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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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人生の第二を歩み始める、大人の再生の物語

第十四章 春一番と滑り止めの靴底


 二月の下旬。暦の上では春だが、風はまだ冬の名残を含んで鋭かった。  この日は、春一番が吹くと予報されていた。  そして、我が家にも一足早い春の風が吹くかどうかが決まる日だった。


 午前十時。  リビングの空気は張り詰めていた。愛梨がスマホを握りしめ、画面を凝視している。私立大学の合格発表の時間だ。  第一志望ではないけれど、もしもの時のための重要な「滑り止め」。ここが受かっていれば、本命の国立大学へ向けて背水の陣ではなくなる。逆に落ちていれば、崖っぷちの精神状態で本番を迎えることになる。


「……見るよ」  愛梨の声が震えている。  私は洗い物の手を止め、祈るように両手を組んだ。  タップする音。ロード中の静寂。  数秒が数時間のように感じられた。


「……あった」  愛梨が呟いた。 「え?」 「あった! 受かってた! 番号あった!」  愛梨がスマホを放り出し、ソファの上で飛び跳ねた。 「よかったあぁぁぁ! 大学生になれる! 浪人回避!」  私も駆け寄り、娘を抱きしめた。 「よかった、本当によかった! おめでとう!」  涙が出た。安堵の涙だ。これで最悪のシナリオは消えた。愛梨の春は、少なくとも保証されたのだ。


 その夜、私たちはささやかなお祝いとして、宅配寿司をとった。  愛梨の表情は、数ヶ月ぶりに憑き物が落ちたように明るかった。 「あー、マジで安心した。これで枕高くして眠れるわ」  マグロを頬張りながら、愛梨が言う。  しかし、その明るさの裏に、私は微かな違和感を感じていた。  愛梨の視線が、壁に貼られた国立大学の赤本(過去問題集)から、無意識に逸らされているような気がしたのだ。



 翌日からの愛梨の様子は、明らかに変わった。  机に向かう時間が減り、スマホをいじる時間が増えた。  「休憩」と言えばそれまでだが、これまでの鬼気迫る集中力は影を潜めていた。  そして三日後の夜、事件は起きた。


「ねえママ」  夕食の片付けをしている私に、愛梨が背中越しに言った。 「国立、受けに行くのやめようかな」  皿を洗う手が止まる。 「……え? どういうこと?」 「だってさ、私立受かったし。そこの大学も悪くないし、キャンパス綺麗だし」  愛梨はモジモジと箸置きをいじっている。 「それに、国立の二次試験って記述式じゃん? 今の私の実力じゃ、どうせ受かんないよ。わざわざ遠くまで受けに行って、落ちて帰ってくるの、惨めじゃん」


 恐怖だ。  合格という「保証」を手に入れたことで、失敗するかもしれない「挑戦」が怖くなったのだ。  気持ちは痛いほどわかる。ここまで消耗してきた心にとって、安全地帯の居心地は良すぎる。  でも、ここで諦めたら、愛梨は一生「逃げた」という記憶を引きずることになるのではないか。


「愛梨。ママは、あなたがどの大学に行っても応援する。でも、受ける前から諦めるのは違うと思う」 「わかってるよ! でも怖いんだもん!」  愛梨が声を荒げた。 「もし落ちたら、私立の合格の喜びも消えちゃう気がして……。今の『勝った』気分のままで終わりたいんだよ」  彼女は部屋に駆け込み、ドアをバタンと閉めた。


 私は一人、キッチンに取り残された。  どう言えば伝わるだろう。  「頑張れ」はもう効かない。「逃げるな」は追い詰めるだけだ。  私はエプロンで手を拭き、スマホを取り出した。  頼れるのは、あの人しかいなかった。


『夜分にすみません。相談があります』  牧村さんに、事情をLINEで送った。  すぐに返信が来るかと思ったが、しばらく既読がつかなかった。  お風呂に入っているのかもしれない。  待つこと二十分。  スマホが震えた。着信画面に『牧村さん』の名前。  通話だ。


「……もしもし」  私はベランダに出て電話に出た。 『読みました。愛梨ちゃん、迷ってるみたいですね』  受話器の向こうから、ラジオのジャズと、何か金属を削るような音が微かに聞こえる。まだ仕事中なのだろうか。 「ええ。私立に受かって、気が抜けちゃったみたいで。落ちるのが怖いって」 『まあ、正常な反応ですよ。誰だって痛い思いはしたくない』  彼は淡々と言った。 『宮本さん。明日、愛梨ちゃんを連れて店に来られませんか?』 「え? 店に?」 『はい。愛梨ちゃんの靴、見せてもらいたいんで』 「靴ですか?」 『ええ。試験会場に履いていく靴です』



 翌日の土曜日。  私は半ば強引に愛梨を連れ出した。「靴の点検をしてもらうだけだから」と言い聞かせて。  愛梨は不貞腐れていたが、牧村さんには恩があるからか、渋々ついてきた。


 工房に入ると、牧村さんは作業台で革靴を磨いていた。 「いらっしゃい。……愛梨ちゃん、まずは私立合格、おめでとう」  彼は手を止め、真っ直ぐに愛梨を見て言った。  愛梨は少しバツが悪そうに、「……ありがとうございます」と答えた。 「で、国立はやめるって?」  唐突な切り出しに、愛梨の肩がビクッと跳ねた。 「……だって、もう大学生にはなれるし。無理して傷つきたくないし」  愛梨が俯いて呟く。


 牧村さんは、愛梨の足元を見た。彼女が履いているのは、少し底のすり減ったローファーだった。 「その靴、試験に履いていく予定だったやつ?」 「うん。履き慣れてるから」 「ちょっと貸してごらん」  言われるままに、愛梨は靴を脱いで渡した。  牧村さんは靴底を指でなぞり、眉を寄せた。 「ツルツルだ。これじゃ、試験会場の床で滑るぞ」 「え……」 「愛梨ちゃん。受験の『滑り止め』って言葉、どういう意味だと思う?」


 愛梨は首を傾げた。 「本命がダメだった時のための、保険?」 「みんなそう思うよね。でも、靴屋からするとちょっと違うんだ」  牧村さんは、棚から新しいゴム底のシートを取り出した。ギザギザとした溝が刻まれた、強そうなゴムだ。 「靴の滑り止めっていうのはね、『転ばないように守る』ためだけのものじゃない。地面をしっかりグリップして、より高く、険しい道を登るための装備なんだ」


 彼はゴムシートを愛梨の靴に当てがった。 「私立の合格は、このゴム底だ。君は今、最強の『滑り止め』を手に入れた。転んでも怪我をしない保証を手に入れたんだ。……だったら」  彼は眼鏡の奥から、強い光を宿した瞳で愛梨を見据えた。 「その最強の靴で、平坦な道を歩くのはもったいないと思わないか? 滑り止めがあるからこそ、一番急な坂道だって、泥だらけの道だって、怖がらずに駆け上がれるはずだ」


 愛梨の目が大きく見開かれた。  滑り止めは、妥協するための場所じゃない。本命に挑むための、最強の武器。  その発想の転換が、凝り固まっていた娘の心を解きほぐしていくのがわかった。


「……このゴム、貼ってくれるの?」  愛梨が小さな声で聞いた。 「もちろん。最強のグリップ力を保証する。これを履いていけば、国立の記述問題だって、ペンが滑らずしっかり食らいつけるよ」  牧村さんはニカッと笑った。


 作業は三十分ほどで終わった。  新しく生まれ変わった靴底。  愛梨が足を入れる。  キュッ、と床を捉える音がした。 「すごい。なんか、地面に吸い付くみたい」  愛梨が足踏みをする。その顔には、数日前までの怯えはもうなかった。 「牧村さん、ありがとう。私……行ってくる」 「おう。行ってこい。落ちても大丈夫だ、その靴ならちゃんと前に進める」


 帰り道。  春一番の強風が吹き荒れていた。  向かい風だ。  でも、愛梨はしっかりと地面を踏みしめて歩いていた。 「ママ」 「なに?」 「私、受けてくるね。国立」 「うん」 「だってさ、こんなすごい靴履いてて、逃げたらダサいもんね」  愛梨はマフラーに顔を埋めながら、でも力強く言った。


 私はバッグの持ち手を握りしめた。  中にはルージュと、そして私のお守りである革の栞が入っている。  牧村さんの言葉は、いつも私たちの視点を少しだけ変えてくれる。  不安を勇気に。迷いを決断に。  ただの「修理」ではない。彼は、私たちの心の在り方まで直してくれる魔法使いだ。


 駅に着く頃、風が少し止んだ。  雲の切れ間から光が射す。  来週は国立二次試験。  愛梨の足元には、最強の滑り止めがついている。  そして私の隣には、最強の支えがついている。  どんな結果になろうとも、私たちはもう大丈夫だ。  春は、もうそこまで来ている。


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