6.欲望を眠らせて
翌朝、ハールモントは目を覚ました。窓まで行ってカーテンを開くと、まぶしい朝日が差し込んできた。『眠りの魔法』は計算通り、朝まで完全な睡眠を保ってくれたようだ。あの夜を超えられたことにひとまずほっとする。だが気分はよくない。興奮状態だったところを無理やり魔法で眠らせたのだ。軽い頭痛がした。
ベッドの上では未だエルアイネアが安らかに眠っている。朝日の中、穏やかに寝息を立てている花嫁を見ていると胸の奥から愛しさがあふれ出してきた。
初夜は思わぬ結果に終わってしまった。それでも彼女と結婚したことには変わらない。これからいくらでも取り返せる。
そんなことを考えていると、エルアイネアが身を小さく身をよじり始めた。朝日がまぶしいのだろう。もっと寝かせてあげたいとも思ったが、寝すぎると睡眠の質が下がる。このまま目覚めさせた方がいいだろう。
そして、エルアイネアはぱっちりと目を開くと身を起こした。
「ハールモント様……」
「おはよう、エルアイネア……ど、どうしたんだ!?」
エルアイネアの目から、つうっと線が引かれた。朝日を受けて輝く、一筋の流れ。それは幻想的な光景だった。神聖で尊い姿だった。しかしハールモントはその美しさに心を奪われているわけにはいかなかった。
なぜならそれは、涙だからだ。エルアイネアは涙を流しているのだ。
「どうしたですエルアイネア? 私の魔法がうまくいかなかったのですか……?」
『ゆるやかなゆりかご』は完成度の高い快眠の魔法だ。しかしどんな魔法でも相性というものがある。エルアイネアの体質や魔力が魔法に合わなかった可能性もある。もし何かの異常が発生したのならすぐにでも処置しなければならない。
エルアイネアは自らの頬を撫でた。
「わたし……泣いているんですね……」
「そうです、あなたは泣いているんです。何か痛いところがあるのですか? 気分が悪いのですか?」
「いいえ……いいえ……」
エルアイネアは首を左右に振った。痛みはない。気分も悪くないようだ。それなら彼女はなぜ泣いているのか。
「この涙はきっと、わたしの心が震わされたからです。こんなに温かで優しい眠りがあるとは知りませんでした……眠るのって、こんなにも癒されるものなんですね……」
そう言ってエルアイネアは笑った。満ち足りた優しい笑みだった。
ハールモントはただその笑みを、ぼうっと眺めるばかりだった。
ハールモントは『眠りの魔法』を研究している。その過程で幾度も感謝の言葉を受けたことがある。それでも眠りの素晴らしさに涙を流す者を見るのは、これが初めてだったのだ。
身支度を終え食堂に行くと、エルアイネアの妹、マティリースに迎えられた。
「お義兄様。これまでの無作法、大変失礼いたしました」
そう言ってマティリースは深々と頭を下げた。気位が高い彼女の姿ばかり見てきたので、そのしおらしい態度に戸惑うものがあった。
「あ、頭を上げてください。事情はエルアイネアから聞きました。不眠症とは大変でしたね」
「不眠症は心を削る忌々しい難病でした。でもお義兄さまのおかげですっかり治りました。感謝の念に堪えません」
そう言ってマティリースはにっこりと笑った。貴族令嬢らしく華やかで上品な笑みだった。
今までは攻撃的な態度の彼女ばかり見ていたので、そんな輝くようなかわいらしさをもっていたなんて思わなかった。こんな令嬢が自分の妹になるなんて、ハールモントはなんだか実感がわかなかった。それにこんなにもまっすぐ感謝の言葉を贈られるのも、どうにも面映ゆいものがあった。
「いや……私の魔法が役に立ったのならうれしいことです。これからは家族になるんです。気兼ねせず頼ってください」
ハールモントは子爵家の四男だ。上の兄たちに及ばない自分に劣等感を持っていた。しかし自分の魔法でこんなにも感謝されたから、柄にもなくそんなことを言ってしまった。
するとマティリースの瞳がきらりと輝いた。いきなりハールモントに触れんばかりの距離まで踏み込んできた。
「頼っていいんですか!?」
「え? ええ、もちろんです」
戸惑いつつも応えるハールモントに対し、さらにマティリースは踏み込んできた。
頬に赤みが差し、その吐息には熱がある。
「それなら早速今夜、あの素晴らしい魔法をかけてはいただけないでしょうかっ!?」
不眠症に苛まれていたマティリースは、眠りの快楽を性的快楽に結び付けている。これまと違い、もはやそれを隠すつもりも無いようだった。エルアイネアの言葉を疑ったわけではないが、こうして実際に目にするとやはり驚きが勝る。
「マティリース。お行儀が悪いですよ。あの魔法は、結婚したら月に一回の約束でしょう?」
ぞっとするほど冷たい声が響いた。ハールモントの隣に立つエルアイネアの声だ。彼女がこんな冷たい声を出せるとは思わなかった。
その声にマティリースはびくりと身を震わすと、すぐさまハールモントから距離を取った。
「も、申し訳ありませんお姉様。もちろん約束のことは心得ています。素敵なお義兄様ができてうれしくなってしまって……確かに無作法でしたわ。申し訳ありません」
そう言ってマティリースは洗練されたカーテシーを披露した。その所作の美しさは伯爵家に連なる者としてふさわしいものだった。しかしその顔には不満の色がある。
マティリースにとって眠りの心地よさはそこまで魅力的なのだろう。ハールモントは研究者としてそうした病気にも理解があったから、ある程度は理解できた。
しかし、それでもわからない。エルアイネアはさきほど、どうして泣くほど感動したのだろう。彼女が不眠症だったとは聞いたことがない。婚約者としての付き合いの中でもそうした様子は見えなかった。
そのことがどうにも心にひっかかった。
朝食を終えた後は執務室で領地経営の引継ぎとなった。
結婚式の翌日にあわただしいことだが、これはエルアイネアの望んだことだった。
今回の結婚でハールモントは伯爵家に入った。長女と結婚したことで彼は伯爵家を継ぐこととなる。しかしそれはあくまで名目上のことで、伯爵家の実権を握るのはエルアイネアになる。
これは低い爵位の婿を迎える貴族の家ではよくあることだ。自分の血筋により近いものを上に立てたいと考えるのはごく当たり前のことだ。
むろん、これは妻が優秀でなくては成り立たない。能力の見合わぬものに家のかじ取りを任せることは没落につながる愚行だ。
エルアイネアにその心配はなかった。彼女は学園をトップクラスの成績で卒業した才媛だから能力的には十分だ。そして伯爵家の名に恥じない気品も有している。
そもそも結婚式の翌日に引継ぎを提案したのも、周囲に次期伯爵家の長は私事にかまけて仕事をおろそかにしない人間だと周囲に示すためだった。
ハールモントは自分がお飾りの伯爵になることにさほど不満はなかった。もともと立場の低い子爵家四男に生まれた彼にとって、伯爵家を支えることなど荷が重すぎるように思えた。それに領地経営にあまり労力を割かれないから、魔法省の仕事を続けられることになっている。それも彼にとっては都合のいいことだった。
エルアイネアは引継ぎの様々な業務について現伯爵や事務員たちから説明を受けていた。彼女はほとんどの仕事を既に心得ているようだった。
ハールモントも別個に説明を受けた。彼も四男とはいえ貴族であることに変わりはない。領地経営の基本的なことについては知っている。能力的には仕事には向いており、事務的な処理や帳簿の整理などは問題なく行えそうだった。しかし領地に関する重要な決断となると腰が引ける。やはり自分は領主になど向いていないのだと改めて痛感した。
エルアイネアは積極的に領主の仕事に取り組んでいる。その真剣な瞳、毅然とした姿は美しい。彼女の新たな一面を知ったように思った。
だが、ハールモントはどこか危険なものを覚えた。確かに彼女は能力が高く、領主にふさわしい品格を備えている。しかしあまりにも張りつめすぎている。どれほど頑丈な縄だろうと、張りつめた状態ではわずから切れ込みをきっかけにちぎれてしまうことがある。エルアイネアからはどこかそんな危うさが感じられたのだ。
そして夜となった。業務の引継ぎは肩がこることだった。終えた後はかなりの疲労感を覚えた。
それでも夕食をちゃんと取り夜を迎えれば話は別だ。かわいい嫁との夜の時間が待っている。新婚の旦那というものは、それだけで底なしの体力を発揮するものなのだ。
だが、彼を待っていたのは無情な願いだった。
「今夜も『ゆるやかなゆりかご』をかけて欲しいだって!?」
驚きの声を上げるハールモントに対し、エルアイネアは恥ずかし気に頷いた。
「妹から聞いていましたが、昨晩の眠りは想像以上でした。あなたの魔法のもたらす眠りがあそこまで素晴らしいものだとは思いませんでした」
「だが……なにも二晩連続で眠らなくてもいいじゃないですか!? 明日の夜にしましょう! 今夜は子作り、明日は睡眠! そんな感じでにしませんか!?」
ハールモントは必死だった。心が彼女を求めている。本能がやってしまえと叫んでいる。二人は正式に結婚したのだから、この場で襲い掛かっても法的には問題ない。踏みとどまっているのは彼女のことを大切に思っているからだ。しかしそれも限界だ。かわいくて有能な嫁さんがベッドにいるのに二晩も我慢するなど、普通の男には不可能なことだ。
「妹には何度も何度もかけてあげたではないですか! 今朝もあの子の前でデレデレして! ハールモント様はあの子の方がお好きなんですか!?」
「そ、そんなわけないでしょう! 何度も魔法をかけたのは、あなたとの時間を邪魔されないためで……」
「ずるいずるい! 妹ばっかりずるい!」
「こ、子供みたいなこと言わないでください!」
昼間の毅然とした態度はどこへいったのやら。寝室のエルアイネアはまるで子供のようだった。
今日は彼女の新たな一面を見ることができた。ますます愛おしくなった。それなのに抱けないなんて、こんなに残酷な話があるだろうか。
エルアイネアはしばらく駄々をこねていたが、それでもハールモントに引く様子はない。やがて彼女は顔を伏せ、ぼそっとこんな事をいった。
「実はお恥ずかしい話ですが……わたしはまだ、男性とそういうことをするのが、少し怖いのです……」
ハールモントは思わず心の中で「卑怯だ!」と叫んだ。
そう言われると踏みとどまらざるを得ない。ここで嫌がる彼女を無理やり襲えば、愛より色欲が勝ったことになってしまう。
自信にあふれた男なら、それでも押し切ってしまえたかもしれない。愛するからこそ女性を抱く。それはまっとうなことだ。
だがハールモントは子爵家の四男として生まれた。劣等感を常に抱えている。初めての夫婦の夜の営みでで失敗しないという自信もない。
なにより、気づいてしまったのだ。彼女の姿や声、その端々に疲れが感じられる。無理させていい状況ではなかった。領主の仕事を引き継いだ初日だ。それも無理はないことだ。
エルアイネアのことを愛しているなら、今夜は抱くべきではない。理性はそう結論を出した。身の内側から湧き起こる性欲を強引に押さえつけると、ハールモントは今夜も眠りの魔法を使うのだった。
「今日は領地の見回りにってもう体力が尽きてしまって……」
「執務でミスが見つかりとても疲れました……」
「月のものが来てしまいました」
様々な理由でエルアイネアは夜の営みを断り続けた。そのことに対してハールモントはもう腹を立てることはなかった。彼女の苦労を知ったからだ。
エルアイネアは伯爵家の長となる。家のすべてを任されるということは、それだけの能力を求められるということだ。エルアイネアは家を担うという前提で幼いころから厳しい教育を受けていた。それに応えるだけの才覚があった。それでも彼女の生きる道は険しいものだった。
エルアイネアの決断が家の存続を左右する。その振る舞いが伯爵家の格を決める。それは伯爵家内においても例外ではなく、使用人たちに対しても女主人としての品格を示し続けなければならない。
優雅に見えるお茶会の席においても、常に伯爵家の長としての姿を示さなければならない。エルアイネアには気を抜いてくつろげる時間というものがなかった。
眠りの魔法をねだるのも、子供のような駄々をこねるのも寝室の中だけだ。エルアイネアが気を抜けるのはそうした時間しかないのだ。
だから『ゆるやかなゆりかご』に涙を流すほど感動した。その癒しの心地よさから逃れられなくなった。
ハールモントはエルアイネアのことを助けてやりたいと思っている。だが彼の力では彼女の代わりを務められない。
もし彼が当主となることを宣言すれば、親類縁者が黙っていないだろう。そんな状況になればかえってエルアイネアに負担をかけることになるだろう。
そもそもハールモントは研究だけに没頭してきた男だ。事務能力はあるが領主としての重要な決断をすることにはまるで向かない。彼女の役目を肩代わりすることなんて土台無理な話だ。
そんなハールモントにも、エルアイネアのためにできることがある。それは眠りで癒すことだ。
エルアイネアが本当の意味で休めるのはベッドの中だけだ。『ゆるやかなゆりかご』なら彼女のことを癒すことができる。
領主としての仕事が本格化してきた今は、エルアイネアの負担が特に大きくなっている。だがそれも時間が経てば少しずつ楽になっていくだろう。子作りはもっと仕事に慣れて余裕ができでからでいい。それまでは精一杯、彼女のことを支えよう……ハールモントはそう決めた。
エルアイネアを愛している。だからどんなにつらくても耐えられる。ハールモントはそう信じていた。
だが、愛しているからこそ耐えられないこともある。致命的な事態に至るまで、彼はそんな当たり前のことに気づくことができなかった。