人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。
第十五章 長い一日と春の結び目
二月二十五日。国立大学二次試験の朝は、痛いほどに澄み渡った青空だった。 放射冷却で冷え込んだ空気の中、私は愛梨の背中を玄関で見送った。 新品のゴム底を貼ってもらったローファーが、アスファルトを「キュッ」と小気味よく捉える音がする。
「行ってきます」 愛梨は振り返り、短く言った。 その顔に、気負いはなかった。ただ、やるべきことをやりに行く、静かな闘志だけがあった。 「行ってらっしゃい。気をつけて」 私も短く返す。 「頑張れ」も「落ち着いて」も、もう言わなかった。 あの靴が、そしてこれまでの日々が、すべてを物語っていたからだ。 娘の姿が角を曲がって見えなくなるまで、私は門の前で立ち尽くしていた。 不思議と、涙は出なかった。 代わりに、胸の奥で固く結ばれていた紐が、ふわりと解けるような感覚があった。 私の役目は終わったのだ。
*
その日は仕事のシフトを外してもらい、私は家で待機していた。 もしものトラブル――電車の遅延や体調不良――に備えてのことだが、家の中は恐ろしいほど静かだった。 いつもなら聞こえるシャープペンの音も、ページをめくる音も、独り言のような溜息もない。 主のいない勉強机。積み上げられた参考書の山。 それらを見ていると、急に寂しさが込み上げてきた。 愛梨が巣立つ日が近づいている。 この受験戦争が終われば、彼女は大学生になり、私の知らない世界へと羽ばたいていく。 それは喜ばしいことなのに、胸にぽっかりと穴が開いたような虚無感。 「空の巣症候群」という言葉が頭をよぎる。
昼過ぎ、私はキッチンでコーヒーを淹れた。 香ばしい湯気が立ち上る。 スマホを見る。牧村さんからのLINEは来ていない。彼もまた、工房で空を見上げながら、静かに時間を共有してくれているのだろう。 今は、連絡しないことが一番の応援だ。
夕方五時。 チャイムも鳴らさず、玄関のドアが開く音がした。 「ただいまー……」 力が抜けきったような、愛梨の声。 私は弾かれたように玄関へ走った。 「おかえり! お疲れ様!」 愛梨は玄関のたたきに座り込み、靴紐を解く気力もないといった様子で壁にもたれていた。 「……終わった」 「うん」 「全部、書いてきた」 「うん」 「数学、最後の一問わかんなかったけど……でも、部分点はもらえるくらい書いた」 愛梨は私を見上げ、へにゃりと笑った。 「あの靴、マジですごいよ。床で全然滑らないから、なんか踏ん張りが効いてさ。緊張して手が震えそうになっても、足元がガシッとしてるから『あ、大丈夫だ』って思えた」
私は娘の肩を抱きしめた。 汗と、外の冷たい空気と、鉛筆の匂い。 戦い抜いた戦士の匂いだ。 「よく頑張ったね。本当に、お疲れ様」 「うん……お腹すいた。カツ丼食べたい」 「あるわよ。特大のが」
その夜、愛梨はカツ丼を平らげると、「もう文字は見たくない」と言ってお風呂に入り、二十一時には泥のように眠ってしまった。 寝息を立てる娘の顔は、幼い頃に戻ったように安らかだった。 リビングに戻り、私は一人、缶ビールを開けた。 プシュッ、という音が、長い戦いの終わりを告げる号砲のように響いた。
スマホを取り出す。 報告しなくては。一番の功労者に。
『無事、終わりました。帰ってきて第一声が「靴がすごかった」でした』
送信して数秒後、着信があった。 「……はい」 『お疲れ様でした、恵さん』 牧村さんの声だ。いつもの低音だが、どこか弾んでいる。 『愛梨ちゃん、出し切れましたか?』 「ええ、おかげさまで。今はもう爆睡してます」 『はは、でしょうね。糸が切れたみたいに眠るはずだ』 彼の笑い声を聞いて、私の目頭が熱くなった。 「牧村さん。……本当に、ありがとうございました。あの靴がなかったら、どうなっていたか」 『道具は使い手次第ですよ。愛梨ちゃんが強かったんです』 彼は優しく否定した。 『で、お母さんは?』 「え?」 『お母さんも、今日でクランクアップでしょう。まだ、一人で祝杯を上げてるんですか?』 「はい、キッチンでこっそりと」 『……もしよかったら、少しだけ外に出られませんか?』 ドキリとする。 『顔を見て、「お疲れ様」を言いたいんです。駅前の公園で待ってます』
*
私はカーディガンを羽織り、寝ている愛梨を起こさないようにそっと家を出た。 夜風はまだ冷たいけれど、どこか春の匂いを含んでいた。 駅前の公園。 時計台の下に、彼が立っていた。 自販機の温かい光に照らされて、白い息を吐いている。 私を見つけると、彼は手を上げた。
「こんばんは。抜け出してきちゃって大丈夫ですか?」 「ええ。一度寝たら朝まで起きない子なので」 彼の前まで行き、立ち止まる。 街灯の下で見る彼は、少し目が赤かった。 「牧村さんも、寝てないんですか?」 「いや、今日は気が気じゃなくて。仕事になりませんでした」 彼は苦笑しながら、ポケットから小さな包みを取り出した。 「これ、恵さんに」 「え?」 渡されたのは、コンビニで売っている高い栄養ドリンクと、一輪のチューリップだった。 赤いチューリップ。セロハンに包まれている。 「花屋が開いてて、つい。……お疲れ様でした、お母さん」
涙腺が崩壊した。 愛梨を見送った時には出なかった涙が、どっと溢れ出した。 誰も私を褒めてくれない。 受験生の母なんて、やって当たり前、我慢して当たり前だ。 でも、この人は知っていてくれた。 私がどれだけ不安で、どれだけ自分を殺して、今日まで耐えてきたかを。
「……ありがとうございます。嬉しい……」 涙を拭う私を、牧村さんは何も言わずに抱き寄せた。 厚手のコート越しに伝わる体温。 彼の匂い。革と、煙草を吸わない彼のクリーンな香り。 公園のベンチには誰もいない。 私は彼の胸に顔を埋め、しばらく泣いた。 娘のためじゃない。自分のために流す涙だった。
「これで、一区切りですね」 彼が私の背中をポンポンと叩きながら言った。 「合格発表まではまだ落ち着かないでしょうけど、少なくとも『受験生の母』という一番重い鎧は脱げた」 「はい……脱げました」 「じゃあ、これからは少し、自分のために時間を使ってください」 彼は私の顔を覗き込んだ。 「僕のためにも、時間を使ってほしい」
私は濡れた目で彼を見上げた。 街灯に照らされた彼の瞳は、真剣で、熱を帯びていた。 「……はい。たくさん、使います」 「春になったら、どこかへ行きましょう。遠出してもいい」 「行きたいです。海とか、山とか」 「いいね。愛梨ちゃんも誘って……いや、最初は二人きりがいいかな」 彼が少し慌てたように言うので、私は思わず吹き出した。 「ふふ、そうですね。最初は二人で」
私たちはベンチに座り、彼が買ってくれたホットココアを飲んだ。 夜空には、冬の代表格であるオリオン座が西に傾きかけていた。 季節が変わる。 娘は大人になり、私はまた「私」に戻る。 そして隣には、手を握ってくれる人がいる。
「そろそろ戻ります。愛梨が起きるといけないから」 「送りますよ。家の近くまで」 帰り道、繋いだ手は一度も離れなかった。 解かれた靴紐のように、私の心は自由だった。 不安がないわけではない。合格発表の結果は神のみぞ知るだ。 けれど、どんな結果が出ようとも、私たちはもう揺らがない。
家の角で彼と別れ、私はチューリップを胸に抱いて玄関に入った。 リビングの花瓶に花を挿す。 赤いチューリップの花言葉は「愛の告白」。 そして「真実の愛」。 四十五歳で見つけた愛は、派手ではないけれど、根っこが太くて丈夫な花だった。
私はバッグの奥からルージュを取り出し、ドレッサーの上に置いた。 もう、隠す必要はない。 明日の朝は、これを塗って仕事に行こう。 春の予感と共に、新しい私が始まるのだから。




