表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/10

「人生の第二章」を歩み始める、大人の再生の物語。

第八章 止まった時計と魔法使いの正体


 その朝、我が家のキッチンは戦場のような騒ぎになった。  カシャン、という硬質な音がフローリングに響き渡り、続いて愛梨の悲鳴に近い声が上がった。


「嘘! やだ、嘘でしょ!?」  リビングに駆け込むと、愛梨が床にしゃがみ込んでいた。その足元には、文字盤のガラスにヒビが入った腕時計が転がっていた。  それは、彼女が中学入学の時に私の母――愛梨にとっての祖母から買ってもらった、シルバーのシンプルな腕時計だった。 「どうしようママ、ガラス割れてる……! これ、受験のお守りなのに!」  愛梨の顔から血の気が引いている。  今週末は大事な大学別模試がある。この時計はずっと彼女の左腕にあって、試験時間のペースメーカーを務めてきた相棒だ。「この時計じゃないと調子が狂う」と、愛梨は常々言っていた。 「落ち着いて、愛梨。怪我はない?」 「怪我なんてどうでもいいよ! どうしよう、針も止まっちゃってる……もう終わりだ、縁起悪すぎる」  愛梨の目から涙が溢れ出した。受験生の精神状態は、薄氷の上に立っているようなものだ。こんな些細なきっかけで、張り詰めていた糸がプツリと切れてしまう。 「もうやだ、勉強も進んでないのに、時計まで壊れるなんて。神様に見放されたんだ……」  床に突っ伏して泣き出す娘。その背中は小さく、震えていた。


 私は壊れた時計を拾い上げた。  ガラスには蜘蛛の巣状の亀裂が走り、秒針は痙攣するようにピクリとも動かない。  新しい時計を買うことはできる。でも、愛梨が求めているのは「時計」という機能ではなく、「おばあちゃんがくれたお守り」としての安心感だ。  私は深呼吸をして、娘の肩に手を置いた。


「大丈夫よ。ママがなんとかする」 「なんとかって……直らないよ、こんなの」 「直るわよ。ママを信じて」  私の脳裏には、あの温かい光に満ちた工房の作業台が浮かんでいた。  あの人なら。  あの魔法使いのような職人なら、きっと時間を動かしてくれる。 「今日、学校に行ってる間に直してくる。だから愛梨は、安心して勉強してきなさい」  根拠のない自信だった。けれど、私の力強い言葉に、愛梨は涙目で顔を上げた。 「……本当に?」 「本当よ。夕飯までには、元通りにしておくから」



 その日の午後、私はパートの昼休憩を返上して、『修理工房 マキムラ』へと走った。  金曜日でもない、火曜日でもない、水曜日の昼下がり。  約束もしていない訪問に、心臓が早鐘を打つ。でも、今は恋心よりも母親としての使命感が勝っていた。


 カランカラン。  ドアベルの音が響く。 「いらっしゃい……おや?」  カウンターの奥から顔を出した牧村さんは、私を見て目を丸くした。 「宮本さん。今日はまた、血相を変えてどうしました?」  彼はすぐに私のただならぬ様子を察したようだ。  私は息を切らせながら、ハンカチに包んだ時計をカウンターに置いた。 「牧村さん、お願いします。これ、直せませんか?」  事情を一気にまくし立てた。娘の大事な時計であること、週末に模試があること、そして彼女がパニックになっていること。  牧村さんは黙って時計を手に取り、拡大鏡を目に当てて診察を始めた。  店内に、ラジオのジャズと、私の荒い呼吸音だけが響く。


「……ガラス交換と、ムーブメントの調整ですね。衝撃で歯車が噛んでしまっている」  彼は淡々と言った。 「直りますか?」 「直します」  彼は私を見て、力強く頷いた。 「ただ、ガラスの在庫があるかどうか……ちょっと待ってください」  彼は棚の奥をゴソゴソと探し始めた。  神に祈るような気持ちで見守る。  数分後、彼は小さな箱を持って戻ってきた。 「ありました。デッドストックですが、サイズは合う」  ホッと息が漏れた。 「よかった……。あの、夕方までに間に合いますか? 無理を言っているのは承知の上ですが」  彼は腕時計を見た。 「今は十三時半。……十七時にお渡しできます」 「本当ですか!」 「受験生のお守りでしょう? 優先順位、最上位です」  彼はニッと笑った。 「その代わり、追加料金はいただきますよ? 特急料金として、缶コーヒー一本」  冗談めかしたその言葉に、私は思わず涙ぐんでしまった。 「ありがとうございます。……あの、缶コーヒー、一ダースでも持ってきます」 「一本でいいです。糖分過多になりますから」


 私は何度も頭を下げて、店を出た。  後ろから聞こえる作業音が、何より頼もしい応援歌に聞こえた。



 十七時ぴったりに、私は再び工房のドアを開けた。  パン屋のバイト終わりで足は棒のようだったが、疲れは感じなかった。  カウンターには、新品のように磨き上げられた時計が置かれていた。  ガラスのヒビは跡形もなく消え、秒針は滑らかに、以前よりも力強く時を刻んでいるように見えた。


「完璧です……!」  手に取ると、金属の冷たさと共に、確かな命の鼓動を感じる。 「中の油も差し替えておきました。これで当分、時間は狂いません」  牧村さんは作業用エプロンのまま、満足そうに頷いた。 「本当に、ありがとうございます。娘も喜びます」 「喜んでくれるといいですが。……あ、そうだ」  彼はカウンターの下から、小さな紙袋を取り出した。 「これ、ついでに渡してあげてください」 「え?」  中に入っていたのは、小さな革のケースだった。時計を入れるための携帯用ケースだ。 「ガラスは直せますが、また落としたら大変だ。試験会場に持っていく時は、これに入れていくといい」 「そんな、いただけません。修理代だけでもご迷惑をおかけしたのに」 「いいんです。端切れで作ったオマケですから」  彼は照れくさそうに鼻をかいた。 「それに、僕ができる応援なんて、これくらいですから」


 私は胸がいっぱいになった。  この人は、私のことだけでなく、私の娘のことまで大切にしようとしてくれている。会ったこともない娘のために、ここまで心を砕いてくれる。  修理代の二千円と、約束の缶コーヒー――私が選んだのは、彼がいつも飲んでいる銘柄の、少し高いプレミアムなもの――を置いて、私は店を後にした。


「宮本さん」  帰り際、彼が声をかけてきた。 「お母さんの頑張り、ちゃんと娘さんに伝わるといいですね」 「……はい。牧村さんのおかげです」


 帰り道、私は時計を胸に抱きしめて歩いた。  彼の手によって直された時計。  それはもう、ただの時計ではなかった。  私たち母娘と、彼を繋ぐ、見えない絆の証だった。



 帰宅すると、愛梨はリビングのテーブルで参考書を広げていたが、目は虚ろだった。 「ただいま。愛梨」  私はバッグから、丁寧に包まれた時計を取り出した。 「見て」  テーブルに置く。  愛梨がおそるおそる手を伸ばす。 「……え?」  彼女の目が大きく見開かれた。  時計を持ち上げ、耳に当てる。  チク、チク、チク、チク。  正確で、リズミカルな音。 「直ってる……。すごい、傷ひとつない!」  愛梨の顔に、朝以来の笑顔が戻った。 「ママ、これどうしたの? 普通の時計屋さんじゃ、こんなに早く直らないでしょ?」  愛梨の鋭い指摘に、私は一瞬言葉に詰まった。 「……ちょっとね。知り合いに、腕利きの職人さんがいるのよ」 「知り合い? ママにそんな知り合いいたっけ?」  愛梨は時計を眺め回しながら、不思議そうな顔をした。 「しかもこれ、前より綺麗になってる気がする。なんか、動きがスムーズっていうか……」  そして、私が渡した革のケースに気づいた。 「何これ。おしゃれ」 「それも、その職人さんがくれたの。落とさないようにって」  愛梨は革のケースを指で撫でた。  そして、ふと私の方を見て、ニヤリと笑った。 「ねえママ。その職人さんって、男の人?」 「えっ」  動揺が顔に出たのが自分でもわかった。 「やっぱり! ママ、わかりやすすぎ!」  愛梨は楽しそうに笑った。 「なるほどねー。最近ママが機嫌いいのも、火曜日に野菜炒め作る元気があるのも、その『職人さん』のおかげってわけ?」 「ち、違うわよ。ただの親切な人よ」 「ふーん。ただの親切で、こんな丁寧な仕事して、オマケまでくれるかなあ」  愛梨は時計を腕に巻き、満足そうに手首を返した。 「ま、いっか。誰だか知らないけど、私の時計を救ってくれた恩人だしね」  彼女は革のケースを愛おしそうに撫でた。 「これ、いい匂いがする。……なんか、安心する匂い」  それは、工房の匂いだった。  革とオイルと、コーヒーの混じった、牧村さんの匂い。


「ママ」  愛梨が真面目な顔に戻って言った。 「ありがとう。私、今週末の模試、頑張れそうな気がしてきた」 「うん。行ってらっしゃい。その時計がついてるから、大丈夫」


 娘の背中を見送りながら、私は安堵の息をついた。  バレてしまったかもしれない。  けれど、愛梨は拒絶しなかった。  牧村さんの仕事の確かさが、彼の誠実さが、時計を通じて娘にも伝わったのだ。  言葉はなくとも、彼は確かにここにいて、私たちを支えてくれている。


 その夜、私は久しぶりに自分の手帳を開いた。  金曜日の予定欄に、小さく書き込む。  『報告とお礼』。  文字を見つめながら、私は唇に指を当てた。  今週の金曜日には、一番似合うルージュを引いていこう。  誰のためでもない。  私と、私の大切な人たちの時間を守ってくれた、あの人のために。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ