホを取り出し、愛梨にメッセージを送る。 『お疲れ様。今、帰りだよ。プリン買っていくね』 すぐに返信が来る。 『やった! 私も今終わった。駅で待ち合わせしよ!』
娘と待ち合わせ。 その響きに、私は微笑んだ。 いつか、この待ち合わせの輪の中に、あの人が入る日が来るのかもしれない。 冬の入り口。 寒さは厳しくなるけれど、私の心には、消えない灯りがともっていた。




