「人生の第二章」を歩み始める、大人の再生の物語。
第七章 錆びついた鎖と温かいミルクティー
木曜日の夜、穏やかだった日常の水面に、一石が投じられた。 スマートフォンが震える。画面に表示された『元夫』の二文字を見た瞬間、胃のあたりがキュッと縮こまる条件反射は、五年経っても治っていなかった。
「……もしもし」 愛梨がお風呂に入っている隙に、私はベランダに出て電話に出た。秋の夜風が冷たい。 『よう、恵。愛梨からLINE来たぞ。模試、E判定だったんだって?』 元夫・健二の声は、相変わらず無神経なほど大きかった。 「ええ、まあ。でも、本人はやる気になってるから」 『やる気だけで受かるなら苦労しないだろ。お前、ちゃんと尻叩いてんのか? 愛梨は昔から詰めが甘いところがある。それはお前に似たんだよ』 無自覚な悪意が、受話器越しに突き刺さる。 私に似た。その言葉に反論しようとして、言葉が詰まる。 『俺の稼いだ金で大学行かせるんだ。浪人なんて許さんからな。お前が甘やかしてるんじゃないか? パートとバイトで忙しいのはわかるが、母親の役目は疎かにするなよ』
正論のような顔をした暴力だった。 私はベランダの手すりを強く握りしめた。冷たい鉄の感触が手のひらに食い込む。 「……わかってるわ。愛梨のことは私が一番見てる」 『見てるだけじゃダメなんだよ。結果を出させろ。じゃあな』 通話が切れる。 ツー、ツー、という電子音だけが残る。 私はしばらく動けなかった。 「お前に似た」。その言葉が呪いのようにリフレインする。 私がダメだから、娘もダメなのか。 私の人生が失敗だったから、娘の人生も躓いているのか。 先週、牧村さんにもらった「すごいですよ」という言葉で膨らんだ自信が、針で突かれた風船のようにしぼんでいくのがわかった。 私は、欠陥品なのだろうか。 修理しても直らない、根本的な欠陥を抱えたまま、母親ごっこをしているだけなのだろうか。
*
翌日の金曜日。 私は這うような思いで一日を過ごした。 事務の仕事でコピーをミスし、パン屋では釣銭を間違えそうになった。 頭の中には、元夫の言葉と、E判定の通知表と、自分の至らなさがグルグルと渦巻いている。
十九時。 図書館に行くのをやめようかと思った。 こんな惨めな気持ちのまま、あの神聖な場所に行きたくない。牧村さんに会えば、きっと見透かされてしまう。「どこか摩耗していますね」と。 けれど、家に真っ直ぐ帰る気にもなれなかった。愛梨の顔を見れば、また「ごめんね」と言いたくなってしまう気がして。 足は、習慣のように図書館へ向かっていた。 バッグの奥のルージュには触れなかった。今日の私には、唇を彩る気力すらなかった。
閲覧室に入り、いつもの席に座る。 牧村さんは、すでにいた。 今日はチャコールグレーのカーディガンを羽織り、眼鏡を指で押し上げながら本を読んでいた。 その姿を見た瞬間、安堵よりも先に、涙が出そうになった。 ここにだけは、変わらない時間がある。 私は彼に見つからないように、柱の影の席に座り、借りていた『台所の哲学者』を開いた。 文字を目で追う。でも、内容は頭に入ってこない。 元夫の声が、活字の上を滑っていく。 三十分ほど経った頃だろうか。 私のテーブルに、コトン、と何かが置かれる音がした。 顔を上げると、牧村さんが立っていた。 彼は無言で、自分の腕時計を指差し、それから出口の方を顎でしゃくった。 「ちょっと、外へ」という合図だった。
私は驚きつつも、本を閉じて立ち上がった。 彼の後について、閲覧室を出る。 図書館の外には、小さなベンチと自動販売機がある休憩スペースがあった。 夜の空気は冷たく、吐く息が白い。 牧村さんは自動販売機の前に立ち、小銭を入れた。 ガコン、ガコン。 二つの温かい缶が出てくる。 「どうぞ」 差し出されたのは、ホットのミルクティーだった。 「あ、ありがとうございます。すみません、お金……」 「いいです。百二十円の奢りくらいさせてください」 彼は隣のベンチに腰を下ろした。私も少し距離を空けて座る。 缶の温かさが、冷え切った指先に染み渡る。
「……今日は、本を読んでいませんでしたね」 牧村さんがプルタブを開けながら言った。 見ていたのか。 「ページは開いてましたけど、目は動いてなかった。溜息ばかりついてたし」 彼はコーヒーを一口飲み、夜空を見上げた。 「何かありましたか? また、娘さんのことで?」 彼の声は、問い詰めるような響きではなく、壊れかけた機械の具合を尋ねるような静けさを持っていた。 そのトーンに、心の堤防が決壊した。 誰かに聞いてほしかった。でも、誰にも言えなかった。 「……元夫から、電話があったんです」 ポツリと、言葉が漏れた。 「娘の成績が悪いのは、私に似たからだって。母親の役目を果たしてないって……」 一度口に出すと、止まらなかった。 自分がどれだけ不安か。自分に自信がないか。愛梨の足を引っ張っているのではないかという恐怖。 洗いざらい話してしまった。初対面に近い男性にする話ではない。重すぎる。 でも、牧村さんは口を挟まず、ただ黙って聞いていた。時折、コーヒーを啜る音だけが相槌のようだった。
話し終えると、自己嫌悪が襲ってきた。 「すみません……こんな愚痴。忘れてください」 私は俯いた。 牧村さんは、ゆっくりと缶を回した。 「錆びてますね」 「え?」 「元旦那さんの言葉。それは、あなたの心を縛る古い鎖です。もう鍵は外れているはずなのに、錆びついて絡みついているから、まだ繋がれているような気がするだけです」 彼は眼鏡を外し、袖でゴシゴシと拭いた。 「僕も、離婚した時はそうでした。元妻に言われたんです。『あなたは機械ばかり見て、人を見ていない』って」 彼の独白に、私は顔を上げた。 裸眼の彼は、どこか幼く、無防備に見えた。 「図星でした。僕は修理屋として、完璧に直すことばかり考えていた。妻が寂しがっていることにも、話を聞いてほしがっていることにも気づかず、壊れたトースターや時計と向き合っていた。……最低ですよね」 彼は自嘲気味に笑った。 「その言葉が呪いになって、しばらくは誰とも付き合えませんでした。自分は人間失格なんじゃないかって」
「そんなこと……」 私は首を横に振った。 「牧村さんは、人の心が見える人です。私、わかります」 「今は、そうありたいと思っているだけです。失敗したから、学習したんです」 彼は眼鏡をかけ直した。 「宮本さん。元旦那さんの言葉は、過去のデータです。今のあなたを表すものじゃない。今のあなたは、娘さんのために必死で働いて、美味しいご飯を作って、火曜日のスーパーで戦っている。それが真実です」 彼は私の方を向いた。 「娘さんは、あなたの背中を見て育っています。だから、『あなたに似た』なら、娘さんはきっと大丈夫だ。粘り強くて、優しい子になる」
涙が溢れた。 止まらなかった。 元夫の呪いの言葉が、牧村さんの言葉によって上書きされていく。 錆びついた鎖が、音を立てて砕け散るような気がした。 「……っ、ありがとうございます」 ハンカチで顔を覆う私に、彼は何も言わず、ただミルクティーの缶を私の手に押し付けた。 「温かいうちに飲んでください。甘いものは、脳みその栄養になりますから」
しばらくして、私は涙を拭いてミルクティーを飲んだ。 甘くて、温かくて、少ししょっぱい味がした。 「……甘いです」 「でしょう? 人生には、時々これくらいの甘さが必要です」
風が吹いた。枯れ葉が足元を転がっていく。 寒いはずなのに、体の芯がポカポカしていた。 隣に座る彼の体温までは感じられない距離。 でも、心の距離は、もうゼロに近い気がした。
「そろそろ、行きましょうか。風邪をひく」 彼が立ち上がった。 空き缶をゴミ箱に捨てる。カラン、という音が夜の闇に吸い込まれる。 「はい」 私も立ち上がる。
帰り道、駅までの少しの間、私たちは並んで歩いた。 会話はなかった。 でも、沈黙が心地よかった。 別れ際、改札の前で彼は言った。 「来週は、笑った顔を見せてください。あなたの笑顔は、悪くない」 ぶっきらぼうな言い方だった。 でも、耳が赤くなっているのが街灯の下で見えた。
「……はい。頑張ります」 私は深くお辞儀をした。
電車に揺られながら、私は窓に映る自分の顔を見た。 目は腫れぼったい。化粧も落ちている。 でも、表情は穏やかだった。 元夫の言葉は、もう怖くなかった。 私には、私のことを「今のデータ」で見てくれる人がいる。 バッグの奥のルージュよりも、もっと強い魔法をかけられた夜だった。




