「人生の第二章」を歩み始める、大人の再生の物語。
第八章 止まった時計と魔法使いの正体
その朝、我が家のキッチンは戦場のような騒ぎになった。 カシャン、という硬質な音がフローリングに響き渡り、続いて愛梨の悲鳴に近い声が上がった。
「嘘! やだ、嘘でしょ!?」 リビングに駆け込むと、愛梨が床にしゃがみ込んでいた。その足元には、文字盤のガラスにヒビが入った腕時計が転がっていた。 それは、彼女が中学入学の時に私の母――愛梨にとっての祖母から買ってもらった、シルバーのシンプルな腕時計だった。 「どうしようママ、ガラス割れてる……! これ、受験のお守りなのに!」 愛梨の顔から血の気が引いている。 今週末は大事な大学別模試がある。この時計はずっと彼女の左腕にあって、試験時間のペースメーカーを務めてきた相棒だ。「この時計じゃないと調子が狂う」と、愛梨は常々言っていた。 「落ち着いて、愛梨。怪我はない?」 「怪我なんてどうでもいいよ! どうしよう、針も止まっちゃってる……もう終わりだ、縁起悪すぎる」 愛梨の目から涙が溢れ出した。受験生の精神状態は、薄氷の上に立っているようなものだ。こんな些細なきっかけで、張り詰めていた糸がプツリと切れてしまう。 「もうやだ、勉強も進んでないのに、時計まで壊れるなんて。神様に見放されたんだ……」 床に突っ伏して泣き出す娘。その背中は小さく、震えていた。
私は壊れた時計を拾い上げた。 ガラスには蜘蛛の巣状の亀裂が走り、秒針は痙攣するようにピクリとも動かない。 新しい時計を買うことはできる。でも、愛梨が求めているのは「時計」という機能ではなく、「おばあちゃんがくれたお守り」としての安心感だ。 私は深呼吸をして、娘の肩に手を置いた。
「大丈夫よ。ママがなんとかする」 「なんとかって……直らないよ、こんなの」 「直るわよ。ママを信じて」 私の脳裏には、あの温かい光に満ちた工房の作業台が浮かんでいた。 あの人なら。 あの魔法使いのような職人なら、きっと時間を動かしてくれる。 「今日、学校に行ってる間に直してくる。だから愛梨は、安心して勉強してきなさい」 根拠のない自信だった。けれど、私の力強い言葉に、愛梨は涙目で顔を上げた。 「……本当に?」 「本当よ。夕飯までには、元通りにしておくから」
*
その日の午後、私はパートの昼休憩を返上して、『修理工房 マキムラ』へと走った。 金曜日でもない、火曜日でもない、水曜日の昼下がり。 約束もしていない訪問に、心臓が早鐘を打つ。でも、今は恋心よりも母親としての使命感が勝っていた。
カランカラン。 ドアベルの音が響く。 「いらっしゃい……おや?」 カウンターの奥から顔を出した牧村さんは、私を見て目を丸くした。 「宮本さん。今日はまた、血相を変えてどうしました?」 彼はすぐに私のただならぬ様子を察したようだ。 私は息を切らせながら、ハンカチに包んだ時計をカウンターに置いた。 「牧村さん、お願いします。これ、直せませんか?」 事情を一気にまくし立てた。娘の大事な時計であること、週末に模試があること、そして彼女がパニックになっていること。 牧村さんは黙って時計を手に取り、拡大鏡を目に当てて診察を始めた。 店内に、ラジオのジャズと、私の荒い呼吸音だけが響く。
「……ガラス交換と、ムーブメントの調整ですね。衝撃で歯車が噛んでしまっている」 彼は淡々と言った。 「直りますか?」 「直します」 彼は私を見て、力強く頷いた。 「ただ、ガラスの在庫があるかどうか……ちょっと待ってください」 彼は棚の奥をゴソゴソと探し始めた。 神に祈るような気持ちで見守る。 数分後、彼は小さな箱を持って戻ってきた。 「ありました。デッドストックですが、サイズは合う」 ホッと息が漏れた。 「よかった……。あの、夕方までに間に合いますか? 無理を言っているのは承知の上ですが」 彼は腕時計を見た。 「今は十三時半。……十七時にお渡しできます」 「本当ですか!」 「受験生のお守りでしょう? 優先順位、最上位です」 彼はニッと笑った。 「その代わり、追加料金はいただきますよ? 特急料金として、缶コーヒー一本」 冗談めかしたその言葉に、私は思わず涙ぐんでしまった。 「ありがとうございます。……あの、缶コーヒー、一ダースでも持ってきます」 「一本でいいです。糖分過多になりますから」
私は何度も頭を下げて、店を出た。 後ろから聞こえる作業音が、何より頼もしい応援歌に聞こえた。
*
十七時ぴったりに、私は再び工房のドアを開けた。 パン屋のバイト終わりで足は棒のようだったが、疲れは感じなかった。 カウンターには、新品のように磨き上げられた時計が置かれていた。 ガラスのヒビは跡形もなく消え、秒針は滑らかに、以前よりも力強く時を刻んでいるように見えた。
「完璧です……!」 手に取ると、金属の冷たさと共に、確かな命の鼓動を感じる。 「中の油も差し替えておきました。これで当分、時間は狂いません」 牧村さんは作業用エプロンのまま、満足そうに頷いた。 「本当に、ありがとうございます。娘も喜びます」 「喜んでくれるといいですが。……あ、そうだ」 彼はカウンターの下から、小さな紙袋を取り出した。 「これ、ついでに渡してあげてください」 「え?」 中に入っていたのは、小さな革のケースだった。時計を入れるための携帯用ケースだ。 「ガラスは直せますが、また落としたら大変だ。試験会場に持っていく時は、これに入れていくといい」 「そんな、いただけません。修理代だけでもご迷惑をおかけしたのに」 「いいんです。端切れで作ったオマケですから」 彼は照れくさそうに鼻をかいた。 「それに、僕ができる応援なんて、これくらいですから」
私は胸がいっぱいになった。 この人は、私のことだけでなく、私の娘のことまで大切にしようとしてくれている。会ったこともない娘のために、ここまで心を砕いてくれる。 修理代の二千円と、約束の缶コーヒー――私が選んだのは、彼がいつも飲んでいる銘柄の、少し高いプレミアムなもの――を置いて、私は店を後にした。
「宮本さん」 帰り際、彼が声をかけてきた。 「お母さんの頑張り、ちゃんと娘さんに伝わるといいですね」 「……はい。牧村さんのおかげです」
帰り道、私は時計を胸に抱きしめて歩いた。 彼の手によって直された時計。 それはもう、ただの時計ではなかった。 私たち母娘と、彼を繋ぐ、見えない絆の証だった。
*
帰宅すると、愛梨はリビングのテーブルで参考書を広げていたが、目は虚ろだった。 「ただいま。愛梨」 私はバッグから、丁寧に包まれた時計を取り出した。 「見て」 テーブルに置く。 愛梨がおそるおそる手を伸ばす。 「……え?」 彼女の目が大きく見開かれた。 時計を持ち上げ、耳に当てる。 チク、チク、チク、チク。 正確で、リズミカルな音。 「直ってる……。すごい、傷ひとつない!」 愛梨の顔に、朝以来の笑顔が戻った。 「ママ、これどうしたの? 普通の時計屋さんじゃ、こんなに早く直らないでしょ?」 愛梨の鋭い指摘に、私は一瞬言葉に詰まった。 「……ちょっとね。知り合いに、腕利きの職人さんがいるのよ」 「知り合い? ママにそんな知り合いいたっけ?」 愛梨は時計を眺め回しながら、不思議そうな顔をした。 「しかもこれ、前より綺麗になってる気がする。なんか、動きがスムーズっていうか……」 そして、私が渡した革のケースに気づいた。 「何これ。おしゃれ」 「それも、その職人さんがくれたの。落とさないようにって」 愛梨は革のケースを指で撫でた。 そして、ふと私の方を見て、ニヤリと笑った。 「ねえママ。その職人さんって、男の人?」 「えっ」 動揺が顔に出たのが自分でもわかった。 「やっぱり! ママ、わかりやすすぎ!」 愛梨は楽しそうに笑った。 「なるほどねー。最近ママが機嫌いいのも、火曜日に野菜炒め作る元気があるのも、その『職人さん』のおかげってわけ?」 「ち、違うわよ。ただの親切な人よ」 「ふーん。ただの親切で、こんな丁寧な仕事して、オマケまでくれるかなあ」 愛梨は時計を腕に巻き、満足そうに手首を返した。 「ま、いっか。誰だか知らないけど、私の時計を救ってくれた恩人だしね」 彼女は革のケースを愛おしそうに撫でた。 「これ、いい匂いがする。……なんか、安心する匂い」 それは、工房の匂いだった。 革とオイルと、コーヒーの混じった、牧村さんの匂い。
「ママ」 愛梨が真面目な顔に戻って言った。 「ありがとう。私、今週末の模試、頑張れそうな気がしてきた」 「うん。行ってらっしゃい。その時計がついてるから、大丈夫」
娘の背中を見送りながら、私は安堵の息をついた。 バレてしまったかもしれない。 けれど、愛梨は拒絶しなかった。 牧村さんの仕事の確かさが、彼の誠実さが、時計を通じて娘にも伝わったのだ。 言葉はなくとも、彼は確かにここにいて、私たちを支えてくれている。
その夜、私は久しぶりに自分の手帳を開いた。 金曜日の予定欄に、小さく書き込む。 『報告とお礼』。 文字を見つめながら、私は唇に指を当てた。 今週の金曜日には、一番似合うルージュを引いていこう。 誰のためでもない。 私と、私の大切な人たちの時間を守ってくれた、あの人のために。




