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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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20/20

人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。

最終章 金曜日のルージュは、唇の上に


 ゴールデンウィークの箱根は、目の覚めるような新緑に包まれていた。  旅館の窓を開けると、早川のせせらぎと、野鳥のさえずりが部屋に流れ込んでくる。  朝の光が、隣で眠る牧村さんの顔を優しく照らしていた。  眼鏡を外した彼の寝顔は、普段の職人然とした厳しさが消え、少年のように無防備だ。規則正しい寝息が、この空間の平穏さを証明している。


 私は布団から抜け出し、窓辺に立った。  昨夜の記憶が、甘やかな余韻となって蘇る。  重ねた肌の温もり。囁かれた言葉。そして、互いの孤独を埋め合うような深い抱擁。  四十五歳という年齢で、誰かをこんなにも愛おしいと感じ、誰かから求められる喜びを知るとは思わなかった。  身体の奥底にあった「女性」としての自信が、枯れた泉に水が満ちるように蘇っているのを感じる。


 スマホを見ると、愛梨から写真が届いていた。  大学のサークル仲間とバーベキューをしている写真だ。満面の笑みでピースサインをする娘。その隣には、少し背の高い男の子が映っている。 『彼氏できたかも(笑)』  短いメッセージに、私は微笑んだ。  娘もまた、自分の足で自分の人生を歩み始めている。もう、私が心配して先回りする必要はないのだ。


「……おはよう」  背後から、掠れた声がした。  振り返ると、牧村さんが目をこすりながら起き上がっていた。 「おはようございます。よく眠れました?」 「ええ。こんなに深く眠ったのは何年ぶりだろう。……恵さんが隣にいると、妙に安心するんです」  彼は布団から手を伸ばし、私の手首を掴んだ。 「こっちへおいで。まだチェックアウトまで時間がある」  引き寄せられ、私は再び彼の腕の中に包まれた。  旅館の浴衣の匂いと、彼の匂い。  これが、私の新しい「日常」になっていく。  その確信が、何よりも幸福だった。



 旅行から戻り、日常が再開した。  けれど、世界の色は以前とは違って見えた。  五月の半ば、金曜日。  仕事が終わると、私は一度家に帰り、着替えてから図書館へ向かうようになった。  もう、パン屋の制服のまま、疲れた顔で駆け込むことはしない。  一度リセットし、自分を整えてから彼に会う。それが、私なりの彼への誠意であり、自分への敬意だった。


 ドレッサーの前。  私は丁寧にファンデーションを塗り、眉を整える。  そして、バッグの奥ではなく、ドレッサーの一番手前に置いてあるルージュを手に取った。  キャップを外す。  艶やかなローズピンク。  以前は「派手すぎる」と躊躇った色が、今は不思議と馴染んで見える。  直接、唇に引く。  紅が唇の輪郭をなぞり、鮮やかな色が乗る。  鏡の中の私が、少しだけ微笑む。  隠す必要なんてなかったのだ。  誰に遠慮することもない。私は私であることを楽しんでいい。


 仕上げに、少し大ぶりのピアスをつける。  準備は完了だ。  「行ってきます」  誰もいない、けれど愛梨の気配が残る部屋に声をかけ、私はドアを開けた。



 十九時の図書館。  窓の外はまだ薄明るい。日が長くなった。  閲覧室に入ると、いつもの席に彼がいた。  私の足音に気づき、彼が顔を上げる。  そして、私の顔を見て、目が少し見開かれた。  眼鏡の奥の瞳が、眩しいものを見るように細められる。


 私は彼の向かいの席に座った。  小さな声で会話を交わす。 「お待たせしました」 「いえ。……今日は一段と綺麗ですね」  ストレートな言葉に、頬が熱くなる。 「ルージュ、変えましたか?」 「いいえ。ずっと持っていたものです。ただ……隠すのをやめただけ」  私が答えると、彼は深く頷き、満足そうに口角を上げた。 「よく似合ってます。それが、本来のあなただ」


 彼は読みかけの本を閉じた。  その本のタイトルは、もう『修理』に関する専門書ではなかった。  旅行雑誌だ。 「次は夏休みに、北海道なんてどうですか? 愛梨ちゃんも誘って」 「ふふ、いいですね。あの子、彼氏を連れてくるかもしれませんよ?」 「おっと、それは面接が必要だな。僕と恵さんの厳しい審査を通ってもらわないと」  冗談めかして笑う彼。  その笑顔を見ながら、私は思った。  人生は、修理できる。  どんなに錆びついても、部品が欠けても、磨いて、油を差して、新しいパーツを組み込めば、また動き出す。  しかも、新品の時より味わい深く、しなやかに。


 閉館のアナウンスが流れる。  私たちは立ち上がり、並んで出口へと向かった。  自動ドアを出る。  夜風が心地よい。  彼が自然に手を差し出す。  私はその手を握る。  指と指が絡み合う。この感触は、もう「特別なこと」ではなく「当たり前のこと」になりつつあった。


「今日は、僕の家でご飯を食べませんか? いいワインが手に入ったんです」 「ええ、喜んで。何か作りますね。冷蔵庫にあるもので」 「助かります。僕のレパートリーは尽きたところなんで」


 駅までの道を、二人で歩く。  街灯が二つの影を長く伸ばしている。  ふと、ショーウィンドウに映った自分たちの姿が目に入った。  そこに映っていたのは、疲れた中年男女ではない。  人生の第二章を、背筋を伸ばして歩く、お似合いのカップルだった。


 バッグの中には、もうルージュは入っていない。  それは私の唇の上で、私の言葉と笑顔を彩っている。  金曜日の魔法は、もう解けない。  なぜなら、これは魔法ではなく、私が自分で選び取った現実だからだ。


「恵さん」 「はい」 「これからも、ずっと隣にいてください」  不意に彼が立ち止まり、真剣な顔で言った。  私は彼の手を両手で包み込み、満面の笑みで答えた。 「もちろんです。……修理が必要になるまで、いえ、修理が必要になっても、ずっと」


 彼が破顔し、私の肩を抱き寄せた。  夜空を見上げると、一番星が輝いていた。  私は心の中で、遠く離れた娘に語りかける。  (愛梨、ママは今、とても幸せよ)


 私たちは再び歩き出した。  繋いだ手と手。重なる足音。  物語はここで終わるけれど、私たちの人生はまだまだ続いていく。  鮮やかなルージュの色のように、情熱と、少しの慎ましさを胸に抱いて。


 明日は土曜日。  ゆっくりと朝寝坊をして、二人でコーヒーを飲もう。  そんなささやかな約束が、今の私にとっては何よりの宝物だった。


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