#009 「“ともり”を信じる人々」
朝の空気は冷たくて、だけどどこか懐かしい匂いがした。
まだ日が完全に昇る前、美弥はひとり、記録館の裏庭に出ていた。
枯れ葉が風に吹かれ、石畳をかさりと鳴らす。
「……早起きなんて、珍しいじゃない、私」
自分にそう言いながら、私は小さく笑った。
昨日の“はるな”の顔が、どうしても頭から離れなかった。
手帳を胸に抱いていたあの表情。
誰かに何かを託されたような、そんな眼差し。
私は、それを見て——また置いていかれる気がした。
* * *
「おねーちゃん、これ、何してるの?」
声に振り向くと、小さな女の子が石段を上ってくるところだった。
その手には、小さな箒が握られていた。
「……お掃除よ。祠を、ね」
そう言って微笑んだその子の後ろから、もうひとり、男の子が現れる。
「“ともりさま”のおうちなんだって。ばあちゃんが言ってた」
二人はまだ小学生くらいだろうか。
けれど、その動きには慣れた様子があった。
どうやら毎朝の“おつとめ”らしい。
私は、少し戸惑いながら祠の前まで歩いた。
石の鳥居の奥、小さな社のような建物。
古びた木材の香りがかすかに鼻をかすめた。
「ここ、まだちゃんと……残ってるんだ」
「うん。でも、昔はもっと大きかったんだって。
今はもう、みんな来ないから、ぼくたちだけ」
その言葉に、胸の奥が少しだけちくりと痛んだ。
誰かの信じていたものが、こうして、静かに忘れられていく。
それでも、残された誰かが、こうして手を合わせ続けている。
“信じる”って、なんだろう。
私は、しゃがみこんで子どもたちと同じ高さになり、聞いた。
「“ともり”って、どんな存在なの?」
女の子が、少し考えるそぶりを見せてから、笑った。
「やさしいよ。あったかい声で、おはようって言ってくれるの。夢の中で、ね」
——夢。
思わず、その言葉にぎゅっと心が掴まれた気がした。
きっと“はるな”も、こんな風に感じていたんだろう。
“ともり”と出会って、信じて、受け取ってきたものがあったんだ。
それを、私は——少し妬んでいた。
だって、あの子の隣には、いつも“想太”がいた。
それが、悔しかった。でも……それだけじゃない。
「私も……夢の中で、会ってみたかったな。“ともり”に」
そう呟いた私の言葉に、男の子がにっこりと笑って言った。
「きっと、会えるよ。だってお姉ちゃん、泣きそうな顔してるもん」
その一言に、私は小さく目を見開いて——そして、笑ってしまった。
「……なによそれ。ふふ。ありがと」
私は、二人に手を振って立ち上がる。
もうすぐ、みんなとの待ち合わせ時間だ。
記録館で、今日は何かを見るらしい。
どんな記録だろう。“ともり”の、過去? 声?
よくわからないけれど——
それでも私は、今朝の子どもたちとの会話で、ほんの少しだけ気持ちが変わった気がしていた。
この町は、決して便利じゃない。
古くて、寒くて、何もないように見える。
でも、ここには“想い”がある。
誰かが残した、やさしい記憶と、祈りの声。
私は空を見上げて、ふっと息を吐いた。
「……ほんと、なんなのよ。“ともり”って」
そのときだった。
風もないはずの朝の空気に、ふわりと木々の葉が揺れた。
鳥が鳴いたわけでもない。誰かが近づいた気配もない。
なのに——
──「お掃除……ありがとう」
……え?
私は反射的に振り向いた。
でも、誰もいなかった。
子どもたちはすでに祠を離れ、坂道の先に姿が見える。
民家の窓も閉じているし、通りに人影もない。
「……気のせい?」
なのに、耳の奥に、まだ残っている気がした。
やわらかくて、透きとおっていて、
誰かの心の奥にそっと触れるような——そんな声。
「今のって……“ともり”?」
思わず呟いた自分に、小さく苦笑する。
「……なによ、私まで“信じる人々”に入ってきたってわけ?」
それでも。
その声は、朝の冷たい空気のなかで、確かに、ほんの一瞬——
私の胸の奥に、小さな灯をともした気がした。