1.初夜は眠らせて
「今夜は子作りをしたくないだって……!?」
伯爵家の広々とした寝室に戸惑った声が響いた。
今宵は初夜。結婚式を終えた新婚夫婦が初めて迎える夜である。
新郎の名はハールモント。元子爵家の四男であり、この結婚で伯爵家への婿入りをすることとなった22歳の男性だ。
茶色のくせっけに茶色の瞳。やや痩せ気味の身体。ナイトガウンから見える胸板は薄い。その外見に際立った特徴はない。普段は理知的な雰囲気をまとう学者然とした彼だが、その顔は今、困惑が占めている。
新婦の名はエルアイネア。今年で18歳になる伯爵家の長女だ。腰まで届く、ミルクのように滑らかなプラチナブロンドの髪。薄青の落ち着いた瞳。整った顔立ちと身にまとう気品は、伯爵家にふさわしい品格だ。薄いネグリジェから見える身体はほっそりとしているが、その胸元にはつつましくも確かなふくらみがある。今まさに大人の女性として花開きつつある、可憐にして麗しい令嬢だった。
エルアイネアは恋する乙女のような潤んだ瞳を新郎であるハールモントに向けている。
ハールモントはエルアイネアのことを愛している。子爵家四男の自分にはもったいないほど美しい相手だった。大切にしようと心に決めた。婚約してからは他の女には目もくれずに彼女のことばかり考えていた。
結婚式を終え、ようやくこの初夜へと至った。この夜が来ることを夢に見るほど待ち望んでいた。それなのに、彼女は子作りをしたくないと言うのだ。
「な、なにか私に不手際があっただろうか?」
ハールモントは自らの身体を検めた。あまりたくましい身体をしていないという自覚はある。それでも初夜に当たり湯あみで徹底的に身体をきれいにしたし、彼女の好む花を使った香水も慎重に量を見定めふりかけてきた。身にまとったナイトガウンもシックなものだ。花嫁を不快にさせる要素はないはずだ。
エルアイネアはゆっくりを首を振った。
「いいえ、あなた様は何も間違ってはいません」
ハールモントはほっとした。
しかしそうなると、もう一つの深刻な可能性を考えなければならない。
「で、ではまさか……私との結婚はかりそめのもので、君には他に愛を交わした者がいるのか……?」
それは一度ならず考えたことのある懸念だった。
エルアイネアは美しい令嬢だ。伯爵家の長女であり、能力も申し分ない。それが18歳になるまで未婚のままでいるのは不自然だ。
恋愛ものの小説で、不本意な結婚をした新郎が『白い結婚』を宣言するというものがある。『白い結婚』とは数年後別れることを前提に、子作りをしないでかりそめの結婚生活を送るという契約だ。
男が話を持ち掛けるというイメージが強いが、爵位が上のエルアイネアが宣言してもおかしくはない。
例えばエルアイネアは誰か、身分違いの男を愛しているのかもしれない。いかにその愛が大切だろうと、貴族令嬢としていつまでも独り身でいるわけにもいかない。子爵家の四男という適当な相手を一時の夫として、愛する男にだけ身体をささげるというのはありうることだ。
その恐るべき想像はハールモントの顔を青ざめさせた。
しかしその懸念に対してもエルアイネアは首を横に振った。
「そんな不誠実なことは考えておりません。私が生涯を添い遂げると決めたのは、ハールモント様ただ一人です」
ハールモントは彼女の目を見た。真剣で真摯なまなざしだ。そこには嘘や隠し事はないと信じることができた。
エルアイネアには他の男はいない。彼女は自分だけの花嫁なのだ。ハールモントは心の底からほっとした。
だがそうなると、最初の疑問に説明がつかない。
「それならなぜ、子作りを拒むというんだ?」
「それはその……」
問いかけるとエルアイネアは頬を赤らめてもじもじし始めた。普段は落ち着いた淑女である彼女だけに、そういう子供っぽい仕草をすると物凄くかわいらしく見える。思わず抱きしめたくなったが、ハールモントはぐっとこらえた。
これはもしかすると、初夜が怖いのかもしれない。女性の初めては痛みを覚悟しなくてはならない。不安や恐怖で初夜を嫌がる新婦というのは珍しくない。
もし彼女がそうした理由で子作りを拒否するなら、ハールモントは受け入れるつもりだ。子作りは貴族の義務だが、エルアイネアのことをできる限り苦しめたくはない。そのためなら何日か我慢することくらいなんてことはない。きっと耐えて見せる。
だがしかし、彼女の答えはそんな覚悟とは関係のないものだった。
「実は……あなたの魔法『ゆるやかなゆりかご』をかけていただきたいのです!」
『ゆるやかなゆりかご』とは快眠をもたらす、ハールモント独自の魔法である。
つまり彼女は初夜を放り出し、眠りたいと言っているのだ。
だがそれはあり得ないことだった。
ハールモントはエルアイネアの前で何度もその魔法を使った。その効力のほどを幾度も披露した。だがそれは二人の付き合いを邪魔する者を撃退するためだった。
そんな魔法を、それも初夜に望むなんて、ハールモントにはまるで理解できないことだった。