「人生の第二章」を歩み始める、大人の再生の物語。
第十一章 聖夜の微熱とドアノブの優しさ
十二月のカレンダーは、まるで地雷原のようだった。 三者面談、願書の提出期限、大学入学共通テストの受験票到着。赤いペンで書き込まれた予定の数々は、私たち母娘をじわじわと追い詰めていた。 街がクリスマスソングで浮かれる中、我が家のリビングにはピリピリとした静電気が漂っていた。加湿器がシュンシュンと蒸気を吐き出し、愛梨はマスク姿で黙々と過去問を解いている。 テレビをつけることは許されない。私は音を立てないように洗い物をし、忍者のように足音を消して歩く。
そんな息の詰まる日々の中で、牧村さんの存在は私にとって唯一の酸素ボンベだった。 とは言っても、あの食事会以来、二人で会う時間は激減していた。愛梨が家にいる時間が長くなり、私が外出する口実を作るのが難しくなったからだ。 その代わり、LINEのやり取りが増えた。 『今日は寒いから、工房のストーブでスルメを焼いています』 『事務仕事で肩が凝りました。湿布の匂いが私の香水です』 そんな他愛のない報告が、一日の終わりに私を救ってくれた。
クリスマスイブの前日、二十三日。 私たちは久しぶりに夕食の約束をしていた。愛梨が冬期講習で夜遅くまで帰らない日だ。 「二時間だけ。チキンを食べて、すぐ帰ります」 そう伝えると、彼は『了解。プレゼントは期待しないで』と返してきた。 私は浮き立つ心を抑え、事務のパートを終えてスーパーへ向かった。今日の夕飯の下ごしらえをしてから、彼に会いに行くつもりだった。
その時、スマホが鳴った。愛梨からだった。 『ママ、ごめん。なんか寒気する。早退して帰る』 画面の文字を見た瞬間、私の体温が一気に下がった。 この時期の「寒気」という言葉の破壊力は、核弾頭並みだ。インフルエンザか、それともただの風邪か。受験直前の体調不良は、すべての努力を無に帰す可能性がある。
私はスーパーのカゴを戻し、全力で自転車を漕いだ。 家に飛び込むと、愛梨がソファで毛布にくるまって震えていた。 「愛梨!」 額に手を当てる。熱い。 「……ごめん、ママ。頭痛い」 体温計を脇に挟む。ピピピ、という電子音が無機質に響く。 三十八度五分。 終わった、と思った。明日の講習も、もしかしたら正月特訓もキャンセルだ。そして何より、今の時期の勉強の遅れは精神的なパニックを引き起こす。
「大丈夫、まずは寝よう。病院はもう閉まってるから、明日一番に行こう」 愛梨をベッドに寝かせ、氷枕を用意する。ポカリスエットを飲ませ、汗を拭く。 母親モード全開で動き回りながら、ふと、今夜の約束を思い出した。 牧村さん。 予約してくれたレストラン。 申し訳なさで胸が潰れそうになりながら、私は震える指でLINEを打った。 『ごめんなさい。愛梨が熱を出してしまって。今夜は行けません』
送信ボタンを押すと同時に、ため息が出た。 楽しみにしていたのに。新しいニットも買ったのに。 でも、仕方がない。これが母親だ。恋人である前に、私は愛梨の命綱なのだから。
*
昔の記憶が蘇る。 愛梨がまだ小学生だった頃、クリスマスイブに水疱瘡になったことがあった。 当時の夫・健二は、不機嫌そうにこう言ったものだ。 『なんだよ、せっかくの休みなのに。俺にうつすなよ。書斎に籠もってるから、飯はドアの前に置いといてくれ』 看病は私のワンオペだった。泣き叫ぶ娘をあやしながら、孤独に押し潰されそうになった夜。 男の人は、結局、子供より自分が大事なのだ。 家庭の危機に直面した時、彼らは「父親」ではなく「庇護されるべき子供」に戻ってしまう。 牧村さんはどうだろう。 まだ付き合い始めて数ヶ月。結婚しているわけでもない。 『了解。お大事に』 そんな淡白な返信が来て、関係が少し冷めてしまうかもしれない。所詮は他人の子供の風邪だ。ドタキャンされた不快感の方が勝つだろう。
スマホが震えた。 彼からの返信だ。 恐る恐る画面を見る。
『わかった。看病、大変だと思いますが無理しないで。必要なものがあったら言ってください』 短い文面。 怒っていないようで安心したが、やはりどこか他人行儀な距離を感じてしまう。 私はスマホを伏せ、熱にうなされる愛梨の背中をさすり続けた。
夜が更けていく。 愛梨の熱は下がらない。 「うぅ……落ちる、落ちちゃう……」 うわ言のように受験の不安を口にする娘。 「大丈夫よ。落ちないわよ。ママがついてる」 何度も言い聞かせる。 部屋は乾燥していた。加湿器の水が切れている。 給水しようとリビングに出た時、インターホンが鳴った。 ピンポーン。 時計を見る。二十一時過ぎ。こんな時間に誰だろう。 モニターを覗く。 ニット帽を目深に被り、大きな紙袋を抱えた男性が立っていた。 牧村さんだ。
私は慌てて玄関を開けた。 「牧村さん!? どうして……」 彼は中に入ろうとはせず、玄関先で立ち止まったままだった。 「いや、突然すみません。LINE見たら、気が気じゃなくて」 彼は抱えていた紙袋を私に差し出した。 「これ。差し入れです」 「え……」 受け取ると、ずっしりと重い。 「スポーツドリンクと、ゼリーと、あと冷えピタ。それから、宮本さん用の栄養ドリンクと、コンビニのちょっといいプリン」 彼は早口で説明した。 「愛梨ちゃん、食欲ないかもしれないけど、ゼリーなら喉通るかと思って。あと、お母さんが倒れたら共倒れだから、ちゃんと栄養摂ってください」
言葉が出なかった。 彼は私の顔を見つめ、少し躊躇うように言った。 「あがるとご迷惑でしょうから、僕はこれで。インフルエンザかもしれないし、僕が菌を持ち込んでもいけない」 その配慮。 元夫のように「うつされたくない」から逃げるのではなく、「うつさない」ために、そして「負担をかけない」ために引く。 その決定的な違いに、私の涙腺が緩んだ。
「……ありがとうございます。本当に、助かります」 「いえ。修理屋ですから。緊急時の部品調達は得意なんです」 彼は照れ隠しのようにニッと笑った。 「じゃあ、頑張って。何かあったら、夜中でも連絡してください。車出しますから」 彼はそう言い残し、踵を返した。 その背中に、私は思わず声をかけた。 「あの!」 彼が振り返る。 「メリークリスマス、牧村さん」 彼は少し驚いた顔をして、それから目を細めた。 「ああ。メリークリスマス、恵さん」
ドアが閉まる。 ガチャリという鍵の音が、今日は冷たく感じなかった。 私は紙袋を抱きしめた。 外の冷気を吸い込んだ紙袋は冷たかったけれど、中身はマグマのように熱い思いが詰まっていた。
*
愛梨の熱は、翌日の朝には微熱まで下がった。 インフルエンザの検査も陰性。ただの知恵熱と過労だったようだ。 「ママ、ごめんね。クリスマスイブなのに」 ベッドの上で、ゼリーを啜りながら愛梨が言った。 「いいのよ。それより、これ食べて元気出しなさい」 私は牧村さんが買ってきてくれた「ちょっといいプリン」を開けた。 「これ、牧村さんが?」 「うん。昨日、夜中に届けてくれたの」 愛梨はスプーンを止めて、しばらくプリンを見つめていた。 「……そっか。サンタクロース来たんだ」 「え?」 「ママにもサンタが来てよかったねってこと」 愛梨は少し悪戯っぽく笑って、プリンを頬張った。 「ん、美味しい。……あの職人さん、いい仕事するじゃん」
私はキッチンで、自分用の栄養ドリンクを開けた。 グイッと飲み干す。 強烈な甘さと薬っぽさが喉を焼く。 バッグの奥のルージュは、昨日は出番がなかった。 予約していたレストランにも行けなかった。 おしゃれなデートも、ロマンチックな言葉もなかった。 けれど、ドアノブ越しに渡されたこの紙袋一つで、私はどんな宝石をもらうよりも愛されていると感じた。
窓の外を見ると、粉雪が舞い始めていた。 ホワイトクリスマス。 愛梨の寝息が聞こえる静かな部屋で、私は牧村さんにLINEを送った。 『サンタさん、ありがとう。熱、下がりました』 すぐに既読がつく。 『よかった。修理完了ですね』 その短い一言に、私はスマホを胸に当てて深く息を吐いた。 私の壊れかけていた心も、彼が直してくれたのだ。 聖夜の奇跡は、派手な演出の中にあるんじゃない。 コンビニの袋と、栄養ドリンクと、そして「大丈夫か」という一言の中にある。 四十五歳にして知った、本当の愛の形だった。




