人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。
最終章 金曜日のルージュは、唇の上に
ゴールデンウィークの箱根は、目の覚めるような新緑に包まれていた。 旅館の窓を開けると、早川のせせらぎと、野鳥のさえずりが部屋に流れ込んでくる。 朝の光が、隣で眠る牧村さんの顔を優しく照らしていた。 眼鏡を外した彼の寝顔は、普段の職人然とした厳しさが消え、少年のように無防備だ。規則正しい寝息が、この空間の平穏さを証明している。
私は布団から抜け出し、窓辺に立った。 昨夜の記憶が、甘やかな余韻となって蘇る。 重ねた肌の温もり。囁かれた言葉。そして、互いの孤独を埋め合うような深い抱擁。 四十五歳という年齢で、誰かをこんなにも愛おしいと感じ、誰かから求められる喜びを知るとは思わなかった。 身体の奥底にあった「女性」としての自信が、枯れた泉に水が満ちるように蘇っているのを感じる。
スマホを見ると、愛梨から写真が届いていた。 大学のサークル仲間とバーベキューをしている写真だ。満面の笑みでピースサインをする娘。その隣には、少し背の高い男の子が映っている。 『彼氏できたかも(笑)』 短いメッセージに、私は微笑んだ。 娘もまた、自分の足で自分の人生を歩み始めている。もう、私が心配して先回りする必要はないのだ。
「……おはよう」 背後から、掠れた声がした。 振り返ると、牧村さんが目をこすりながら起き上がっていた。 「おはようございます。よく眠れました?」 「ええ。こんなに深く眠ったのは何年ぶりだろう。……恵さんが隣にいると、妙に安心するんです」 彼は布団から手を伸ばし、私の手首を掴んだ。 「こっちへおいで。まだチェックアウトまで時間がある」 引き寄せられ、私は再び彼の腕の中に包まれた。 旅館の浴衣の匂いと、彼の匂い。 これが、私の新しい「日常」になっていく。 その確信が、何よりも幸福だった。
*
旅行から戻り、日常が再開した。 けれど、世界の色は以前とは違って見えた。 五月の半ば、金曜日。 仕事が終わると、私は一度家に帰り、着替えてから図書館へ向かうようになった。 もう、パン屋の制服のまま、疲れた顔で駆け込むことはしない。 一度リセットし、自分を整えてから彼に会う。それが、私なりの彼への誠意であり、自分への敬意だった。
ドレッサーの前。 私は丁寧にファンデーションを塗り、眉を整える。 そして、バッグの奥ではなく、ドレッサーの一番手前に置いてあるルージュを手に取った。 キャップを外す。 艶やかなローズピンク。 以前は「派手すぎる」と躊躇った色が、今は不思議と馴染んで見える。 直接、唇に引く。 紅が唇の輪郭をなぞり、鮮やかな色が乗る。 鏡の中の私が、少しだけ微笑む。 隠す必要なんてなかったのだ。 誰に遠慮することもない。私は私であることを楽しんでいい。
仕上げに、少し大ぶりのピアスをつける。 準備は完了だ。 「行ってきます」 誰もいない、けれど愛梨の気配が残る部屋に声をかけ、私はドアを開けた。
*
十九時の図書館。 窓の外はまだ薄明るい。日が長くなった。 閲覧室に入ると、いつもの席に彼がいた。 私の足音に気づき、彼が顔を上げる。 そして、私の顔を見て、目が少し見開かれた。 眼鏡の奥の瞳が、眩しいものを見るように細められる。
私は彼の向かいの席に座った。 小さな声で会話を交わす。 「お待たせしました」 「いえ。……今日は一段と綺麗ですね」 ストレートな言葉に、頬が熱くなる。 「ルージュ、変えましたか?」 「いいえ。ずっと持っていたものです。ただ……隠すのをやめただけ」 私が答えると、彼は深く頷き、満足そうに口角を上げた。 「よく似合ってます。それが、本来のあなただ」
彼は読みかけの本を閉じた。 その本のタイトルは、もう『修理』に関する専門書ではなかった。 旅行雑誌だ。 「次は夏休みに、北海道なんてどうですか? 愛梨ちゃんも誘って」 「ふふ、いいですね。あの子、彼氏を連れてくるかもしれませんよ?」 「おっと、それは面接が必要だな。僕と恵さんの厳しい審査を通ってもらわないと」 冗談めかして笑う彼。 その笑顔を見ながら、私は思った。 人生は、修理できる。 どんなに錆びついても、部品が欠けても、磨いて、油を差して、新しいパーツを組み込めば、また動き出す。 しかも、新品の時より味わい深く、しなやかに。
閉館のアナウンスが流れる。 私たちは立ち上がり、並んで出口へと向かった。 自動ドアを出る。 夜風が心地よい。 彼が自然に手を差し出す。 私はその手を握る。 指と指が絡み合う。この感触は、もう「特別なこと」ではなく「当たり前のこと」になりつつあった。
「今日は、僕の家でご飯を食べませんか? いいワインが手に入ったんです」 「ええ、喜んで。何か作りますね。冷蔵庫にあるもので」 「助かります。僕のレパートリーは尽きたところなんで」
駅までの道を、二人で歩く。 街灯が二つの影を長く伸ばしている。 ふと、ショーウィンドウに映った自分たちの姿が目に入った。 そこに映っていたのは、疲れた中年男女ではない。 人生の第二章を、背筋を伸ばして歩く、お似合いのカップルだった。
バッグの中には、もうルージュは入っていない。 それは私の唇の上で、私の言葉と笑顔を彩っている。 金曜日の魔法は、もう解けない。 なぜなら、これは魔法ではなく、私が自分で選び取った現実だからだ。
「恵さん」 「はい」 「これからも、ずっと隣にいてください」 不意に彼が立ち止まり、真剣な顔で言った。 私は彼の手を両手で包み込み、満面の笑みで答えた。 「もちろんです。……修理が必要になるまで、いえ、修理が必要になっても、ずっと」
彼が破顔し、私の肩を抱き寄せた。 夜空を見上げると、一番星が輝いていた。 私は心の中で、遠く離れた娘に語りかける。 (愛梨、ママは今、とても幸せよ)
私たちは再び歩き出した。 繋いだ手と手。重なる足音。 物語はここで終わるけれど、私たちの人生はまだまだ続いていく。 鮮やかなルージュの色のように、情熱と、少しの慎ましさを胸に抱いて。
明日は土曜日。 ゆっくりと朝寝坊をして、二人でコーヒーを飲もう。 そんなささやかな約束が、今の私にとっては何よりの宝物だった。




