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人生の第二章を歩み始める、大人の再生の物語。

第一部:輪郭のぼやけた鏡


第一章 カサついた指先と秘密の場所


 目覚まし時計が鳴るよりも先に、身体が朝を予感していた。  薄い瞼の裏に、カーテンの隙間から漏れる白んだ光が滲む。隣の部屋から聞こえる娘の寝息、遠くの通りを走る新聞配達のバイクの音。それらが、四十五歳の私の意識を現実に引き戻す合図だ。  まだ布団の中にいたいという甘美な誘惑を、重たくなった腰を上げる動作一つで断ち切る。 「……よいしょ」  誰も聞いていないのに、つい声が出る。この独り言のような掛け声が、私、宮本恵めぐみの一日のスイッチだ。


 洗面所の鏡の前に立つ。蛍光灯の冷たい光に照らされた自分の顔は、昨日の疲れをそのまま貼り付けたようだった。目尻の笑い皺は深くなり、頬のラインは少しだけ重力に負けている。化粧水を手にとり、肌に押し込むようにパッティングする。高価な美容液はやめた。今の私に必要なのは、娘の学費と、老後のための貯蓄、そして日々の生活を回すための体力だ。


 キッチンに立ち、手慣れた手つきで弁当箱を二つ並べる。娘の愛梨は高校三年生。受験生だというのに、最近は鏡を見る時間の方が参考書を開く時間より長い気がする。  卵焼きを焼きながら、昨夜の愛梨の言葉を思い出した。 『ママ、このリップの色、ちょっと古くない? 今はもっと透け感のあるやつが流行りなんだって』  娘の無邪気な指摘は、時々鋭利な刃物のように胸に刺さる。古い。そうだ、私は古いのかもしれない。離婚して五年。女としてのアップデートを止めたつもりはないけれど、優先順位はずっと後回しになっていた。


「おはよー……」  気だるげな声と共に、愛梨が起きてきた。ボサボサの髪に、私の着古したTシャツ。それでも肌は内側から発光するように白く、パンと張りがある。若さという暴力的なまでの輝きに、少しだけ目を細める。 「おはよう。愛梨、今日模試でしょう? お弁当、カバンに入れた?」 「ん、ありがと。ねえママ、今日の夕飯なに?」 「今日は金曜日だから……唐揚げにしようか」 「やった! あ、でも衣は薄めでお願い。最近ちょっと太った気がするし」  自分の腹をつまんで見せる愛梨に、私は苦笑する。その悩みすら、今の私には眩しい。


 愛梨を送り出し、私も身支度を整える。  午前中は駅前のビルに入っている中小企業の事務パート。午後はその足で、商店街にあるパン屋のアルバイトへ向かう。ダブルワークを始めたのは、愛梨が私立大学を志望し始めた二年前からだ。元夫からの養育費は滞りなく振り込まれているが、それだけで将来の不安が拭えるわけではない。  玄関でパンプスを履く。ヒールの高さは三センチ。これ以上高いと、夕方のパン屋の立ち仕事でふくらはぎが悲鳴をあげる。  最後に、黒のトートバッグを持ち上げる。中には財布、携帯、手帳、水筒、そして化粧ポーチ。  そのポーチの奥底、一番取り出しにくい場所に、一本の口紅が眠っている。  先月、デパートのコスメカウンターの前を通りがかった時、衝動的に買ったものだ。ローズピンク。販売員は「肌馴染みがよく、顔色がパッと明るくなりますよ」と言った。  けれど、まだ一度も唇に乗せていない。  派手すぎる気がしたのだ。事務の制服にも、パン屋のエプロンにも、そして「受験生の母」という顔にも、この艶やかな色は似合わない気がして。


「行ってきます」  誰もいない部屋に声をかけ、私は重いドアを開けた。



 金曜日の事務仕事は、一週間のおりをさらうような作業だ。  伝票の入力ミスを修正し、来週の会議資料を揃え、給湯室のポットを洗浄する。若い正社員の女の子たちが「今夜の合コン、何着てく?」と楽しげに話している声をBGMに、私は黙々と数字を追いかける。  彼女たちの会話に混ざることはないし、疎外感を感じることもない。ただ、違う時空を生きているのだと思うだけだ。彼女たちの悩みは「誰に選ばれるか」であり、私の悩みは「どう生き延びるか」だ。


「宮本さん、これ、お願いしてもいいですか?」  年下の上司が、申し訳なさそうに書類の束を差し出す。 「はい、大丈夫ですよ」  笑顔で受け取る。この「物分かりの良いおばさん」という仮面も、すっかり板についた。愛想よく、手際よく、そして余計な主張はしない。それが、この職場で四十五歳の私が生き残るための処世術だ。


 十三時にパートを上がり、近くの公園のベンチでおにぎりを一つ食べる。これが昼食だ。節約のためでもあるし、午後のパン屋の仕事の前に満腹になると動きが鈍るからでもある。  空を見上げると、薄い雲が流れていた。秋の気配を含んだ風が、後れ毛を揺らす。 「疲れたなあ……」  ふと、本音が漏れた。  身体の疲れではない。心の芯が、乾いているような感覚。  毎日が同じことの繰り返し。愛梨が巣立つまで、あと数年。その後、私には何が残るのだろう。一人暮らしの静かすぎる部屋と、老いていくだけの自分。そんな未来を想像すると、胸の奥が冷たくなる。


 パン屋「ブーランジェリー・ミヤタ」での仕事は、体力勝負だ。  焼き上がったパンを並べ、レジを打ち、トレイを拭く。夕方のラッシュ時は息をつく暇もない。 「いらっしゃいませ! 焼きたての塩パン、いかがですか!」  声を張り上げる。常連の老婦人が「あなたの笑顔を見ると元気がでるわ」と言ってくれた。その言葉は嬉しい。けれど、ガラスに映るエプロン姿の自分を見ると、時々、自分が誰なのかわからなくなることがある。  私は宮本恵。愛梨の母。バツイチのパート主婦。  記号で表せる属性ばかりが肥大して、中身の「私」がどこかへ置き去りにされているような虚しさ。


 十八時。  ようやく仕事が終わる。エプロンを外し、タイムカードを押す。  ここからが、私の一週間で唯一の「空白」の時間だ。  愛梨は塾で二十一時まで帰らない。夕飯の下ごしらえは朝のうちに済ませてある。  一時間だけ。たった一時間だけ、私は誰のためでもない時間を過ごす。


 向かう先は、商店街を抜けた先にある古びた市立図書館だ。  近代的な中央図書館とは違い、昭和の香りが残るレンガ造りの建物。蔵書も古く、独特の紙とカビの混じった匂いがする。だが、それがいい。ここには、今の流行も、世間の喧騒も、私を縛る役割もない。


 図書館の入り口にあるトイレに入る。  鏡の前。疲れ切った顔の女が立っている。髪は湿気でうねり、ファンデーションはヨレている。  私はトートバッグを開け、底を探る。  指先に、冷たく硬い感触が触れる。  あのルージュだ。  黒いスティックを取り出し、キャップを外す。艶やかなローズピンクが現れる。  誰も見ていない。ここは個室でもない、ただの公共のトイレだ。けれど、まるで悪いことをしているような動悸がする。  震える手で、ルージュを唇に滑らせる。  下唇に、鮮やかな色が乗る。上唇と合わせ、「ん、パッ」と馴染ませる。  それだけで、鏡の中の女の顔が変わった。  疲れたパート主婦ではない。名前のある、一人の女性の顔になった気がした。  口角を少しだけ上げてみる。 「……よし」  小さく頷き、私はトイレを出る。


 閲覧室は静かだった。  金曜日の夕方、利用者はまばらだ。学生たちはテスト勉強に忙しく、主婦たちは夕食の準備に追われている時間。ここにいるのは、定年退職した男性や、社会のスピードから少し降りたような人々ばかり。  私はいつもの席へ向かう。窓際、一番奥の書架の影にある、一人掛けのソファ席。  そこには、先客がいた。


 彼だ。  ここ三ヶ月、毎週金曜日のこの時間に必ず見かける男性。  年齢は私と同じくらいだろうか。白髪混じりの短髪に、縁の太い眼鏡。服装はいつもシンプルだ。今日はチャコールグレーの襟付きシャツに、使い込まれたチノパン。足元はスニーカーだが、泥汚れなどはなく清潔感がある。  彼はいつも、難しい専門書ではなく、古い海外の冒険小説やエッセイを読んでいる。  私たちが言葉を交わしたことは一度もない。  ただ、私がいつもの棚――海外文学の『ハ行』の棚――に行くと、彼もまた、その近くの『マ行』の棚にいることが多い。  それだけだ。名前も知らない。仕事も知らない。結婚しているかどうかも知らない。  けれど、この図書館という閉じた空間で、同じ静寂を共有しているという事実だけで、奇妙な連帯感を感じていた。


 私は文庫本の棚から、レイモンド・カーヴァーの短編集を抜き出した。  背表紙の手触りを確認し、パラパラとページをめくる。  ふと、視線を感じた。  顔を上げると、三メートルほど離れた閲覧席に座る彼と目が合った。  眼鏡の奥の瞳は、静かな湖面のように穏やかだった。  彼は軽く会釈をした。ほんの数センチ、顎を引いただけの挨拶。  私も慌てて頭を下げる。  心臓が、トクンと跳ねた。  ただの会釈だ。図書館の利用者同士の、マナーとしての挨拶。  けれど、私にとっては事件だった。  彼が私を認識していたこと。そして、私に対して何らかのアクションを起こしたこと。  頬が熱くなるのを感じる。 (私、今、変な顔してない?)  不安になって、無意識に口元に手をやる。  そこには、さっき塗ったばかりのルージュがあるはずだ。  いつもより少し赤い唇。  彼は、それに気づいただろうか。 「派手な化粧をしたおばさん」と思われただろうか。それとも、「身だしなみを整えた女性」として映っただろうか。


 私は逃げるように本を抱え、彼から一番離れた席に座った。  本を開くが、文字が頭に入ってこない。  指先が微かに震えている。カサついた指先。レジ打ちと洗い物で荒れた、私の生活の証。  けれど、その指先で触れた唇だけは、今、確かに潤っている。


 三十分ほど経っただろうか。  彼が立ち上がる音がした。  本を返却カウンターに戻し、出口へ向かう。その背中は少し丸まっていて、どこか哀愁が漂っている。  彼は出口のガラス戸の前で一度立ち止まり、ふとこちらを振り返った気がした。  いや、気のせいだ。自意識過剰もいいところだ。  彼が姿を消すと、図書館の空気が少しだけ薄くなったように感じた。


 十八時五十分。  私の魔法の時間はおしまいだ。  トイレに戻り、ティッシュペーパーで丁寧にルージュを拭き取る。  鮮やかな色は白い紙に移り、私の唇は元のくすんだ色に戻る。  これでいい。これが私の現実だ。  バッグの奥底にルージュをしまい込む。また来週まで、おやすみなさい。


 図書館を出ると、外はすっかり夜だった。  スーパーへ寄り、特売の鶏もも肉を買う。頭の中はすでに「唐揚げの下味をどうするか」「愛梨の模試の出来はどうだったか」という現実的な思考で埋め尽くされている。  けれど、自転車のペダルを漕ぐ足取りは、来る時よりも少しだけ軽かった。  夜風が冷たい。でも、唇に残る微かな油分の感触が、私を守ってくれているような気がした。


 家に帰り、玄関を開ける。 「ただいま」  静まり返ったリビング。まだ愛梨は帰ってきていない。  エプロンを着け、キッチンに立つ。  鶏肉にフォークで穴を開け、醤油と酒、生姜の絞り汁に漬け込む。  その単純作業の最中、ふいにあの人の眼鏡の奥の瞳が蘇った。  ――来週も、会えるだろうか。  その思考を打ち消すように、私はボウルに入った肉を強く揉み込んだ。  バカね、と自分に言い聞かせる。  これは恋じゃない。  乾ききった日常に差した、ほんの一滴の水のようなものだ。すぐに蒸発して消えてしまう。  それでいい。それだけで、また一週間、私は「お母さん」を頑張れるのだから。


「ただいまー! やばい、今日のおかず唐揚げ? 匂いでわかる!」  玄関から愛梨の元気な声が響く。  私は慌てて表情を引き締め、母親の顔を作る。 「おかえり。手洗いうがいして。すぐ揚げるから」 「はーい。ねえ聞いてよママ、今日塾でさ……」  キッチンに入ってきた愛梨が、私の顔を覗き込んで首を傾げた。 「ん? ママ、なんか今日、顔色よくない? いいことあった?」 「え……」  心臓が早鐘を打つ。まさか、ルージュが落ちきっていなかったのか。 「別に。いつも通りよ。ちょっと涼しくなって、過ごしやすかったからかな」 「ふーん。ならいいけど。あ、私お腹ペコペコ!」


 背中を向けて油の温度を確かめる。  愛梨の勘の良さには冷や汗が出る。けれど、娘に「顔色がいい」と言われたことが、密かに嬉しかった。  バッグの奥のルージュ。図書館の彼。  それは私だけの秘密。  誰にも言えない、でも、私を支えてくれる小さな秘密。  油がパチパチと音を立てる。  私は一つ目の唐揚げを、黄金色の油の中に滑り込ませた。ジュワッという音と共に、香ばしい匂いがキッチンに広がる。  日常が戻ってきた。  でも、今日の私は、昨日までの私とはほんの少しだけ、何かが違う気がした。


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