表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/10

「人生の第二章」を歩み始める、大人の再生の物語。

第七章 錆びついた鎖と温かいミルクティー


 木曜日の夜、穏やかだった日常の水面に、一石が投じられた。  スマートフォンが震える。画面に表示された『元夫』の二文字を見た瞬間、胃のあたりがキュッと縮こまる条件反射は、五年経っても治っていなかった。


「……もしもし」  愛梨がお風呂に入っている隙に、私はベランダに出て電話に出た。秋の夜風が冷たい。 『よう、恵。愛梨からLINE来たぞ。模試、E判定だったんだって?』  元夫・健二の声は、相変わらず無神経なほど大きかった。 「ええ、まあ。でも、本人はやる気になってるから」 『やる気だけで受かるなら苦労しないだろ。お前、ちゃんと尻叩いてんのか? 愛梨は昔から詰めが甘いところがある。それはお前に似たんだよ』  無自覚な悪意が、受話器越しに突き刺さる。  私に似た。その言葉に反論しようとして、言葉が詰まる。 『俺の稼いだ金で大学行かせるんだ。浪人なんて許さんからな。お前が甘やかしてるんじゃないか? パートとバイトで忙しいのはわかるが、母親の役目は疎かにするなよ』


 正論のような顔をした暴力だった。  私はベランダの手すりを強く握りしめた。冷たい鉄の感触が手のひらに食い込む。 「……わかってるわ。愛梨のことは私が一番見てる」 『見てるだけじゃダメなんだよ。結果を出させろ。じゃあな』  通話が切れる。  ツー、ツー、という電子音だけが残る。  私はしばらく動けなかった。  「お前に似た」。その言葉が呪いのようにリフレインする。  私がダメだから、娘もダメなのか。  私の人生が失敗だったから、娘の人生も躓いているのか。  先週、牧村さんにもらった「すごいですよ」という言葉で膨らんだ自信が、針で突かれた風船のようにしぼんでいくのがわかった。  私は、欠陥品なのだろうか。  修理しても直らない、根本的な欠陥を抱えたまま、母親ごっこをしているだけなのだろうか。



 翌日の金曜日。  私は這うような思いで一日を過ごした。  事務の仕事でコピーをミスし、パン屋では釣銭を間違えそうになった。  頭の中には、元夫の言葉と、E判定の通知表と、自分の至らなさがグルグルと渦巻いている。


 十九時。  図書館に行くのをやめようかと思った。  こんな惨めな気持ちのまま、あの神聖な場所に行きたくない。牧村さんに会えば、きっと見透かされてしまう。「どこか摩耗していますね」と。  けれど、家に真っ直ぐ帰る気にもなれなかった。愛梨の顔を見れば、また「ごめんね」と言いたくなってしまう気がして。    足は、習慣のように図書館へ向かっていた。  バッグの奥のルージュには触れなかった。今日の私には、唇を彩る気力すらなかった。


 閲覧室に入り、いつもの席に座る。  牧村さんは、すでにいた。  今日はチャコールグレーのカーディガンを羽織り、眼鏡を指で押し上げながら本を読んでいた。  その姿を見た瞬間、安堵よりも先に、涙が出そうになった。  ここにだけは、変わらない時間がある。  私は彼に見つからないように、柱の影の席に座り、借りていた『台所の哲学者』を開いた。  文字を目で追う。でも、内容は頭に入ってこない。  元夫の声が、活字の上を滑っていく。    三十分ほど経った頃だろうか。  私のテーブルに、コトン、と何かが置かれる音がした。  顔を上げると、牧村さんが立っていた。  彼は無言で、自分の腕時計を指差し、それから出口の方を顎でしゃくった。  「ちょっと、外へ」という合図だった。


 私は驚きつつも、本を閉じて立ち上がった。  彼の後について、閲覧室を出る。  図書館の外には、小さなベンチと自動販売機がある休憩スペースがあった。  夜の空気は冷たく、吐く息が白い。    牧村さんは自動販売機の前に立ち、小銭を入れた。  ガコン、ガコン。  二つの温かい缶が出てくる。 「どうぞ」  差し出されたのは、ホットのミルクティーだった。 「あ、ありがとうございます。すみません、お金……」 「いいです。百二十円の奢りくらいさせてください」  彼は隣のベンチに腰を下ろした。私も少し距離を空けて座る。  缶の温かさが、冷え切った指先に染み渡る。


「……今日は、本を読んでいませんでしたね」  牧村さんがプルタブを開けながら言った。  見ていたのか。 「ページは開いてましたけど、目は動いてなかった。溜息ばかりついてたし」  彼はコーヒーを一口飲み、夜空を見上げた。 「何かありましたか? また、娘さんのことで?」  彼の声は、問い詰めるような響きではなく、壊れかけた機械の具合を尋ねるような静けさを持っていた。  そのトーンに、心の堤防が決壊した。  誰かに聞いてほしかった。でも、誰にも言えなかった。 「……元夫から、電話があったんです」  ポツリと、言葉が漏れた。 「娘の成績が悪いのは、私に似たからだって。母親の役目を果たしてないって……」  一度口に出すと、止まらなかった。  自分がどれだけ不安か。自分に自信がないか。愛梨の足を引っ張っているのではないかという恐怖。  洗いざらい話してしまった。初対面に近い男性にする話ではない。重すぎる。  でも、牧村さんは口を挟まず、ただ黙って聞いていた。時折、コーヒーを啜る音だけが相槌のようだった。


 話し終えると、自己嫌悪が襲ってきた。 「すみません……こんな愚痴。忘れてください」  私は俯いた。  牧村さんは、ゆっくりと缶を回した。 「錆びてますね」 「え?」 「元旦那さんの言葉。それは、あなたの心を縛る古い鎖です。もう鍵は外れているはずなのに、錆びついて絡みついているから、まだ繋がれているような気がするだけです」  彼は眼鏡を外し、袖でゴシゴシと拭いた。 「僕も、離婚した時はそうでした。元妻に言われたんです。『あなたは機械ばかり見て、人を見ていない』って」  彼の独白に、私は顔を上げた。  裸眼の彼は、どこか幼く、無防備に見えた。 「図星でした。僕は修理屋として、完璧に直すことばかり考えていた。妻が寂しがっていることにも、話を聞いてほしがっていることにも気づかず、壊れたトースターや時計と向き合っていた。……最低ですよね」  彼は自嘲気味に笑った。 「その言葉が呪いになって、しばらくは誰とも付き合えませんでした。自分は人間失格なんじゃないかって」


「そんなこと……」  私は首を横に振った。 「牧村さんは、人の心が見える人です。私、わかります」 「今は、そうありたいと思っているだけです。失敗したから、学習したんです」  彼は眼鏡をかけ直した。 「宮本さん。元旦那さんの言葉は、過去のデータです。今のあなたを表すものじゃない。今のあなたは、娘さんのために必死で働いて、美味しいご飯を作って、火曜日のスーパーで戦っている。それが真実です」  彼は私の方を向いた。 「娘さんは、あなたの背中を見て育っています。だから、『あなたに似た』なら、娘さんはきっと大丈夫だ。粘り強くて、優しい子になる」


 涙が溢れた。  止まらなかった。  元夫の呪いの言葉が、牧村さんの言葉によって上書きされていく。  錆びついた鎖が、音を立てて砕け散るような気がした。 「……っ、ありがとうございます」  ハンカチで顔を覆う私に、彼は何も言わず、ただミルクティーの缶を私の手に押し付けた。 「温かいうちに飲んでください。甘いものは、脳みその栄養になりますから」


 しばらくして、私は涙を拭いてミルクティーを飲んだ。  甘くて、温かくて、少ししょっぱい味がした。 「……甘いです」 「でしょう? 人生には、時々これくらいの甘さが必要です」


 風が吹いた。枯れ葉が足元を転がっていく。  寒いはずなのに、体の芯がポカポカしていた。  隣に座る彼の体温までは感じられない距離。  でも、心の距離は、もうゼロに近い気がした。


「そろそろ、行きましょうか。風邪をひく」  彼が立ち上がった。  空き缶をゴミ箱に捨てる。カラン、という音が夜の闇に吸い込まれる。 「はい」  私も立ち上がる。


 帰り道、駅までの少しの間、私たちは並んで歩いた。  会話はなかった。  でも、沈黙が心地よかった。  別れ際、改札の前で彼は言った。 「来週は、笑った顔を見せてください。あなたの笑顔は、悪くない」  ぶっきらぼうな言い方だった。  でも、耳が赤くなっているのが街灯の下で見えた。


「……はい。頑張ります」  私は深くお辞儀をした。


 電車に揺られながら、私は窓に映る自分の顔を見た。  目は腫れぼったい。化粧も落ちている。  でも、表情は穏やかだった。  元夫の言葉は、もう怖くなかった。  私には、私のことを「今のデータ」で見てくれる人がいる。  バッグの奥のルージュよりも、もっと強い魔法をかけられた夜だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ