「人生の第二章」を歩み始める、大人の再生の物語。
第四章 昼下がりの工房とあやふやな理由
雨の金曜日から数日が過ぎても、私の心の中には晴れやかな青空が広がっていた。 単純なものだ、と自分でも呆れる。 たった十分、傘に入れてもらっただけ。名前を教え合っただけ。それなのに、スーパーで大根を選ぶ時も、銀行で順番待ちをしている時も、ふとした瞬間にあの低い声が蘇り、マスクの下で口元が緩んでしまう。 世界が、彩度を上げていた。 道端の雑草の緑も、商店街の看板の赤も、すべてが瑞々しく目に映る。恋は最高の美容液だというけれど、それは肌だけでなく、視界そのものを潤してくれるのかもしれない。
「ママ、なんか最近、機嫌よくない?」 火曜日の朝、トーストをかじりながら愛梨が言った。 「そう? 普通よ」 「ううん、怪しい。昨日だって、お風呂場で鼻歌歌ってたし。昭和の歌謡曲」 「やだ、聞こえてたの?」 顔が熱くなる。無意識だった。 「もしかして、いい人できた?」 娘の直球な質問に、ドキリとする。愛梨の目は、受験勉強で鍛えられたのか、以前より観察眼が鋭くなっている気がする。 「そんなんじゃないわよ。ただ、仕事が順調なだけ」 「ふーん。まあいいけどさ。ママが元気だと、家の中が明るくていいよ」 愛梨はニッと笑って、最後の一口を飲み込んだ。 その言葉に、胸が痛んだ。逆に言えば、今までの私は、家の中を暗くしていたのかもしれない。生活に疲れ、将来に怯え、どんよりとした空気を纏っていたのだろうか。 牧村さんのおかげで、私は娘にも優しくなれている。 その事実が、この恋心を肯定する免罪符のように思えた。
*
その日の午後、事件は起きた。 事務のパートからパン屋への移動中だった。少し時間が押していたため、私は駅前の階段を小走りで降りていた。 カツ、カツ、カツ。 リズミカルな音が響いた直後、グキッという鈍い感触と共に、右足のバランスが崩れた。 「あっ」 手すりにしがみつき、転倒は免れた。けれど、右足の着地感が奇妙だ。 恐る恐る足元を見る。 黒いパンプスのヒールのゴムが剥がれ落ち、中の金属がむき出しになっていた。 「嘘でしょう……」 ため息が出る。このパンプスは三年前に買ったものだ。確かに寿命だったのかもしれない。でも、よりによって今、この忙しい移動中に壊れなくてもいいのに。 時計を見る。パン屋のシフト入りまで、あと四十分ある。 家に戻って靴を履き替える時間はない。このまま歩けば、カツカツと金属音が鳴り響き、さらに靴を傷めることになる。 駅前にはチェーン店の靴修理屋がある。あそこなら、十分ほどで直してくれるはずだ。 そこへ向かおうとして、足が止まった。
――『修理工房 マキムラ』
脳裏に、あの手書きの看板が浮かんだ。 ここから歩いて十五分。往復三十分。修理に十分。ギリギリだ。 でも、行きたい。 これは正当な理由だ。ストーカーでも待ち伏せでもない。「客」として、彼の店に行くのだ。 壊れたヒールは、神様がくれたチケットかもしれない。 そんな都合のいい解釈が、四十五歳の理性を凌駕した。 私は方向転換し、痛む足を引きずりながら、あの裏通りへと急いだ。
*
昼下がりの裏通りは静まり返っていた。 『修理工房 マキムラ』のシャッターは、今日は全開になっていた。 店の前まで来て、私は一度立ち止まり、深呼吸をする。 心臓が早鐘を打っている。図書館で会うのとは訳が違う。彼のテリトリーに、土足で踏み込むような緊張感。 ガラス戸越しに中を覗く。 彼は――いた。 カウンターの奥で、革靴を磨いている背中が見えた。 私は意を決して、引き戸に手をかけた。
カランカラン。 真鍮のドアベルが、思いのほか軽やかな音を立てた。 「いらっしゃいませ」 彼は振り返りながら、少し低めの営業用の声を出した。 そして、入り口に立っているのが私だと気づいた瞬間、その目が大きく見開かれた。 「……あ」 時が止まる。 彼は手に持っていたブラシを置いた。 「宮本、さん?」 「こ、こんにちは。あの、急にすみません」 私の声は上ずっていた。 店の中は、図書館の彼からは想像できないほど、雑然としつつも秩序があった。壁一面に掛かった工具、漂う革とオイルの匂い、そしてラジオから流れる低い音量のジャズ。 ここは、彼の城だ。
「どうしました? 今日は金曜日じゃありませんよ」 彼は少し冗談めかして言った。眼鏡の奥の目が、柔らかく笑っている。 私はホッとして、右足を見せた。 「実は、これ……移動中に壊れてしまって。ここなら直していただけるかと思って」 彼はカウンターから出てきて、私の足元にかがみ込んだ。 突然の距離の近さに、息が止まりそうになる。 彼の白髪混じりの頭頂部が、私の膝のすぐ下にある。 「なるほど。トップリフトが飛んでますね。金属も少し削れてる」 彼は私のパンプスをそっと脱がせると、手のひらに乗せて観察した。 私の安物の、履き古した靴。 恥ずかしい。もっと綺麗な靴を履いていればよかった。消臭スプレーは朝したけれど、大丈夫だろうか。 「急ぎますか?」 彼が顔を上げて尋ねた。 「あ、はい。これから仕事で……あと二十分くらいしかなくて」 「十分でやります。おかけになってお待ちください」 彼は職人の顔になり、カウンターの奥へと戻っていった。
私は勧められた丸椅子に座った。 彼の作業を特等席で見つめる。 ウィーン、という機械の音。トン、トン、という金槌の音。 彼の背中は広く、頼もしかった。 図書館で本を読む静かな彼も素敵だけれど、こうして手を動かし、誰かの生活を支える仕事をしている彼は、もっと輝いて見えた。
「パン屋さんでしたっけ」 作業をしながら、彼が背中越しに話しかけてきた。 「え?」 「先週、雨の日に。あの匂い、パンの匂いでしょう? 酵母の」 ドキリとした。 私の体に染み付いた生活の匂いを、彼は感じ取っていたのか。 「……はい、そうです。近くの商店街のパン屋でパートをしていて」 「やっぱり。いい匂いだったから」 さらりと彼は言った。 いい匂い。 その言葉が、私の頭の中で反響する。高級な香水ではなく、労働の匂いを「いい」と言ってくれるなんて。 「牧村さんは、ずっとここでお店を?」 勇気を出して聞いてみる。 「ええ。親父の代からやってる店なんで。一度サラリーマンになったんですけど、結局戻ってきました。十年前くらいかな」 「そうなんですか……お一人で?」 一番聞きたかったこと。 彼は手を止めず、淡々と答えた。 「今は一人です。五年前に離婚して、猫が一匹いますけどね」 心の中でガッツポーズをしたくなるのを必死で抑えた。 バツイチ。独り身。 私と同じだ。 「私と同じです。私も、娘と二人暮らしで」 「ああ、そうなんですか。じゃあ、お互い『第二章』ってわけですね」 彼は振り返り、ニカッと白い歯を見せて笑った。 『第二章』。 なんて素敵な響きだろう。 人生の終わりではなく、新しい章の始まり。彼となら、そんな物語が紡げるかもしれない。
「はい、お待ちどうさま」 彼が直ったパンプスを差し出した。 踵のゴムは新しくなり、擦り減っていた革の部分も綺麗に磨かれていた。 足を入れると、新品のように背筋が伸びる感覚がした。 「ありがとうございます! 見違えました」 「いえ。いい靴ですよ。手入れすれば、まだ十年は履けます」 彼は私の安物を「いい靴」と言った。 それは、私自身を肯定されたような気がした。四十五歳、傷もシワもあるけれど、手入れをすればまだ輝けるのだと。
「おいくらですか?」 財布を取り出す。 「千二百円です」 お金をトレーに置く。彼の手と私の指先が、ほんの一瞬だけ触れた。 その熱が、指先から腕を伝って心臓まで駆け上がる。 「また何か壊れたら、いつでもどうぞ。あ、壊れなくても、本の話をしに来てもいいですよ。昼間は暇なんで」 彼は、初めて「次」を期待させる言葉をくれた。 図書館という限定された場所だけでなく、この工房もまた、私たちが会える場所になったのだ。
「はい。また、寄らせていただきます」 私は深くお辞儀をして、店を出た。 カランカラン、とドアベルが鳴り、魔法の時間が終わる。
外の空気は冷たかったけれど、私の足取りは羽が生えたように軽かった。 新しいヒールの音が、アスファルトに小気味よく響く。 カツ、カツ、カツ。 それは、私の新しい人生の鼓動のように聞こえた。
パン屋への道を急ぎながら、私はバッグの持ち手を強く握りしめた。 ただの客としての会話だったかもしれない。 けれど、「第二章」という言葉と、「パンの匂い」を肯定してくれた事実が、私の中で確かな自信に変わっていた。
ふと、空を見上げる。 雲の切れ間から、秋の澄んだ日差しが降り注いでいた。 もし、この恋が実らなかったとしても、今のこの高揚感は、きっと私の人生を豊かにしてくれる。 でも――。 欲張りな私は、もう願わずにはいられなかった。 この修理された靴で、彼の隣を歩きたい、と。




