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金曜日のルージュはバッグの奥に  作者: 久遠 睦


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13/20

人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。

第十三章 雪解けの水音とビターチョコレート


 共通テストの翌日、世界を白く染めた雪は、お昼過ぎにはもう溶け始めていた。  アスファルトには黒いシミのような水たまりができ、軒先からはポタポタと雪解けの水音がリズムを刻んでいた。  それは、張り詰めていた緊張が少しだけ緩んだ、私たちの心の音に似ていた。


 愛梨の自己採点の結果は、万々歳とはいかなかったけれど、最悪の事態は免れた。「C判定」。ボーダーライン上だ。 「特攻する。私、やっぱりあの大学に行きたい」  リビングで拳を握りしめた愛梨の目は、もう怯えてはいなかった。牧村さんの「ネジのあそび」の話が効いたのか、あるいは一度極限まで追い込まれたことで開き直ったのか、娘は一回りタフになっていた。  二月の私立大学入試、そして本命の国公立二次試験へ向けて、最後のラストスパートが始まった。


 カレンダーをめくる。二月。  受験生にとっては地獄の季節だが、世間では甘い香りが漂う季節だ。  スーパーの特設コーナーには、ピンクや赤のハートが溢れかえっている。バレンタインデー。  去年までは、この騒ぎを横目に見ながら「製菓メーカーの陰謀ね」と鼻で笑い、愛梨と自分用に割れチョコを買うのが常だった。  けれど、今年は違った。  デパートの催事場のチラシを、私は新聞の折り込みから抜き取り、こっそりと手帳に挟んでいた。



 二月十四日は、奇しくも金曜日だった。  図書館に行く日だ。  私は数日前、仕事の合間を縫って隣町のデパートへ足を運んでいた。  若い女性たちの熱気に押されながら、ショーケースを覗き込む。キラキラした宝石のようなボンボンショコラ。可愛らしい動物の形をしたチョコ。  どれも素敵だけれど、牧村さんには似合わない気がした。  彼はもっと、飾り気がなくて、でも素材の確かなものを好むはずだ。  迷った末に選んだのは、老舗ショコラティエの、シンプルなビターチョコレートの詰め合わせだった。紺色の箱に、銀色のリボン。  甘すぎず、ほろ苦い。大人の味。  それが今の私たちの距離感に一番しっくりくる気がした。


 金曜日の朝。  私はその紺色の小箱を、バッグの底に忍ばせた。  ルージュの隣に、もう一つの秘密が増えた。  愛梨は朝から塾だ。 「行ってきます。あ、ママ、今日チョコ安くなってるかもだから、帰りに見てきてよ」  玄関で靴を履きながら、愛梨が無邪気に言う。 「わかったわよ。自分用のでしょ?」 「うん。あと、もし彼氏にあげるなら、私の分から一個あげてもいいよ」  娘はニヤリと笑ってドアを開けた。  彼氏。  その言葉の響きに、四十五歳の頬が熱くなる。  まだ「付き合ってください」という言葉を交わしたわけではない。  私たちは、図書館で会い、時々食事をし、お互いの弱さをさらけ出し合っているだけの「名前のない関係」だ。  今日、このチョコを渡すことで、その関係に名前がつくのだろうか。



 一月以来、牧村さんとは会っていなかった。  愛梨の受験の邪魔にならないようにという彼の配慮で、連絡はLINEのみになっていたのだ。  『風邪ひいてませんか』『ネジ(猫)がコタツから出てきません』  そんな短いやり取りだけが命綱だった。  一ヶ月ぶりの再会。  十九時。  図書館の閲覧室に入ると、懐かしい背中があった。  黒のタートルネックに、厚手のツイードジャケット。眼鏡をかけ、分厚い専門書を読んでいる。  その姿を見ただけで、胸の奥がキュンと鳴った。  会いたかった。  文字だけの繋がりも悪くないけれど、やはり実在する彼の質量と体温には敵わない。


 私が近づくと、気配を察したのか、彼が顔を上げた。  目が合う。  彼は少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。  声を出さずに口パクで「久しぶり」と言う。  私も「久しぶりです」と口パクで返す。  それだけで、一ヶ月の空白が埋まった気がした。


 閉館の音楽が流れるまで、私たちは言葉を交わさなかった。  ただ、同じ空間で、それぞれの本を読む。  ページをめくる音。暖房の稼働音。遠くで誰かが咳払いする音。  そのすべてが心地よいBGMだった。


 十九時五十分。  図書館を出て、冷たい夜風の中に並んで立つ。 「……元気でしたか?」  牧村さんが白い息と共に問いかける。 「はい。なんとか。牧村さんは?」 「僕もまあ、相変わらずです。猫と喧嘩しながら生きてます」  彼はポケットに手を突っ込み、照れくさそうに笑った。 「愛梨ちゃん、どうですか。ラストスパートでしょう」 「ええ。もう、鬼気迫るものがあります。家の中はピリピリしてますけど、前みたいな悲壮感はないです」 「そうですか。なら良かった。……春まで、あと少しですね」


 駅までの道をゆっくり歩く。  雪解けの水たまりが凍って、街灯の光を反射している。  私のバッグの中には、紺色の箱が入っている。  いつ渡そう。今? 駅に着いてから?  心臓が早鐘を打ち、バッグを持つ手が汗ばんでくる。  いい歳をして、何を緊張しているんだろう。たかがチョコレート一つで。


 駅のロータリーが見えてきた。  もう時間がない。  私は足を止めた。 「あの、牧村さん」  彼も立ち止まり、不思議そうに振り返る。 「はい?」  私はバッグを開け、紺色の箱を取り出した。  銀色のリボンが、街灯の下でキラリと光る。 「これ……」  差し出す手が微かに震える。 「つまらないものですが。いつも、支えていただいているお礼です」  お礼。  精一杯の予防線を張ってしまった自分が情けない。  牧村さんは箱を見て、一瞬きょとんとしたが、すぐにその意味を理解したようだ。  目元がふわりと緩み、眼鏡の奥の瞳が優しく揺れた。


「……今日、十四日でしたね」 「はい。迷惑じゃなければ、召し上がってください。甘くないやつなので」  彼は両手で箱を受け取った。  まるで、壊れやすいガラス細工を扱うような手つきだった。 「ありがとうございます。……嬉しいな」  彼が低く呟く。 「この歳になって、こんなドキドキするものがもらえるとは思いませんでした」 「そんな大層なものじゃ……」 「いいえ。僕にとっては、金メダルより価値があります」


 彼は箱をジャケットの内ポケット――心臓に一番近い場所――にしまった。  そして、一歩近づいてきた。  影が重なる距離。 「恵さん。……これ、お礼だけですか?」  直球の質問に、息が止まる。  彼は逃がしてくれない。大人の恋に、曖昧な「察して」は通用しないのだ。  私は覚悟を決めて、顔を上げた。 「……いいえ。お礼と、それから」 「それから?」 「私の、気持ちです。……好きです、牧村さん」


 言ってしまった。  心臓が口から飛び出しそうだった。  静寂が落ちる。遠くで電車の走る音が聞こえる。  牧村さんは真剣な顔で私を見つめ、それからゆっくりと頷いた。 「知ってました。……バレバレでしたから」 「えっ」  彼は悪戯っぽく笑った。 「でも、言葉にしてほしかった。僕も、あなたが好きです」


 彼の手が伸びてきて、私の冷たい頬に触れた。  職人の、硬くて温かい掌。 「愛梨ちゃんの試験が終わったら、ちゃんとデートしましょう。保護者としてじゃなく、恋人として」 「……はい」  涙が滲んだ。  恋人。  その響きが、こんなにも甘くて、くすぐったいものだとは忘れていた。


「さあ、帰りましょう。風邪をひく」  彼は私の手を取り、自分のコートのポケットに入れた。  一月の初詣の時と同じ。  でも、その意味はもう「寒さ凌ぎ」ではなかった。  しっかりと握り返された手の力が、私たちの関係の新しい名前を物語っていた。



 帰宅すると、愛梨はまだ勉強中だった。 「ただいま」 「おかえりー。チョコ安くなってた?」  ドア越しに声がする。 「ううん、売り切れだったわ」  私は小さな嘘をついた。  自分の部屋に入り、コートを脱ぐ。  鏡を見る。  ルージュはほとんど落ちていたけれど、唇は血色よく潤っていた。  ポケットの中で、彼の手の感触を反芻する。  ビターチョコレートのような、ほろ苦くて、でも深い甘さのある恋。


 来週は、いよいよ愛梨の私立受験が始まる。  戦いは続く。  でも、今の私には最強の味方がいる。  ジャケットの内ポケットに私の気持ちを入れて、一緒に歩いてくれる人がいる。


 私は手帳を開き、二月十四日の欄に、小さなハートマークを描いた。  そして、すぐにそれを黒く塗りつぶした。  まだ愛梨には内緒だ。  春が来て、桜が咲くその時まで、この甘い秘密は私だけのものにしておこう。


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