人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。
第四部:春の陽射しと解かれたリボン
第十六章 最後の制服と十八年分の卒業証書
三月一日。 カレンダーの数字が、春の始まりを告げている。 私はクローゼットの奥から、黒のフォーマルスーツを取り出した。三年前の入学式以来、袖を通していなかったものだ。 鏡の前で着てみる。ウエストが少しきつい気がするが、なんとかファスナーは上がった。コサージュは、派手すぎない淡いベージュのものを選ぶ。 今日は、愛梨の高校卒業式だ。
キッチンに立ち、いつも通り朝食の準備をする。 トースターがチンと鳴り、香ばしい匂いが漂う。 バタバタと階段を降りてくる音。 「おはよー。ママ、今日私のリボン知らない? 一番いいやつ」 愛梨が髪を振り乱して入ってくる。 見慣れたブレザー姿。少し短くなったスカート。擦り切れた袖口。 この制服姿を見るのも、今日が最後なのだと思うと、フライパンを持つ手が止まりそうになった。 「ソファの上にあったわよ。……愛梨、髪、少し巻いた?」 「うん。最後だしね。写真いっぱい撮るし」 愛梨はトーストをかじりながら、手際よくリボンを結んだ。 その背中は、入学した頃よりも随分と大きくなり、頼もしくなった。
離婚してからの五年間、私はこの背中を必死で守ってきたつもりだった。 けれど、守られていたのは私の方だったのかもしれない。 愛梨がいてくれたから、私は朝起きることができた。ご飯を作ることができた。働きに出ることができた。 娘という存在が、私の人生の錨だった。
「行ってきます! ママ、後でね!」 愛梨が玄関を飛び出していく。 「行ってらっしゃい」 静まり返ったリビング。 私はコーヒーを一口飲み、化粧ポーチを開けた。 今日ばかりは、ウォータープルーフのマスカラにしておこう。絶対に泣いてしまう自信があったから。
*
体育館は、厳粛な空気に包まれていた。 パイプ椅子の冷たさ。紅白の幕。演台に飾られた大きな花瓶。 保護者席から見る卒業生たちの背中は、どれも同じ紺色に見えるけれど、私には愛梨の後ろ姿がすぐにわかった。 少し猫背で、時々髪を耳にかける癖。
式が進む。 名前が呼ばれる。 「宮本愛梨」 「はい!」 凛とした、よく通る声が響いた。 愛梨が起立する。 その瞬間、走馬灯のように記憶が溢れ出した。 夜泣きが止まらなくて途方に暮れた夜。 初めて「ママ」と呼んでくれた日。 離婚を告げた時、「パパいなくても平気だよ」と強がって見せた小学生の顔。 そして、受験勉強でボロボロになりながらも、新しい靴底で立ち上がった冬の日。
涙が頬を伝う。 ハンカチで押さえるけれど、止まらない。 隣の席のお母さんも泣いていた。 みんな、戦ってきたのだ。子育てという、正解のない長い戦いを。 十八年。 長かったような、一瞬だったような十八年。 私、頑張ったよね。 誰に言うでもなく、心の中で自分に語りかける。 欠陥だらけの母親だったかもしれないけれど、娘はこんなに立派に育ってくれた。それだけで、私の人生は百点満点だ。
式が終わり、教室でのホームルームも解散になった。 校庭には、名残を惜しむ生徒たちと保護者の輪ができている。 スマホカメラのシャッター音がそこかしこで鳴る。 「ママー!」 卒業証書の筒を持った愛梨が、友達数人と一緒に駆け寄ってきた。 「来てくれてありがと! ねえ、みんなと写真撮って!」 私はカメラマン役として、愛梨と友達の笑顔を何枚も収めた。 みんな、キラキラとしていて眩しい。未来への希望だけで構成されているような笑顔だ。
一通り撮影が終わり、友達が去っていくと、愛梨が私の前に立った。 「……ママ」 愛梨が少し照れくさそうに、卒業証書の筒をいじった。 「なに?」 「あのさ。……十八年間、ありがとね」 不意打ちだった。 「パパと別れてから、ママすっごい大変だったと思う。お金のこととか、私の反抗期とか。……私、ママの子でよかったよ」 愛梨の目が潤んでいる。 「これからはさ、もっと自分のために生きていいから。私のことはもう大丈夫だから」 涙腺が決壊した。 もう、親としての威厳も何もない。私は愛梨を抱きしめて、子供のように泣いた。 「……ありがとう。愛梨がいたから、ママは幸せだったよ」 春の風が吹いた。 校庭の桜の蕾はまだ固いけれど、私たちの心には満開の花が咲いていた。
*
愛梨はその後、クラスの打ち上げに行くというので、校門で別れた。 「夜ご飯いらないから! カラオケ行ってくる!」 手を振って去っていく娘の背中を見送り、私は一人、駅への道を歩いた。 心にぽっかりと穴が開いたような寂しさと、重荷を下ろしたような清々しさが同居している。 ふと、スマホが震えた。 『式、終わりましたか?』 牧村さんからだった。 『はい、今終わりました。泣きすぎて顔がボロボロです』 『それは勲章ですよ。……もしよかったら、駅前の喫茶店にいます。少しだけ、卒業祝いをさせてください』
駅前のレトロな純喫茶『琥珀』。 店に入ると、一番奥の席に牧村さんがいた。 今日は仕事着ではなく、少しお洒落なシャツを着ている。 私を見ると、彼は立ち上がって椅子を引いてくれた。 「おめでとうございます、お母さん」 彼が言った。 「ありがとうございます。……愛梨の卒業ですけど」 「いや、恵さんの卒業式でもありますよ。十八年のプロジェクト、完遂おめでとう」 テーブルの上には、小さな花束が置かれていた。 スイートピーとカスミソウ。春の花束だ。 「これ、僕からです。長い間、お疲れ様でした」
私は花束を胸に抱いた。 甘い香りが鼻をくすぐる。 「……牧村さんは、ずるいです。いつも、私が欲しい言葉をくれる」 「修理屋ですから。どこが摩耗しているか見れば、必要なケアがわかります」 彼はコーヒーを啜りながら、優しく目を細めた。 「愛梨ちゃん、なんて言ってました?」 「『ママの子でよかった』って。……もう、一生分の親孝行をもらっちゃいました」 「それは泣けますね。最高の言葉だ」
私たちはしばらく、静かにコーヒーを飲んだ。 窓の外を行き交う人々。制服姿の高校生たち。 世界が少しずつ、新しい季節へと動いている。
「恵さん」 牧村さんがカップを置いた。 「これからのことなんですが」 「はい」 「愛梨ちゃんが落ち着いたら……例えば、ゴールデンウィークあたりに、二人で旅行に行きませんか?」 旅行。 それは、日帰りのデートとは違う、特別な時間。 「行き先は、あなたが決めたい場所でいい。海でも、温泉でも」 彼は真剣な眼差しで私を見た。 「今まで娘さんのために使っていた時間を、これからは僕と二人で分け合いたいんです」
私は花束を抱きしめたまま、深く頷いた。 「……はい。行きたいです。すごく」 「よかった。じゃあ、計画を立てましょう。楽しい計画を」 彼が手帳を取り出す。 そのページには、もう新しい未来の設計図が描かれようとしていた。
店を出ると、夕暮れの空が茜色に染まっていた。 私は空を見上げた。 明日からは、もう「受験生の母」ではない。 「宮本恵」という一人の女性として、そして牧村さんのパートナーとして、新しい人生が始まる。
バッグの中のルージュ。 これからは、もっと頻繁に出番が来るだろう。 金曜日だけじゃなく、月曜日も、日曜日も。 私の唇を彩るために。
「帰りましょうか、恵さん」 彼が手を差し出した。 「はい」 私はその手をしっかりと握り返した。 十八年分の卒業証書を胸に、私は軽やかな足取りで春の街へと歩き出した。




