5.気持ちよく眠らせて
「なぜです……どうして『ゆるやかなゆりかご』を望むんですか?」
初夜のベッドに腰掛ける花嫁エルアイネア。その前に立ち、ハールモントは困惑した顔で問いかけた。
婚約中だったならハールモントは二つ返事で引き受けていたことだろう。愛する人に快眠を提供するなんてとても素晴らしいことだ。
しかしここは初夜の場だ。貴族の最も大事な仕事は貴き血を後世につなげること。子作りは貴族の義務だ。だが、花嫁が眠ってしまっては子作りも何もない。世の中には眠っている女性を起こさずに事を成すことに興奮を覚える性癖もあると聞く。ハールモントにはそういう性癖はない。彼は好きな人と気持ちを確かめ合いながら肌を重ねたいと熱望している。
それにエルアイネアの前で見せた『ゆるやかなゆりかご』は、言ってみれば妹への懲罰だ。そんな魔法を自ら望むのは奇妙なことだった。
「そうですね……あなたからすれば、わけのわからないことでしょうね。順を追ってお話いたします」
そうしてエルアイネアは語りだした。
「以前、身内の者が不眠症に悩まされていたとお話ししました。それはマティリースのことだったのです」
「マティリース嬢が……」
そう言われ、初めてマティリースに対して『ゆるやかなゆりかご』を使った時のことを思い出した。眠気を送り込むときに抵抗を感じた。本人が抵抗の意思があるためと考えていたが、不眠症の人間もそうした抵抗を示すことがあった。
「妹は普段から魔法や薬を使って眠りを取っていました。しかし普通の魔法は目覚めが悪く、薬も強いものになると副作用があります。そのせいで日中はいつもイライラしていて、そのせいで人当たりがきつくなってしまったんです……」
「それで貴女の婚約者に厳しくあたったていたのですか?」
「あの子はわたしのことを大切に考えてくれていました。それで伯爵家の財産目当ての男や、わたしの外見を目当てに言い寄ってくる男に厳しい態度で接していました。本当は優しい子なんです……」
彼女の行動は姉の幸せを考えてのことだが、それによって姉の幸せを遠ざけてもいた。なんともやりきれない話だった。
「それは大変でしたね。相談してくれればいただければ治療に協力しましたのに……」
「いえ、それには及びませんでした。あなたの開発した素晴らしい魔道具『穏やかなる子守歌』によって、妹は不眠症からほとんど回復していたのです。ぜひ設計者に感謝を述べたいと思って調べました。そしてあなたのことを知ったのです。あなたは伴侶は持たず、付き合っている特定の女性もいないご様子でした。ぜひとも我が伯爵家に迎え入れたいと思い、縁談を持ち掛けたのです」
自分の設計した魔道具が身近な人間を救っていた。そのことでエルアイネアとの結婚までできた。自分の結果がいい結果につながった。ハールモントの胸は温かなもので満たされた。
するとあの日の状況の異常さに気づいた。
「それじゃあなんで初対面の時、マティリース嬢はあんなにきつく当たってきたのですか?」
マティリースは『穏やかなる子守歌』で不眠症から脱することができた。その開発者にも感謝しているという。それなのに、あの日の彼女はまるで姉に群がる悪い虫を追い払うような態度だった。
「事前の調査であなたが独自の『眠りの魔法』の使い手だと知っていました。妹はその魔法をかけてもらうことを熱望していました。でもあの子は意地っ張りで、素直にお願いできなかったのです」
「だからと言って、あんな攻撃的な態度をとるなんて……」
「あの子は不眠症であることにコンプレックスを抱いていました。将来家族となる者から、憐れみで治癒を受けることをよしとしなかったのです。だから挑発して魔法をかけてもらうよう、一芝居打ったのです。手加減なしの本気の『ゆるやかなゆりかご』を使ってもらう。そして魔法の効果を実感したうえで、改めてお礼を言う……本来はそういう筋書きでした」
だが、そうはならなかった。なぜならハールモントは、マティリースから感謝の言葉をもらったことはない。というか、ここ最近は顔を見たら眠らせていたので会話を交わしたことすらなかった。
「なぜ筋書きが変わってしまったのですか?」
きっと何かあったのだ。それこそがこの話の本題に違いない。ハールモントはごくりとつばを飲み込んだ。
「それは……あなたの魔法が気持ち良すぎたのです」
「……え?」
なんだか全然予想外の言葉が告げられ、ハールモントは間の抜けた声を漏らした。
エルアイネアは真剣な顔で話を続けた。
「最初は乱暴だけど、注ぎこまれる魔力は優しくて、それが身体の中にしみ込んでいくとふわふわして気持ちになって身体が温かくなって……それはまるで天に昇るような心地よさだそうなんです」
『ゆるやかなゆりかご』は健全な安眠魔法だ。しかし初夜のベッドの上という状況のためか、なんだか淫らな話をしているような気持ちになってしまう。
魔法の開発中、『ゆるやかなゆりかご』の被験者が「気持ちよかった」と感想は聞いていた。しかしマティリースの語る感想は、それらとは少し違う種類のものに聞こえた。
「あの子はすっかり気に入ってしまい、何度も魔法を受けたいと思いました。そのために芝居を続けることにしたのです」
「そ、そんなことのために何度も突っかかってきたのですか? わざわざ契約書まで準備して!? せめて人目を避けるべきでは……」
「わたしにはよくわかりませんが……人目のある場所で強引にされるのが気持ちいいと言っていました」
婚約者としての付き合いは一年に及んだ。週に一回はエルアイネアに会うようにしていた。
その際、ほとんど毎回マティリースはやってきた。そのたびに『ゆるやかなゆりかご』で眠らせた。
週に一回、飽きることなく一年間も魔法を受ける。しかも人目のある場所の方がいいらしい。これはある種の中毒だ。
マティリースは不眠症で苦しんでいたという。どうやら病からの解放された爽快感を、性的な快感に結び付けてしまったらしい。
『ゆるやかなゆりかご』は健全な魔法だ。それがこんな事態を引き起こすことになるなんて、開発者のハールモントもまったく予想だにしないことだった。
「なんて言うか……妹さんは変わった性癖をお持ちですね」
「お恥ずかしい限りです」
ハールモントとしては精一杯言葉を選んだつもりだったが、あまりうまくいかなかった。エルアイネアは顔を赤らめた。
「しかしそうすると……これからは毎日マティリース嬢に『ゆるやかなゆりかご』をせがまれることになるわけですか……」
ハールモントはヴィードクロゼス伯爵家に婿入りする。魔法省の仕事もあるので、今後伯爵家のタウンハウスで過ごすことになるだろう。そこまで『ゆるやかなゆりかご』を気に入ったのなら、マティリースもタウンハウスで暮らして毎晩魔法をかけるようせがんでくるに違いない。エルアイネアもきっとそれを薦めてくるだろう。
『ゆるやかなゆりかご』の行使自体は大した負担ではない。この一年ですっかり慣れた。しかしマティリースはどうもハマリぶりは異常なものがある。このまま使い続けていいのかというためらいがあった。
「とんでもありません! そんなこと、許されるわけがありません!」
「どうしてっ!?」
突然語気を荒げるエルアイネアに、ハールモントは仰天した。一年も妹の性癖に付き合った姉が、今更なんで否定するのだろうか。
「妹のことは愛しています。今まで不眠症になったあの子が眠りに魅せられるのも理解できます。だから結婚前までは大目に見ました。ですが結婚したら話は別です。仮にも貴族令嬢が、姉の夫に気持ちよくしてもらおうと言い寄るなんて、ハレンチ極まりないではありませんか!」
それはわりと常識的な主張だった。
結婚前は親族が少しくらい甘えてくるのは大目に見る。結婚したらきちんと線引きをする。それは貴族にとって大事なことではある。今回の場合、今更なにを言っているのかという思いもあるが、ハールモントとしてはエルアイネアが独占欲を見せてくれたのをうれしく感じていた。
「マティリース嬢はそれで納得したのですか?」
「かなり渋りました。交渉の末、一か月に一度だけ『ゆるやかなゆりかご』をかけてもらうということになりました。ハールモント様に確認もせず決めてしまい申し訳ありません。どうか月に一度、妹に魔法をかけてはいただけないでしょうか?」
「は、はあ。それぐらいなら別に……」
結局、エルアイネアは妹に甘かった。
しかし落としどころとしては悪くない。こういう時、いきなりすべてを禁止するとかえって状況が悪化するものだ。一か月に一回程度ならマティリースもいずれ落ち着くことだろう。
大丈夫、健全だ。やましいことはなにもない。そう、納得することにした。
そうすると最初の疑問が気になった。
「妹君の事情はわかりました。それで、貴女が今夜、『ゆるやかなゆりかご』を望む理由は何なのですか?」
そう問いかけると、エルアイネアは顔を伏せてしまった。
そしてぼそっと小声で何やらつぶやいた。
「……それは、その……」
「どうして言いよどむのですか? 私としても事情を聞かないと納得できません」
「妹から……聞いたんです……」
「え、なんですって?」
「だからっ! 妹から何度も何度も『ゆるやかなゆりかご』は気持ちいいと聞いて! それでわたしもかけてもらいたいと思ったんです!」
「言ってくだされば、いつでもかけてあげましたのに……」
「結婚前の令嬢が、殿方に『気持ちよくなる魔法をかけてほしい』なんて、言えるわけがないじゃないですか!」
エルアイネアは顔を真っ赤にしてそんなことを言った。
妹の事情を話さず、ただ『ゆるやかなゆりかご』をかけて欲しいと望めば、ハールモントは応じただろう。だがエルアイネアは妹に関することはさておき、自分のことで婚約者をだますようなことはしたくなかったのだ。いろいろとおかしな状況ではあるが、ハールモントは彼女の誠実さだけは好ましく思えた。
「だからこの時を待っていたのです……どうかわたしに、あの魔法をかけてください……!」
涙にぬれた上目遣い。その吐息には熱がある。エルアイネアは美しい。そんな彼女にこんな艶っぽくせがまれれば、なんだって叶えてやりたくなる。
しかしハールモントは逡巡した。ここで彼女の願いをかなえれば、待っているのは絶望だからだ。
これまでの婚約者としてのつきあいで、軽いキスやハグ程度はしてきたが、それ以上のことはまだだった。彼女のことを大切にしていた。嫌われなくなかった。だから清い付き合いを保ってきた。
だからこそ、この初夜を楽しみにしていた。ついに一線を越えるこの夜を、一日千秋の思いで待ち続けてきたのだ。
だがそれも、『ゆるやかなゆりかご』をかければ終わってしまう。魔法をかければ彼女は健やかに眠ることだろう。睡眠の質を最高にするには一定時間以上の眠りが不可欠だ。途中で起こしてしまえば台無しになる。
つまり『ゆるやかなゆりかご』をかければ、ハールモントは何もできなくなる。こんなにかわいらしい花嫁を前にして何もできないのは、生殺しと言うほかない。
「わたしにはかけてくださらないのですか……?」
ハールモントの迷いを読み取ったのか、エルアイネアの顔が青ざめた。
「どうしてですか!?」
「それはその……初夜とはそういうものではないでしょう」
「初夜に花嫁を気持ちよくさせるのが花婿の最初の仕事のはずです!」
「いや、それは意味が違うと言いますか……」
「妹の方がいいいんですか!?」
「え!?」
「妹のことはあんなにたくさん気持ちよくしてくれたのに、わたしは嫌なんて……妹の方がいんですね! ひどい!」
「そういうことじゃありません!」
エルアイネアはもう聞く耳を持たなかった。枕に突っ伏してしくしくと泣きはじめた。たまに足をバタバタと動かしているのが妙にかわいらしい。まるで駄々っ子だった。
「痛そうだから」「怖いから」「なんか思っていたのと違う」……そんな理由で初夜を断る花婿の話を聞いたことがある。しかし快眠を求めて初夜を拒否する花嫁というのはさすがにそうはいないだろう。
それでもハールモントはエルアイネアのことを愛していた。だから、覚悟を決めた。
「エルアイネア。泣き止んでください」
「ハールモント様……」
「私はあなたを幸せにしたくて結婚したんです。それが初夜で泣かせてしまうなんて、花婿失格ですね。だから、やり直させてください。あなたにプレゼントをしたいと思うんです」
「プレゼント……?」
「あなたに最高の快眠をプレゼントします。『ゆるやかなゆりかご』で、ね」
そういうと、エルアイネアはパッと起き上がると、ハールモントの胸に飛び込んだ。
「ハールモント様、大好きです!」
抱きしめ返したくなったがこらえた。今抱きしめかえしたら、きっと一線を越えてしまう。そうすれば嘘を吐いたことになってしまう。
ハールモントが選んだのは過酷な忍耐の道だった。
そして、ハールモントは『ゆるやかなゆりかご』を使った。興奮するエルアイネアの魔力を睡眠状態に持っていくのは少々大変だったが、彼の技量なら可能なことだった。
魔法はかかった。エルアイネアは穏やかな顔で、つつましい寝息を立てている。
かわいらしい寝顔だった。愛しいと思う一方で、乱暴にしたいという衝動もある。今宵は初夜であり、ハールモントは若くて健康な男性なのだ。
このままここにいてはまちがいをおかしてしまいそうだ。ハールモントは寝室を去ることにした。だいぶ夜も更けてきたが、使用人に命じれば寝る場所くらいは用意してもらえるだろう。
「……いや、それはだめだ」
ハールモントは思いとどまった。
初夜に花嫁を置いて花婿が寝室を立ち去る。それは周囲に夫婦の不仲を喧伝するようなものだ。伯爵家の使用人たちは信頼のおける者達だ。それでも夫婦の不仲は彼らの信頼を損ね、それはいずれ外に伝わってしまうものだ。
そんな不幸を避けるためにはこの部屋で一晩過ごさなければならない。魅力的な花嫁の寝姿を前に、指一本触れずに過ごす。そんなことが可能な男がいるだろうか? いるわけがない。
だからハールモントは自らに強力な睡眠の魔法をたたき込んだ。繊細な調整を要する『ゆるやかなゆりかご』を自分自身に使えない。だから普通の『眠りの魔法』で強引に眠るしかなかった。睡眠の質は下がるだろう。だが花嫁の安らかな眠りのためならば、これくらはなんてことはない。そう考えながら、ハールモントの意識は闇へと沈んだ。