人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。
第十八章 桜の雨と静まり返った鍵穴
三月三十一日。 天気予報は晴れだったけれど、風が強く、満開を迎えた桜の花びらが街中に舞い散る日だった。 トラックのバックドアが重々しい音を立てて閉まる。 我が家のリビングから、家具という家具が消えた。残されたのは、埃の塊と、カーテンレールに残った数個のフック、そしてガランとした空間だけだった。
「じゃあママ、鍵閉めて。行くよ」 愛梨は新しいスニーカーを履き、リュックを背負って立っていた。その顔は、期待と不安がない交ぜになった、見たことのない大人の表情をしていた。 「ええ。忘れ物ない?」 「ないよ。三回確認した」 私は空っぽになった部屋をもう一度見渡した。 愛梨が赤ちゃんの頃にハイハイをしたフローリングの傷。身長を刻んだ柱の跡。反抗期に物を投げて凹んだ壁。 十八年分の生活の記憶が、家具がなくなったことで逆に鮮明に浮かび上がってくる。 「……よし、行こう」 私は努めて明るい声を出し、玄関の鍵をかけた。 ガチャリ。 その金属音が、第一章の終わりの合図のように聞こえた。
*
電車で二時間。愛梨の新居は、大学から徒歩十分の場所にあるワンルームマンションだ。 六畳一間と小さなキッチン。ユニットバス。 狭いけれど、日当たりは良い。 引越し業者が荷物を運び入れ、嵐のように去っていくと、部屋の中は段ボールの山で埋め尽くされた。 「さあ、やるわよ。今夜寝る場所だけでも確保しないと」 私たちは腕まくりをして、荷解きに取り掛かった。
ここで活躍したのが、牧村さんからのプレゼントだった。 愛梨はピンク色のドライバーセットを取り出し、カラーボックスやベッドの組み立てを始めた。 「これ、超使いやすい! グリップが手に馴染むし、力が入れやすい!」 愛梨は職人のように手際よくネジを締めていく。 「さすが牧村さん。女の人の握力のことわかってるわー」 その姿を見ながら、私は密かに安堵していた。 この子は大丈夫だ。道具一つで楽しみを見つけ、自分の城を築いていける。
夕方近くになり、部屋はようやく人の住める形になった。 窓の外は茜色に染まっている。 別れの時間が近づいていた。 「……そろそろ、帰るわね」 私が言うと、愛梨の手が止まった。 「うん。……電車の時間、大丈夫?」 「ええ。まだ余裕あるけど、暗くなる前に」 長居をすればするほど、帰るのが辛くなる。それは愛梨も同じだろう。
駅の改札まで、愛梨が見送りに来てくれた。 知らない街の、知らない駅。ここが明日から、娘の日常になる場所。 「ママ」 改札の前で、愛梨が立ち止まった。 「気をつけて帰ってね。あと、ちゃんと鍵かけて寝てよ」 「わかってるわよ。愛梨こそ、戸締りしっかりね。チェーンもかけるのよ」 「はいはい」 いつもの軽口。でも、お互いの目は潤んでいた。 「じゃあね。ゴールデンウィークには帰るから」 「うん。待ってる。ご飯、いっぱい作って待ってるから」
愛梨が手を振る。 私は改札を抜け、何度も振り返りながらホームへの階段を上がった。 姿が見えなくなった瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになった。 置いてきてしまった。 あんな小さな部屋に、大事な娘を一人置いてきてしまった。 電車が来るまでの数分間、私はホームのベンチで鼻を啜り続けた。 桜の花びらが、風に乗ってホームに舞い込んでくる。 桜の雨。 それは門出を祝う紙吹雪のようで、今の私には少しだけ残酷な景色だった。
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自宅に着いたのは、二十時を回っていた。 「ただいま」 誰もいない玄関に向かって言う。 返事はない。 靴を脱ぎ、リビングに入る。 そこは、朝に出た時と同じ静寂に包まれていた。 ただ、愛梨の荷物がなくなった分、空間が広がり、私の足音がやけに響く。 ソファに座る。 いつもならテレビの音がして、ドライヤーの音がして、愛梨の笑い声がする時間だ。 シーンとしている。 冷蔵庫のモーター音だけが、ブーンと低く唸っている。
これが、これからの私の日常。 自由だ。誰に気兼ねすることなく、好きな時にお風呂に入り、好きなものを食べられる。 でも、この自由は、なんて冷たくて重いんだろう。 「空の巣症候群」。 知識としては知っていたけれど、これほどまでに心に穴が開くものだとは。 缶ビールを開ける気にもなれず、私は薄暗い部屋で膝を抱えた。 涙は出なかった。ただ、身体の中身が空っぽになったような虚脱感だけがあった。
その時。 テーブルの上でスマホが震えた。 着信。『牧村さん』。 画面の光が、暗闇の中で灯台のように見えた。 「……もしもし」 声が掠れる。 『おかえりなさい、恵さん。無事、着きましたか?』 彼の声を聞いた瞬間、せき止めていた感情が喉の奥から込み上げてきた。 「……はい。今、帰りました」 『愛梨ちゃん、泣いてませんでしたか?』 「泣いてませんでしたよ。強がりだから。……泣いてたのは私だけです」 自嘲気味に言うと、彼は優しく笑った。 『当然です。片腕をもがれたようなもんでしょうから』 彼の言葉選びは、いつも独特で、でも的確だ。 そう、身体の一部がなくなったような喪失感だ。
『今、電気つけてますか?』 「え? いえ、暗いままです。なんとなく、つける気になれなくて」 『つけてください。一番明るいやつを』 彼の強い口調に促され、私はリモコンに手を伸ばした。 パッ。 蛍光灯の白い光が部屋を満たす。 広すぎる部屋が、あからさまに照らし出される。 「……つけました。余計に寂しいです」 『そうかもしれない。でもね、暗闇にいると、寂しさはカビみたいに増殖するんです。光を当てて、消毒しないと』 修理屋の理屈だ。 でも、確かに光の中にいると、少し背筋が伸びる気がした。
『恵さん。窓を開けて、空を見てください』 言われるままにカーテンを開け、窓を開ける。 夜風が入り込む。桜の花びらが一枚、網戸に張り付いた。 『月が見えますか?』 「はい。半分くらいの月が」 『僕も見ています。工房の窓から』 繋がっている。 同じ月を見ている。 『愛梨ちゃんも、きっと見てますよ。初めての一人暮らしの夜、不安で空を見上げてるはずだ』 「……そうですね。あの子も」 『みんな、同じ空の下です。離れていても、同じ月を見て、同じ風を感じてる。だから、完全な一人ぼっちじゃない』
彼の静かな声が、空っぽになった私の心に、少しずつ温かい液体のように注ぎ込まれていく。 『今日はもう、何もせず寝てください。明日はまた、新しい朝が来ます』 「はい……。牧村さん」 『ん?』 「ありがとうございます。……声が聞けて、救われました」 『僕もです。あなたの声が聞きたかった』
通話を切った後、私はしばらく月を見上げていた。 静寂は変わらない。部屋も広いままだ。 けれど、もう冷たくはなかった。 スマホを胸に抱きしめる。 この静けさは「孤独」ではなく、「休息」なのだと思えるようになった。 十八年間走り続けた私への、神様からの静かなプレゼント。
私はキッチンへ行き、お湯を沸かした。 温かいハーブティーを淹れる。 一人分のカップ。 その湯気を見つめながら、私は小さく呟いた。 「おやすみ、愛梨」 そして、心の中で付け加える。 「おやすみ、牧村さん」
明日は金曜日ではないけれど、少しお洒落をしてパン屋に行こう。 誰のためでもなく、私自身のために。 桜の雨が止み、静かな夜が、優しく私を包み込んでくれた。




