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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。

第十九章 めまいがするほどの自由と助手席の風景


 四月に入り、桜前線が北上するのと入れ替わるように、新緑の季節がやってきた。  愛梨がいなくなって二週間。私の生活は劇的に変化していた。  朝、お弁当を作る必要がない。夕方、スーパーに駆け込んで特売の肉を奪い合う必要もない。洗濯機を回すのは二日に一回で十分だし、お風呂掃除もあっという間に終わる。  時間が、余っていた。  かつては喉から手が出るほど欲しかった「自由な時間」。それがいざ手に入ると、どう扱っていいのかわからず、私は広くなったリビングで途方に暮れていた。  これを「自由」と呼ぶのか、それとも「空白」と呼ぶのか。  贅沢な悩みだと自嘲しながら、私は丁寧に淹れたコーヒーを一人ですする毎日を送っていた。



 そんなある金曜日。  図書館での定例デート――と言っても、本を読んで少し話すだけだが――の帰り道、牧村さんが言った。 「明日は晴れるみたいですね」 「ええ、暖かくなるって予報でした」 「恵さん、明日は何か予定ありますか?」 「いえ、特には。……掃除くらいしか」  私が答えると、彼は少し悪戯っぽく眼鏡のブリッジを指で押し上げた。 「じゃあ、掃除はサボりましょう。海を見に行きませんか」 「海?」 「ええ。僕の車、冬の間メンテナンスしてたんですが、そろそろ長距離を走らせてやりたくて。テスト走行の助手席に乗ってくれる人が必要なのりです」  口実は「車のテスト」だが、それがデートの誘いであることは明白だった。  愛梨がいない今、私には門限もなければ、「娘の夕飯」という鎖もない。 「……喜んで。お供します」  私は深く頷いた。



 翌土曜日の朝九時。  マンションの前に、一台の車が滑り込んできた。  モスグリーンの、少し古い型のセダン。ピカピカに磨き上げられ、太陽の光を浴びて輝いている。  運転席から降りてきた牧村さんは、淡いブルーのシャツにサングラスという、いつもより少しラフで若々しい出で立ちだった。 「おはようございます。お待たせしました」  彼が助手席のドアを開けてくれる。 「おはようございます。素敵な車ですね」 「二十年落ちのポンコツですが、エンジンだけは元気です」    乗り込むと、車内には古い革と、微かなガソリンの匂いがした。  彼の匂いと同じだ。  シートベルトを締めると、身体がシートに沈み込む。  助手席。  誰かの運転する車の隣に座るなんて、何年ぶりだろう。元夫の運転は荒くていつも緊張していたけれど、牧村さんの運転は驚くほど滑らかだった。  発進する時も、ブレーキを踏む時も、衝撃がほとんどない。機械をいたわるように、そして乗せている人を守るように、彼はハンドルを握っていた。


 車は市街地を抜け、海沿いのバイパスへと入った。  カーステレオからは、ビル・エヴァンスのピアノが流れている。 「愛梨ちゃん、元気にしてますか?」  ハンドルを握ったまま、彼が尋ねた。 「ええ、なんとか。昨夜電話したら、『自炊が面倒くさい』って愚痴ってました」 「はは、最初の壁ですね。でも、あの子ならすぐに要領を覚えますよ」 「そうだといいんですけど。……なんか、不思議です」 「何が?」 「こうして、天気のいい日に、自分の楽しみのためだけに外に出ていることが。今までは、どこにいても頭の片隅で『帰らなきゃ』って思ってましたから」  窓の外を流れる海を見ながら、私は呟いた。  キラキラと光る水面。  その眩しさが、今の私の心境と重なる。  めまいがするほどの自由。  枷が外れた身体は軽すぎて、風に飛ばされてしまいそうだ。  でも、隣に彼がいることで、私はこの地上に繋ぎ止められている。


「これからは、それが普通になりますよ」  彼が言った。 「第二章は、自分を甘やかす章です。今まで頑張った分、利子がついて戻ってくる時間だと思ってください」 「自分を甘やかす……できるかしら」 「僕が手伝います。甘やかし方は得意ですから」  彼はサングラス越しに私を見て、ニッと笑った。


 一時間ほど走り、私たちは岬の先端にある灯台公園に到着した。  車を降りると、潮の香りが全身を包んだ。  風が強い。  私の髪が乱れるのを、彼が自然に直してくれた。  その指先が頬に触れる。  鼓動が早くなる。  誰も見ていない。愛梨もいない。  私たちは、ただの男と女としてここに立っている。


「歩きましょうか」  彼が手を差し出した。  私はその手を握り返す。  もう、ポケットの中や、人目を避けた暗がりである必要はない。  太陽の下、堂々と手を繋ぐ。  掌の温もりが、海風の冷たさを中和してくれる。


 灯台の下のベンチに座り、彼が持参した魔法瓶のコーヒーを飲んだ。  目の前には水平線が広がっている。 「恵さん」 「はい」 「ゴールデンウィークの旅行ですが」  彼が海を見つめたまま切り出した。 「一泊で、温泉宿を予約しようと思います。……部屋は、一緒でいいですか?」  心臓がトクンと跳ねた。  部屋が一緒。  それは、大人の関係としての確認事項だ。  恥じらいがないわけではない。四十五歳の身体を見せることへの躊躇いもある。  けれど、それ以上に、彼ともっと深く繋がりたいという思いが勝っていた。


「……はい。お願いします」  小さな声で答えると、彼の手が私の手をギュッと強く握った。 「ありがとう。……絶対に、大切にします」  その言葉は、まるで誓いのようだった。  修理屋の彼が言う「大切にする」という言葉の重みを、私は誰よりも知っている。  壊さないように、長く使い続けられるように、愛着を持って接するということ。


 帰り道、私は助手席で少しウトウトしてしまった。  目が覚めると、車は夕暮れの街を走っていた。  信号待ちで、彼が自分のジャケットを私にかけてくれていたことに気づく。 「ごめんなさい、寝ちゃって……」 「いいえ。助手席で寝てもらえるのは、運転手への信頼の証ですから」  彼は優しく微笑んだ。


 マンションの下まで送ってもらう。  以前なら「早く帰らなきゃ」と慌ただしく降りていた場所。  今は、名残惜しさが募る場所。 「今日はありがとうございました。すごく楽しかったです」 「僕もです。来週は、旅行の計画を詰めましょう」 「はい」


 車を見送る。  テールランプの赤い光が遠ざかっていく。  部屋に戻ると、一人の静寂が待っていた。  でも、朝の静寂とは違って感じられた。  身体に残る潮の香り。手に残る彼の体温。  それらが、部屋の空気を温めてくれている。


 私は洗面所に行き、顔を洗った。  鏡の中の自分を見る。  日焼け止めは塗っていたけれど、少し鼻の頭が赤い。  そして、目が輝いている。  これは「お母さん」の顔じゃない。「恋をしている女性」の顔だ。    バッグの奥のルージュを取り出し、ドレッサーの一番手前に置いた。  もう、バッグの奥に隠す必要はない。  これからは、私が私の人生の主役として、堂々とこの色を纏って生きていくのだ。


 スマホが震える。 『無事、着きましたか? 今日は助手席に乗ってくれてありがとう。隣にあなたがいてくれる景色が、僕の新しい日常になりそうです』  牧村さんからのメッセージ。  私は幸せを噛み締めながら返信を打った。 『私もです。助手席からの景色、とても綺麗でした』


 第二章は、まだ始まったばかり。  でも、きっと素敵な物語になる。  私はルージュのキャップを撫で、明日への期待を胸に眠りについた。


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