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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。

第十七章 段ボールの迷路と猫のいる屋根裏


 三月半ば。我が家のリビングは、茶色の迷路と化していた。  積み上げられた段ボール箱の塔。ガムテープの裂ける音。そして、部屋の隅に追いやられた古着や雑誌の山。  愛梨の進学先は、自宅から電車で二時間ほどの場所にある国立大学に決まった。通えない距離ではないが、朝練のあるサークルに入りたいという本人の希望と、自立させたいという私の思いが一致し、大学近くのアパートで一人暮らしをすることになったのだ。


「ねえママ、このフライパン持ってっていい? どうせママ、一人なら小さいので十分でしょ」  愛梨がキッチンから顔を出す。 「いいけど……それ、焦げ付きやすいわよ。新しいの買ってあげるって言ったじゃない」 「使い慣れてるのがいいの。それに、ママの料理の匂いが染み付いてる気がするし」  そんな殊勝なことを言いながら、愛梨はテキパキと調理器具を新聞紙に包んでいく。  娘の成長は嬉しい。けれど、箱詰めされていく家財道具を見るたびに、私の心の一部も切り取られていくような痛みが走る。  来月からは、この広いリビングに私一人。  洗濯物の量は半分になり、お風呂のお湯も減り、冷蔵庫の中身もスカスカになるだろう。  その「空白」を埋める術を、私はまだ持っていなかった。



 そんな引越し準備の合間を縫って、私はある場所へと向かっていた。  牧村さんの家だ。  正確には、彼の工房の二階にある自宅スペース。  「猫に会いに来ませんか。愛梨ちゃんがいなくなると寂しくなるでしょうから、予行演習です」  そんな彼の誘いに、私は二つ返事で頷いた。  外で食事をするのとは訳が違う。彼の生活の場、聖域サンクチュアリに足を踏み入れるのだ。  私は手土産に、駅前のケーキ屋でシュークリームを買った。彼の好みがわからなかったので、カスタードと生クリーム、二種類ずつ。


 日曜日の午後。  工房のシャッターは半分閉まっていた。  教えられた通り、脇にある勝手口のインターホンを押す。  ピンポーン。  すぐにドアが開き、普段着のスウェット姿の牧村さんが現れた。 「いらっしゃい。散らかってますけど、どうぞ」  彼は少し照れくさそうに髪を掻きながら、私を招き入れた。


 細い階段を上がると、そこには秘密基地のような空間が広がっていた。  壁一面の本棚には、古い海外小説や技術書がぎっしりと並んでいる。窓際には年代物のレコードプレーヤー。そして部屋の中央には、使い込まれた革張りのソファ。  男の一人暮らし。  雑然としているけれど、不思議と居心地の良さを感じるのは、彼の工房と同じ匂い――革とコーヒーの香り――がするからだろうか。


「ここが、牧村さんの……」 「むさ苦しいでしょう。掃除はしたんですが、物が減らなくて」  彼がキッチンでコーヒーを淹れ始めた。  その時、ソファの陰から何かが動く気配がした。  グレーの毛並み。金色の瞳。  猫だ。


「あ、ネジちゃん」  私が声をかけると、猫は「ニャッ」と短く鳴き、警戒するように距離を取った。 「ネジ、挨拶しろ。お客さんだぞ」  コーヒーカップを持った牧村さんが戻ってくる。 「人見知りなんです。僕以外の人をここに入れるのは久しぶりだから」  私はソファに座り、姿勢を低くして指先を差し出した。  無理に触ろうとはしない。猫のペースに合わせる。  ネジはしばらく私を観察していたが、やがてゆっくりと近づいてきて、私の指先の匂いを嗅いだ。  クンクン。  湿った鼻先の感触。  そして、私の指に頭を擦り付けてきた。 「……受け入れられたみたいですね」  牧村さんが驚いたように言った。 「恵さん、猫に好かれる匂いがするのかな。それとも、優しい人だってわかったのか」  私はネジの柔らかい毛並みを撫でながら、胸が温かくなるのを感じた。  彼の大切な家族に認められた。それが何よりの歓迎だった。


 私たちはコーヒーとシュークリームを囲み、窓から差し込む春の陽射しの中で語り合った。 「引越し準備、進んでますか?」  彼が尋ねる。 「ええ、もう戦争です。愛梨ったら、何でも持っていこうとするんです。私の古いドライヤーまで」 「それは、不安だからですよ」  彼はコーヒーを一口飲んだ。 「新しい生活への期待もあるけど、やっぱり怖いんです。だから、実家の匂いがするものを身の回りに置きたい。お守りみたいなものです」 「……そうでしょうか」 「間違いありません。僕も昔、実家を出る時に親父の金槌を一本くすねてきましたから」  彼の言葉に、私は思わず笑ってしまった。


「寂しくなりますね」  ふと、彼が真面目な顔で言った。 「はい。想像するだけで、部屋が広すぎて寒気がします」 「なら、ここに来ればいい」  彼は真っ直ぐに私を見た。 「ここなら、ネジもいるし、僕もいる。コーヒーも淹れるし、話し相手にもなる。……部屋は狭いけど、寂しくはないはずです」


 その言葉は、どんなプロポーズよりも今の私に響いた。  「一緒に住もう」という性急な提案ではない。  「逃げ場所があるよ」という、大人の距離感を保った優しさ。  それが心地よかった。


「……ありがとうございます。入り浸っちゃうかもしれませんよ?」 「大歓迎です。ネジも喜ぶ」  牧村さんは足元で丸くなっているネジを撫でた。  私も手を伸ばし、彼の手の隣で猫を撫でる。  指と指が触れ合う。  自然と、彼の手が私の手を包み込んだ。  屋根裏部屋のような静かな空間。  ここには、誰の目も気にする必要のない、二人だけの時間が流れていた。



 夕方、私は彼の家を辞した。  帰り際、彼が小さな紙袋を持たせてくれた。 「これ、愛梨ちゃんに。引越し祝い」 「えっ、そんな……」 「中身は大したもんじゃありません。工具セットです」 「工具セット?」 「一人暮らしを始めたら、何かと必要になります。家具の組み立てとか、緩んだネジを締めるとか。女の子一人でも使いやすい、軽いやつを選んでおきました」  どこまでも実用的で、そしてどこまでも彼らしい贈り物。 「ありがとうございます。愛梨、絶対に喜びます」


 家に戻ると、リビングは相変わらず段ボールの山だった。  でも、行く時のような閉塞感はなかった。 「ただいま」 「おかえりー。どこ行ってたの?」  段ボールと格闘していた愛梨が顔を上げる。 「ちょっとね。……はい、これ、牧村さんから」  紙袋を渡す。  中を見た愛梨が、「うわっ、マジで!?」と声を上げた。 「すっげー! ピンクのドライバーセットじゃん! これ欲しかったんだよね、家具組み立てるのに!」  愛梨は目を輝かせた。 「あの人、本当わかってるわー。彼氏にするならこういう人がいいわー」 「ちょっと、私の彼氏よ」  思わず口にしてしまい、ハッとする。  愛梨はニヤリと笑った。 「認めたね? ようやく」 「……うるさい」  顔が赤くなるのがわかる。


 その夜、私は愛梨と一緒に引越しの荷造りを続けた。  段ボールにガムテープを貼る音が、リズミカルに響く。  寂しさは、まだある。  けれど、私には帰る場所がある。  猫のいる屋根裏部屋。コーヒーの香り。そして、私の手を握ってくれる大きな手。


 愛梨が巣立った後も、私の人生は続く。  それは「余生」ではなく、新しい「本編」なのだ。  段ボールの山を見上げながら、私は牧村さんの家の、西日に照らされたソファを思い出していた。  そこは、私の新しい居場所になるかもしれない。  そんな予感に、胸が少しだけ高鳴った。


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