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「人生の第二章」を歩み始める、大人の再生の物語。

第二部:つぎはぎの心としおりの行方


第六章 火曜日の特売とカゴの中身


 そのしおりは、私の定期入れの中に収まっていた。  通勤のバスの中、レジ打ちの休憩中、ふとした瞬間に指先でその革の感触を確かめる。使い込まれて角が丸くなった飴色の革。裏側に書かれた『安心して歩き回ってください』という文字は、私の指の脂で滲んで消えてしまいそうだから、もうあまり直視しないようにしている。  ただ、そこにあるという事実だけで、私の心臓は一定のリズムを保つことができた。


 週の半ば、火曜日。  この日は近所のスーパー「ライフ・マート」の特売日だ。冷凍食品が四割引き、野菜のバラ売りが開催される、主婦にとっては戦場のような一日である。  十九時半。  パン屋のバイトを終えた私は、その足でスーパーへと滑り込んだ。  今日の私は、酷い格好をしている自覚があった。  朝から降り続く小雨のせいで髪は爆発し、それを隠すようにゴムでひっつめている。化粧は崩れかけ、眼鏡は少し曇っている。図書館に行く金曜日とは真逆の、「なりふり構わないオカン」の姿だ。  でも、ここには牧村さんはいない。  誰に見られるわけでもない。私はカゴを片手に、鋭い目つきで棚をスキャンし始めた。


 愛梨の夜食用の冷凍パスタ、特売のキャベツ、そして牛乳。  カゴがずっしりと重くなる。  精肉コーナーの前で足を止めた。 「豚バラ、グラム九十八円か……」  悪くない。でも、奥にある「半額」の黄色いシールが貼られたパックに目が吸い寄せられる。賞味期限は今日まで。今夜下味をつけて冷凍すれば問題ない。  私は迷わず半額シールの貼られたパックに手を伸ばした。


 その時だ。  隣から伸びてきた男の人の手が、同じパックの近くにある鶏肉を掴んだ。  袖口から覗く、ゴツゴツとした腕時計。  見覚えがあった。  心臓がドクリと跳ねる。  恐る恐る顔を上げると、そこには見慣れないジャージ姿に、無精髭を生やした牧村さんがいた。


「あ」  彼が私に気づく。  私は反射的に、半額シールの貼られた豚肉を背中に隠そうとした。  よりによって、こんな場所で。こんな姿で。しかも半額肉を鷲掴みにしている瞬間に。  穴があったら入りたいというのは、まさにこのことだ。金曜日の夜にルージュを引いて澄ましている私と、百円をケチって血眼になっている私。その落差を見られたくなかった。


「……宮本さん、ですよね?」  彼もまた、少しバツが悪そうだった。  いつものパリッとしたシャツ姿ではない。首元がヨレたグレーのトレーナーに、コンビニに行くようなサンダル履き。  それがまた、妙に生活臭くて、私の胸をざわつかせた。 「は、はい。こんばんは……奇遇ですね」 「ええ。火曜日は安いんで」  彼は平然と言った。  私の隠した手元を見て、彼はふっと目を細めた。 「それ、豚肉? いいの見つけましたね。僕が狙ってたやつだ」 「えっ……」 「半額シール、大事ですよ。僕もこれ、狙ってましたから」  彼が掲げた鶏肉のパックにも、鮮やかな黄色の半額シールが貼られていた。  私は力が抜けて、隠していた豚肉を前に出した。 「……生活、ですからね」 「そうです。生きるためには、賢くないと」  彼はニッと笑った。  幻滅されなかった。むしろ、「同志」としての親近感を抱いてくれているようだった。


「お買い物、それだけですか?」  私が尋ねると、彼はカゴの中身を見せてくれた。  半額の鶏肉、缶ビール二本、そして大量のキャットフードの缶詰。 「猫のご飯が切れてしまって。あいつ、好みがうるさいんですよ。このメーカーのマグロ味じゃないと食べない」 「猫ちゃん……お名前は?」  自然と会話が弾む。スーパーの精肉売り場という、全くロマンチックではない場所なのに、私の心は図書館にいる時よりも高鳴っていた。 「『ネジ』です」 「え?」 「大工道具のネジです。拾った時、尻尾がネジみたいにクリッと曲がってたから」 「ネジちゃん……ふふ、牧村さんらしいですね」  修理屋の猫がネジ。  その飾り気のないネーミングセンスが、たまらなく愛おしい。


 レジを済ませ、私たちはサッカー台(袋詰めをする台)で隣同士になった。  私は手慣れた手つきで商品をエコバッグに詰めていく。彼は不器用そうに、ビールと猫缶をビニール袋に入れている。 「手際がいいですね」  彼が感心したように言った。 「主婦歴が長いですから。テトリスみたいに詰めるのがコツなんです」 「なるほど。テトリスか。……宮本さんは、やっぱりすごいな」  彼がボソッと言った。 「え?」 「いや、仕事して、家事して、こうやって買い物して。僕は自分のことと猫のことだけで手一杯なのに、あなたは娘さんの分まで背負って、笑ってる」  彼の視線が、私の重そうなエコバッグに注がれる。 「すごいですよ、本当に」


 鼻の奥がツンとした。  この重いエコバッグは、私の生活の重さそのものだ。誰にも褒められない、当たり前の日常。それを、この人は「すごい」と言ってくれる。 「……必死なだけです。あ、あの!」  私は慌てて、ポケットから定期入れを取り出した。 「これ、栞……お返ししなきゃと思って」  定期入れのポケットから、あの革の栞を半分ほど引き出す。  彼は手を振って遮った。 「いいんです。本、まだ読み終わってないでしょう?」 「はい、まだ半分くらいですけど……」 「なら、持っていてください。その栞、その本に挟まれてるのが一番落ち着くみたいだから」  彼は優しい目で私を見た。 「それに、まだ『安心』が必要かもしれないし」


 私の指先が止まる。  彼は気づいている。私がまだ、強がって立っているだけだということを。 「……ありがとうございます。じゃあ、読み終わるまで、お借りします」 「ええ。ゆっくり読んでください」


 スーパーの自動ドアを出ると、雨は止んでいた。  濡れたアスファルトに、街灯が反射している。 「じゃあ、僕はこっちなんで」  彼は反対方向を指した。 「はい。お引き止めしてすみません。……ネジちゃんによろしく」 「伝えておきます。気をつけて」


 彼は片手を軽く上げ、サンダル履きの音をペタペタと響かせて歩き出した。  その背中は、図書館で見るよりも少し丸く、生活感に溢れていた。  でも、今の私には、その背中が何よりも愛おしく思えた。


 重たいエコバッグを肩にかけ直す。  食い込むベルトの痛みすら、今は心地よい。  火曜日の特売。髪はボサボサ。半額の肉。  そんな現実のど真ん中で、私たちは会った。  夢のような王子様ではない。生活を背負った、等身大の中年男性。  それが私の好きになった人だ。


 帰り道、私は自転車のペダルを漕ぎながら、空を見上げた。  雲の切れ間から、欠けた月が見えた。  不完全で、少し歪な月。  まるで私たちみたいだ。  家に帰ったら、半額の豚肉で美味しい野菜炒めを作ろう。  そして、栞を挟んだページの続きを読もう。


 家に着くと、リビングの明かりがついていた。 「ただいまー」 「おかえりママ。遅かったね」  愛梨が教科書を広げたまま顔を上げた。 「うん、スーパー混んでて。愛梨、今日のご飯、野菜炒めでいい?」 「いいよ。あ、私、手伝おうか?」  思いがけない言葉に、私は驚いて娘を見た。  愛梨は少し照れくさそうに鼻をかいた。 「息抜きしたいだけだし。キャベツ切るくらいならできるよ」 「……ありがとう。助かるわ」


 キッチンに並んで立つ。  娘が包丁を使う音と、私がフライパンを熱する音。  日常の音。  その隙間に、牧村さんの「すごいですよ」という声が響く。  私の日常は、誰かが見ていてくれる。  それだけで、こんなにも強くなれる。    バッグの奥のルージュは出番がなかったけれど、今日の私は、素顔のままでも少しだけ綺麗になれた気がした。


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