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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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人生の第二章を歩み始める、日常の綻びを希望へ変える、大人の再生の物語。

第二章 レモンの匂いとほどけた靴紐


 土曜日のリビングには、甘酸っぱいレモンの匂いが充満していた。  愛梨が朝からキッチンを占拠し、大量のレモンを輪切りにしているせいだ。「蜂蜜レモン」を作るのだという。受験勉強の糖分補給という名目だが、その鼻歌交じりの背中を見れば、本当の目的が別にあることは明白だった。


「ねえママ、タッパーどこ? 一番大きいの」 「シンクの下の引き出し。……随分たくさん作るのね」  洗濯物を畳みながら私が尋ねると、愛梨は振り返りもせず、弾むような声で答えた。 「うん。塾のみんなで食べるから。あ、あとね、佐久間先生にもあげるの。先生、最近喉の調子悪いみたいでさ」  佐久間先生。  ここ一ヶ月、我が家の食卓で最も頻繁に登場する名前だ。塾の英語講師で、現役の大学院生らしい。二十四歳。愛梨より六歳年上。 「先生って、生徒からの差し入れなんて食べてくれるの?」 「平気だよ。佐久間先生、超フランクだし。それに『愛梨ちゃんの蜂蜜レモンなら元気出るなー』って、先週言われたし!」  包丁を握る手が踊っている。恋をしている人間のエネルギーというのは、どうしてこうも無尽蔵なのだろう。徹夜で勉強していたはずなのに、彼女の肌は発光し、瞳は未来への希望で潤んでいる。    私は、夫のYシャツ――ではなく、自分のブラウスのシワをアイロンで伸ばしながら、ふっと息を吐いた。  若い頃の恋は、足し算だ。  好きな人ができた。話ができた。目が合った。そんな小さな出来事を一つずつ積み上げて、世界がどんどんカラフルになっていく。  対して、四十五歳の恋は――もし、あの感情を恋と呼ぶのなら――引き算かもしれない。  傷つきたくない。生活を壊したくない。面倒なことになりたくない。そうやって感情を引いて、引いて、最後に残った微かな温もりだけを、手のひらで包んで守っている。


「ママも食べる? 端っこ余ったけど」 「いただくわ」  差し出されたレモンの切れ端を口に含む。強烈な酸味が舌を刺激し、遅れて蜂蜜の甘さが広がる。  眩しい味だと思った。  私にはもう、この直球の甘酸っぱさは、少し胃に重たいかもしれない。



 週が明け、水曜日。  朝から細かい雨が降っていた。  低気圧のせいか、古傷の偏頭痛がこめかみを鈍く叩く。事務のパート先では、月末処理の数字が合わず、三回も計算をやり直す羽目になった。 「宮本さん、細かい字、見えづらくなってきた?」  悪気のない上司の言葉に、「そうですね、老眼かしら」と自虐で返しながら、デスクの下で拳を握りしめる。見えづらいのは目のせいじゃない。集中力が続かないのだ。更年期の入り口特有の、泥の中を歩くような倦怠感が、私の思考を鈍らせている。


 午後のパン屋のバイトでも、トラブルは続いた。  新人の学生バイトが無断欠勤をし、その穴埋めで休憩なしの五時間立ちっ放し。ようやく客足が途絶えた頃には、足の感覚がなくなっていた。 「宮本さん、ごめんねえ。これ、売れ残りだけど持って帰って」  店長がクロワッサンを三つ、ビニール袋に入れて渡してくれた。 「ありがとうございます。娘が喜びます」  笑顔を作ったが、顔の筋肉がひきつっているのが自分でもわかった。  売れ残りのパン。  ふと、自分と重ねてしまう。  誰にも選ばれず、時間が経って少し硬くなり、値引きされて誰かの手に渡るのを待っている。  そんな卑屈な考えが浮かぶ時は、心が弱っている証拠だ。


 店を出ると、雨は小降りになっていたが、アスファルトは黒く濡れていた。  バスに乗ろうか迷ったが、節約のために二駅分歩くことにした。  商店街のアーケードを抜け、住宅街へと続く裏道を歩く。ここは普段あまり通らない道だ。少し遠回りになるが、信号が少なくて歩きやすい。  濡れた路面に街灯が反射してキラキラと光っている。  その光の先、一軒の小さな店のシャッターが半分開いているのが見えた。 『修理工房 マキムラ』  手書きの看板がかかっている。靴や鞄、傘、時計などの修理を請け負う店らしい。ガラス戸の向こうに、作業台に向かう人影が見えた。


 何気なく目をやった瞬間、私の足が止まった。  心臓が、肋骨を内側から叩いた。  作業用エプロンを着け、拡大鏡を目に当てて、何かの部品をいじっている男性。  白髪混じりの短髪。縁の太い眼鏡。  ――彼だ。  図書館の彼だ。


 間違いようがなかった。本を読んでいる時の、あの静かな横顔と同じだ。  今は手元に強いライトを当て、ピンセットのようなもので時計のムーブメントと格闘している。  図書館にいる時の、どこか世捨て人のような穏やかな雰囲気とは違い、職人の鋭い眼差しをしていた。眉間に深く刻まれた皺が、彼の真剣さを物語っている。


 私は電信柱の影に身を隠した。  見てはいけないものを見てしまったような、それでいて、宝の地図の在り処を偶然見つけてしまったような高揚感。  彼は修理屋だったのか。  この町で、壊れたものを直して生きているのか。  独りなのだろうか。店の奥に、奥さんがいて「あなた、お茶よ」なんて声をかけたりするのだろうか。  生活の匂いを感じた途端、彼という存在が急に生々しい質量を持って私に迫ってきた。


 その時、不意に彼が顔を上げ、ガラス戸の向こうから通りを見やった。  私は慌てて顔を伏せ、早足でその場を立ち去った。  ビニール袋の中のクロワッサンが、カサカサと音を立てる。  逃げる必要なんてないのに。ただの通りすがりの他人なのに。  心臓の音が耳元でうるさいほど鳴っていた。


 家に帰り着くまで、私の頭の中は『修理工房 マキムラ』という文字で埋め尽くされていた。  マキムラさん。  名前を知ってしまった。  記号だった彼に、固有名詞がついた。  それは、物語が始まってしまう合図のように思えた。



 玄関を開けると、またしても愛梨はいなかった。今日は自習室で遅くなると連絡があったのを思い出す。  一人きりの夕食。店長にもらったクロワッサンと、昨日の残りのシチューを温める。  テーブルに座り、パンをちぎる。  バターの香りに混じって、先ほどの光景がフラッシュバックする。  作業台に向かう彼の、節くれだった指先。  図書館で見かける彼の手は、いつも本を優しく支えている。でも、仕事をする彼の手は、何かを「治そう」としていた。  壊れた時間や、すり減った靴底を、再び動かすために。


 ふと、自分の足元を見る。  安物のパンプスの踵が、少し削れているのが見えた。  そして、パート用のトートバッグの持ち手も、糸がほつれてきている。  私の周りには、直すべきものがたくさんある。  物だけじゃない。  離婚してからの五年間、私は何かを「直す」ことができただろうか。  ただ時間をやり過ごし、傷口に絆創膏を貼って、見ないふりをしてきただけではないだろうか。


 ポケットの中で、スマートフォンが震えた。  画面を見ると『元夫』の文字。  一瞬、出るのを躊躇ったが、愛梨のことかもしれないと思い、通話ボタンを押した。 「……もしもし」 『あ、恵か。久しぶり』  五年経っても変わらない、少し鼻にかかった声。かつては好きだったその声が、今は神経を逆撫でするノイズにしか聞こえない。 『今月の養育費、振り込んだから』 「ええ、確認しておくわ。ありがとう」 『愛梨はどうだ? 受験だろう。金は足りてるか? 夏期講習とか』 「大丈夫よ。あなたには決まった額をもらえればそれでいいから」  事務的な会話。感情の入る隙間などない。 『そうか。まあ、頑張れよ。じゃあな』  プツン、と電話が切れる。  「頑張れよ」。その無責任な四文字が、私の中に澱のように沈殿する。  私はもう十分頑張っている。これ以上、どう頑張れと言うの。


 スマホをテーブルに放り投げ、クロワッサンを口に押し込む。  喉が詰まりそうで、シチューで流し込んだ。  温かいはずのシチューが、砂の味がした。  寂しいわけじゃない。不幸だとも思っていない。  ただ、誰かに「大丈夫?」と聞かれたかった。  「頑張れ」ではなく、「休んでいいよ」と言ってくれる誰か。  壊れた私を、丁寧に修理してくれる誰か。


 脳裏に、あの修理工房の温かい色の灯りが浮かんだ。  マキムラさん。  あなたは、人の壊れた心までは直せないでしょうね。  自嘲気味に笑い、私は立ち上がって食器をシンクに運んだ。


 金曜日まで、あと二日。  いつもより長く感じる一週間になりそうだ。  私は洗い物をしながら、無意識のうちにカレンダーの日付を目で追っていた。  金曜日の欄に、赤ペンで小さな丸印がついている。  それはゴミ出しの日であり、図書館への返却期限日であり――そして、私が魔法をかける日だ。


 玄関でガチャリと鍵が開く音がした。 「ただいまー! ママ、聞いて! 佐久間先生がね!」  弾丸のように飛び込んできた愛梨の声が、静寂を破る。  私は濡れた手を拭き、「おかえり」と振り返る。  娘の頬はバラ色に染まり、私の頬は疲労でくすんでいる。  けれど、不思議と嫉妬はなかった。  私には私の、密やかな楽しみがある。  金曜日、バッグの奥のルージュを取り出すその瞬間。  それだけで、私はまだ戦える。


 ほどけた靴紐を結び直すように、私は心の中で金曜日へのカウントダウンを始めた。


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