人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。
第十二章 鉛色の空と「あそび」の魔法
年が明けても、宮本家には「おめでとう」という言葉は響かなかった。 喪中ではない。受験中だ。 リビングの壁には『大学入学共通テストまであと〇日』という日めくりカレンダーが鎮座し、その数字が減っていくたびに、私の胃の粘膜も削られていくようだった。 テレビの初笑い番組は封印され、静寂の中にシャープペンシルの芯が紙を走る音だけが響く。おせち料理もそこそこに、愛梨は元日から自習室へと向かった。
一月三日。 愛梨が塾に行っている僅かな隙間を見つけて、私は初詣に出かけた。 向かったのは、地元の氏神様である小さな神社だ。 境内は参拝客で混み合っていた。冷たい風が頬を刺す。 手水舎で手を清め、長い行列の最後尾に並ぶ。 ポケットの中でスマホが震えた。 『今、鳥居をくぐりました』 牧村さんからだ。 彼とは現地集合で、三十分だけ会う約束をしていた。
人混みの中で、背の高い彼を見つけるのは簡単だった。 ダークグレーのウールのコートに、深緑のマフラー。周囲の喧騒から少し浮いたような、落ち着いた佇まい。 私を見つけると、彼は目元だけで笑い、並んでいる私の隣に滑り込んだ。 「あけましておめでとうございます、恵さん」 「おめでとうございます、牧村さん。……ごめんなさい、こんな慌ただしい時に」 「いいえ。神頼みくらい、付き合わせてもらわないと」 彼は白い息を吐きながら、私の冷えた手をそっと自分のコートのポケットに入れた。 ポケットの中はカイロが入っていて温かかった。そして、彼の手の温もりが、カイロ以上の熱を持って私の指先を包み込む。 周囲は家族連れやカップルばかりだ。 私たちも、端から見れば「仲の良い夫婦」に見えるだろうか。 まだ確かな形のない関係だけれど、このポケットの中の温もりだけは真実だった。
賽銭箱の前。 私は五百円玉を投げ入れ、深く頭を下げた。 (愛梨が、実力を出し切れますように。迷いなく、解答欄を埋められますように) 自分のことなど願う余裕はない。母の願いは、すべて娘のためにある。 隣で牧村さんも手を合わせている。 彼もまた、長く、深く祈っていた。 目を開けた時、彼が何を祈ってくれたのか聞くのは野暮な気がして、私は黙って微笑んだ。
「おみくじ、引きますか?」 彼が言った。 「いえ、やめておきます。もし『凶』なんて出たら、立ち直れないから」 「賢明です。運なんて、不確定な要素に振り回される必要はない」 修理屋らしい合理的な言葉に、少し救われる。
境内の隅にある甘酒の屋台で、紙コップを二つ買った。 ベンチに座り、湯気の立つ甘酒を啜る。 「いよいよですね。共通テスト」 「はい。来週末です。もう、私の方が吐きそうで」 弱音がこぼれる。 「何もしてあげられないんです。勉強を教えられるわけでもないし、代わってあげることもできない。ただ、ご飯を作って、オロオロしているだけで」 私が俯くと、牧村さんは静かに言った。 「機械もね、本番稼働の前は、下手にいじっちゃいけないんです」 「え?」 「整備士ができるのは、油を差して、ネジの緩みを確認するだけ。あとは、その機械が本来持っている性能を信じて、スイッチを入れるしかない。直前にあれこれ手を加えると、かえってバランスが崩れる」 彼は甘酒を一口飲み、遠くの空を見上げた。 「だから、恵さんは今のままでいい。オロオロしながらでも、いつも通りご飯を作って、いつも通り『おやすみ』って言う。それが最高のメンテナンスです」
メンテナンス。 その言葉が、私の焦る心にスッと染み渡った。 私は、愛梨という精巧な機械のメンテナンス担当なのだ。性能を上げる必要はない。ただ、彼女が十全に動けるように、環境を整えればいい。
「……ありがとうございます。少し、楽になりました」 「よかった。あ、これ」 彼はポケットから小さなポチ袋を取り出した。 「お年玉?」 「いや、愛梨ちゃんへのお守り。中身は五円玉一枚ですけど」 「ご縁がありますように?」 「それもありますが、その五円玉、僕が生まれた年の硬貨なんです」 彼は照れくさそうに鼻をかいた。 「四十八年間、世の中を回ってきた硬貨です。結構しぶといですよ。運気が付いてるかもしれない」 ピカピカに磨かれた五円玉。 きっと、工房でバフ掛けしてくれたのだろう。 その手間と想いが、何よりのお守りだ。
「必ず渡します。……牧村さん、本当に」 大好きです、と言いかけて、飲み込んだ。 今はまだ、その言葉を口にするには、現実が重すぎる気がした。 「本当に、頼りにしてます」
*
そして迎えた一月中旬。 共通テストの前日は、予報通りの雪になった。 窓の外は鉛色の空。音もなく降り積もる雪が、世界を白く塗りつぶしていく。 交通機関の麻痺が心配だ。明日の朝、ちゃんと会場まで行けるだろうか。 リビングでは、愛梨が最後の確認をしていた。 その背中は、一ヶ月前よりも一回り小さくなったように見える。プレッシャーで押しつぶされそうなのだ。 カリカリとペンの音だけが響く。張り詰めた糸のような緊張感。
私は牧村さんにLINEを送ろうとして、やめた。 彼もきっと、空を見上げながら心配してくれているはずだ。でも、今夜はこの緊張感を一人で受け止めなければならない。
その時、愛梨がペンを置いた。 「……どうしよう」 震える声。 「ママ、どうしよう。何も頭に入ってこない。全部忘れちゃった気がする」 パニックの発作だ。 愛梨が頭を抱える。 「手が震えるの。字が書けない。これじゃ明日、マークシート塗りつぶせないよ」 私は駆け寄り、彼女の冷たい手を握った。 「大丈夫よ。愛梨、落ち着いて」 「無理だよ! だって、これで人生決まるんだよ? 失敗したら終わりじゃん!」 涙が溢れる。
どうすればいい。どう声をかければいい。 「頑張れ」は禁句だ。「大丈夫」も無責任だ。 その時、スマホが鳴った。 牧村さんからだった。 タイミングが良すぎる。まるでここを見ているかのように。 画面には、短いメッセージと共に、一枚の写真が添付されていた。 それは、彼の工房にある、一本のネジの写真だった。 そして、メッセージ。
『ネジはね、締めすぎると折れるんだ。少しの「あそび(隙間)」があるから、衝撃に耐えられるし、スムーズに回る。だから今夜は、心を少し緩めて。ハンドルに「あそび」を持たせるように』
あそび。 機械用語でありながら、人生の真理のような言葉。 私はその画面を愛梨に見せた。 「見て。整備士さんからのアドバイスよ」 愛梨は涙目で画面を覗き込んだ。 「……あそび?」 「そう。締めすぎちゃダメだって。少し緩んでるくらいが、一番強いんだって」 私は愛梨の背中を、ポンポンと優しく叩いた。 「だから、今日はもうやめよう。お風呂に入って、温かいココアでも飲んで、早く寝よう。ネジを緩めるの」
愛梨はしばらく画面を見つめていたが、やがて大きく息を吐き出した。 「……そっか。折れちゃうのか」 「そうよ。愛梨は今、締めすぎ。ちょっと緩めなさい」 愛梨の肩から、ふっと力が抜けた。 「わかった。……あの人、ほんと何者なの? エスパー?」 「ふふ、ただの修理屋さんよ」
その夜、愛梨は牧村さんからもらった「磨かれた五円玉」をペンケースに入れ、泥のように眠った。 私は窓辺に立ち、降り続く雪を見つめた。 明日の朝には止むだろうか。 いや、止まなくてもいい。 私たちが少し「緩む」ことができれば、雪道だって転ばずに歩けるはずだ。
バッグの奥のルージュ。 明日は、愛梨を送り出す時、私も薄く引こうと思う。 戦う娘の母として、凛とした顔で見送るために。
スマホを握りしめる。 「ありがとう」の五文字を送る。 『祈ってます』と返ってくる。 鉛色の空の下、見えない糸電話が、私たちを強く結びつけていた。




